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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2005-10
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たかがテレビ。007●NNNドキュメント「解かれた封印」で語るテレビ報道②

「押さえろ押さえろ、絵を押さえろ!」
カメラマンに撮影を指示するエンジニアの声です。その数分後、彼らは亡くなりました。

16日(日)深夜0:55~放送された「解かれた封印~雲仙・大火砕流 378秒の遺言」。(概略は前回記事参照)
復元されたフィルムをもとに、14年ぶりに当時の関係者や遺族を訪ね「あれはどういうことだったのか」を検証する内容でした。
思えば、テレビ局自身が自らを批判対象としてドキュメンタリー番組にすることは滅多にありません。そういった意味で注目しました。
結果、よくも悪くも「テレビ的な」ドキュメンタリーに仕上がっていたなぁ、という感想を抱きました。

番組内での印象的な言葉と共に、だいたいの内容を紹介しようと思います。
◇◇◇
●杉本伸一氏(島原市職員)
「写真を見ると長崎の原爆とダブる。そんなに怖いものだとは思わなかった。」

●山入端満氏(日本テレビ報道カメラマン・・・当時、記者として火山灰が積もっている現場にも入り、危険な思いをしながら生々しいレポートをした映像が映し出される。)
「取材に来たんだから普賢岳の活動をきちっと皆に伝えなきゃいけないという・・・。それを、仕事として伝えるために、来たわけだ。」

1991年6月3日午後4時8分。大火砕流に呑まれ、43人もの命が失われました。そのほとんどは報道陣。そして、報道陣を見張るために配置された地元の警察官、消防団員、タクシー運転手などでした。

43人がいた場所は「定点」と呼ばれていました。
当時、マスメディアは普賢岳の火山情報や住民の避難の様子に注目し、連日のニュース番組や紙面で大きく取り上げ、激しい取材合戦を繰り広げていました。
「定点」は、そのためのいわば前線基地。

なぜそこに各社が集中したかというと、火砕流が発生した際に「正面からの絵が撮れる」絶好の撮影スポットだったからです。

それは裏を返せば「危険な場所」でもあったわけです。しかも避難勧告地域内であるにも関わらず、警察や消防団の立合いの下で、彼らは取材を続けていました。

また、避難勧告地域内には、住民の一部も出入りしていたそうです。日本テレビが留守宅の電源を無断で使用し、不安が広がったことも、その理由の一つ。住民の中には、「報道陣さえいなければ、地元の人間は巻き込まれずに済んだ」と話す人もいるそうです。

●中村洋介氏
(当時・NNN雲仙取材本部デスク)
「安全のことをまったく無視したわけではなくて、あそこから前にはもう、出ないようにしていた。それで、いざという時には逃げられるように、タクシーもちゃんとチャーターして、エンジンを駆けっぱなしにして止めておいた。」

中村デスクの指示により、小村幸司カメラマン(当時26歳)と、ビデオエンジニアの狐崎敦さん(当時30歳)は、大火砕流の2日前に島原入りします。そして「定点」に着いてからわずか18分後に、彼らは命を落としました。現場に乗せて行ったタクシー運転手や、他社の報道陣と共に。

●吉田利一氏(長崎新聞カメラマン・・・大火砕流の直前に定点を離れた。最後に撮ったのが小村カメラマンらの姿。それは大火砕流のわずか3分前だった。)
「下から見ても火砕流が起きてるのが見えるんですよね。だから、少しでも早く行って、いいのを撮ろうと思って来たんじゃないですかね。だからもう、がむしゃらに撮ってましたよ。日テレのこの方はですね。」

14年ぶりに存在が明るみになったカメラを、いよいよ解体する様子が映し出されます。
中のビデオテープは火砕流の熱で変形し、砂や石が詰まっています。しかし慎重に解体してみたら、テープ自体は溶けずに残っていました。
復元作業を経て、はじめて映し出された映像を見る技術者たちの姿。モニターに映し出されるノイズまみれの映像。

以下、復元されたテープに記録されていた映像の音声を、字幕スーパーを基にして文字に起こしてみました。

◇◇◇
ノイズが走る映像。火砕流発生の光景を映し出す。
田園の彼方から次第に迫る噴煙。

●狐崎エンジニア「これはでかいぞ。3時59分。・・・NIB3から中継車どうぞ」

●他局の記者「民家の近くまでせまる勢いの非常に大きな火砕流が発生しました」

●狐崎エンジニア「噴火」

●本部「NIB1からNIB3号さん。」

●孤崎エンジニア「NIB3です。え~、いま凄い土石流です。いままでで最大規模だと思われます。民家までせまる勢いです。」

●他局の記者「真っ黒な煙がもうもうと立ち上っています。非常に高い空まで・・・」

●小村カメラマン「レンズが濡れているんです」

●孤崎エンジニア「ああ、早く・・・撮れてるの、ちゃんと?」

●小村カメラマン「はい、撮れてます」

●他局の記者「真上まで来ましたねえ・・・巨大な火砕流、その巻き上げた火山灰がわれわれの頭上に」

●孤崎エンジニア「これ、来るよ。これ、火山灰、こっち来るよ、これ・・・。小村、ちょっと小村」

●他局の記者「4時6分になりました。我々の所に到着した火山灰がまわりを取り囲んでいます。非常に焦げ臭いような、土の臭いのような複雑な臭いが立ちこめています。」

●警察官(拡声器で)「え~、大変危険な状態となっております。下の方まで避難されてください。大変な、大変危険な状態となっております。下の方まで避難されてください。」

カメラは、避難する報道陣や、避難を呼びかけるパトカーの姿を映し出す。

●不明「そのまんま廻しっぱなしにしといてください。」(というふうに聴こえる)

●警察官(拡声器で)「たいへん危険な状態となっております。」

●不明「・・・じゃあ、レポートを一発撮りますんで。」(というふうに聴こえる)

車から機材を取り出し、なおも撮影を続けようとする読売新聞と毎日新聞のカメラマンの姿。
再び普賢岳の方へとカメラはパンするが、あたり一面真っ白でなにも映らない。
映像と音声激しく乱れ、途切れ途切れになって行く。

●孤崎エンジニアらしき声「撮らなくちゃ。撮ってないなおまえ。」(というふうに聴こえる)

●小村カメラマン「・・・これ。」(というふうに聴こえる)

映像途切れる。

●吉田利一氏(長崎新聞カメラマン)
「ちょうど〆切時間を逆算すると4時がギリギリだったから、現場を離れた。あとで、どこかの新聞に(火砕流の直前にたまたま現場を去ったことを)『逃げた』と書かれたが、そうではない。」

●エンジニア孤崎氏の母
「夕方の4時10分過ぎって今でもいちばん嫌ですね、今でも。結局ほら、死んだ時間でしょ。だから今でもいちばん嫌な時間です。」

●エンジニア孤崎氏の父(・・・「もう二度と九州へ足を踏み入れまい」と思っていたところ、島原の人から手紙を貰い、気持ちに変化があったという。)
「『島原へ足を踏み入れたばっかりに命を落とされて申し訳ない』っていうさ・・・。あの人たちの気持ちを知った時にね、踏んぎれたというのかな・・・。殺されたんじゃない。『死んだんだ』と。」

●カメラマン小村氏の母
「取材に行く前日、家に電話があったんです。『火砕流が発生してて僕は危険だなぁと思うんだけど』っていう電話があって。『あまり行きたくないんだけど』って。私は『気をつけて行ってらっしゃいよ』って言ってしまってね。『がんばって撮ってらっしゃい』って・・・言ったもんですから、最後の最後までカメラを廻してたんかなぁと思うと、すっごく悲しいです。もう・・・もう、すごい悲しいです私は。・・・撤退するには勇気がものすごい要るわけよ。だけどそれで、火砕流が来なかったら、笑い者になっちゃうでしょ。臆病者になっちゃうでしょ。だからそういう所でみんなまた、こう・・・行ってたんじゃないの?。すごい、いい映像が、他社で撮れるとまた大変だし。」

●中村洋介氏(当時・NNN雲仙取材本部デスク)
「まあしかし、本当に、申し訳ないことをしたと。・・・まあしかし、もう少し勉強をしてても、『あそこは危険だからやめよう』という風に言い出せたかどうか・・・。その辺になると、あんまり・・・今もって自信は持てないですけどね。やっぱり・・・なんだかんだ言いながら、各社みんなあそこに張ってましたし。でも、各社が張ってても、『もう危険だからウチはやめよう』と言うのが、本来のデスクの判断でなきゃいかんとは思うんですけどね・・・。」

●番組最後のナレーション
「43人の犠牲者を出した大火砕流。火砕流の危険を理解できなかったことが、自然の脅威を災害に変えました。そして、取材のモラル。取材のために前に出ることが、地元の人たちを巻き込む恐れがあるということも知りました。悲劇を繰り返さないために、努力し続けることが、残された者の責任。14年の時を経て、復元された映像が、問いかけます。」

◇◇◇
今日の記事は、ここまでとしておきます。
僕がなぜ「よくも悪くもテレビ的だ」という感想を持ったのかは、明日、改めて掲載しようと思います。
この番組を見た方。あるいは見ていない方も、上記に紹介した番組内の言葉から感じたことがありましたら、意見をお寄せください。

☆画像は、パソコンの液晶ディスプレーを撮影したものです。
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