ジョン・パーマー「シュガー」●MOVIEレビュー
悪。その魅力
純朴な少年クリフが、夜の町でカラダを売る男娼のブッチと出会い、行動を共にするようになる。クスリの取引や、カラダを売る現場などに無邪気についていってしまう。
清らかな少年が悪の世界に惹かれ、世界の複雑さに対峙して強くなって行くという設定は、同時上映の「ハードコア・デイズ」と共通。
タイプのよく似た作品だが、こちらはよりシンプルに、人間同士のザラザラした触れ合いを、映像表現として描くことに成功している。戦略的に粗く撮影されたカメラワーク。男娼ブッチの心情や、彼が生きている世界の肌触りを感覚的に表現している。
飾らないということ
なぜ、クリフはブッチに惹かれるのか。生きている世界が違いすぎるというのに。
きっと、飾らない剥き出しの人間性に魅力を感じるのではないかと思った。
「悪」というのは人間の本質。そうでなければ宗教も法律もいらない。彼らの振る舞いは社会的なモラルには反している。しかし人間としての本質にいちばん近いからこそ発せられる輝きがあることも確かなのだ。
彼ら「はみだし者」には、裏社会でなければ生きられない様々な事情がある。
しかし映画はそこには目を向けない。ただ刹那的に若さが放つ光を捉え、彼らのどうしようもない行状を追い続ける。背景を読み取ることは観客の想像力に委ねられる。
ゲイ映画「ハスラー・ホワイト」などで有名なブルース・ラ・ブルースの短編小説が原作。
ここで描かれる世界はセンセーショナルで痛々しいかもしれない。しかし、その眼差しは限りなく「まっすぐ」だ。そしてなぜか、あたたかい。
プラトニック
男娼ブッチは男にカラダを売ってはいるが、あくまでも金のため。
彼はゲイではない。
クリフは明らかにゲイ。男娼ブッチに触れたい。しかし経験がないので手が出せない。
二人が並んでベットに寝るカットの、なんとも言えない距離感。
触れたくても触れられないクリフの表情や仕草は切ない。
そして、いじらしい。
マセた妹の毒舌による救い
純朴な少年クリフには、不思議な妹がいる。ルックスはただの小学生にしか見えないのだが、内面は非常にマセている。男娼のブッチとも気が合い、性のことやスラング、タブーを平気で口にし、兄とブッチの関係についても鋭く批評をする。いわば「トリックスター」だ。
彼女のような存在がいると、男娼のブッチも束の間、孤独から解放される。率直な者同士というのは、非常に気が合うからだ。
作者は、せめてもの救いとして彼女のようなキャラクターを創造したのだろう。その口から発せられる数々の毒舌は実にスリリングだが可愛らしい。そして、真実を衝いているだけに物悲しくもある。
制裁
男娼のクリフはクスリに侵されていた。禁断症状を抑えるために、より過激な犯罪に手を染め始める。金を手に入れるためには友のカラダまで売ろうとする。ブッチとの間にも亀裂が生じる。
そして、破滅。
主人公クリフを大人にして、映画は終わり行く。
原案:ブルース・ラ・ブルース
製作:ジョン・バカン/ダミアン・ナース
脚本:トッド・クリンク/ジェイ・ラプランテ/ジョン・パーマー
撮影:ジョン・ウエスザユーザー
出演:ブレンダン・フェア/アンドレ・ノーブル/モーリー・チェイキン/サラ・ポーリー/ヘンリー・ワインストール /マーニー・マクフェイル
●「SUGAR/シュガー」DVD発売中
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清らかな少年が悪の世界に惹かれ、世界の複雑さに対峙して強くなって行くという設定は、同時上映の「ハードコア・デイズ」と共通。
タイプのよく似た作品だが、こちらはよりシンプルに、人間同士のザラザラした触れ合いを、映像表現として描くことに成功している。戦略的に粗く撮影されたカメラワーク。男娼ブッチの心情や、彼が生きている世界の肌触りを感覚的に表現している。
飾らないということ
なぜ、クリフはブッチに惹かれるのか。生きている世界が違いすぎるというのに。
きっと、飾らない剥き出しの人間性に魅力を感じるのではないかと思った。
「悪」というのは人間の本質。そうでなければ宗教も法律もいらない。彼らの振る舞いは社会的なモラルには反している。しかし人間としての本質にいちばん近いからこそ発せられる輝きがあることも確かなのだ。
彼ら「はみだし者」には、裏社会でなければ生きられない様々な事情がある。
しかし映画はそこには目を向けない。ただ刹那的に若さが放つ光を捉え、彼らのどうしようもない行状を追い続ける。背景を読み取ることは観客の想像力に委ねられる。
ゲイ映画「ハスラー・ホワイト」などで有名なブルース・ラ・ブルースの短編小説が原作。
ここで描かれる世界はセンセーショナルで痛々しいかもしれない。しかし、その眼差しは限りなく「まっすぐ」だ。そしてなぜか、あたたかい。
プラトニック

彼はゲイではない。
クリフは明らかにゲイ。男娼ブッチに触れたい。しかし経験がないので手が出せない。
二人が並んでベットに寝るカットの、なんとも言えない距離感。
触れたくても触れられないクリフの表情や仕草は切ない。
そして、いじらしい。
マセた妹の毒舌による救い
純朴な少年クリフには、不思議な妹がいる。ルックスはただの小学生にしか見えないのだが、内面は非常にマセている。男娼のブッチとも気が合い、性のことやスラング、タブーを平気で口にし、兄とブッチの関係についても鋭く批評をする。いわば「トリックスター」だ。
彼女のような存在がいると、男娼のブッチも束の間、孤独から解放される。率直な者同士というのは、非常に気が合うからだ。
作者は、せめてもの救いとして彼女のようなキャラクターを創造したのだろう。その口から発せられる数々の毒舌は実にスリリングだが可愛らしい。そして、真実を衝いているだけに物悲しくもある。
制裁
男娼のクリフはクスリに侵されていた。禁断症状を抑えるために、より過激な犯罪に手を染め始める。金を手に入れるためには友のカラダまで売ろうとする。ブッチとの間にも亀裂が生じる。
そして、破滅。
主人公クリフを大人にして、映画は終わり行く。

「シュガー」(SUGAR)監督:ジョン・パーマー
2004年/カナダ/78分 配給:S.I.G.
原案:ブルース・ラ・ブルース
製作:ジョン・バカン/ダミアン・ナース
脚本:トッド・クリンク/ジェイ・ラプランテ/ジョン・パーマー
撮影:ジョン・ウエスザユーザー
出演:ブレンダン・フェア/アンドレ・ノーブル/モーリー・チェイキン/サラ・ポーリー/ヘンリー・ワインストール /マーニー・マクフェイル
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇006●伝説の「卑弥呼」について
前回の記事005●やっぱ女装かぁ・・・のコメントでephaさん が「卑弥呼」ついて書いたのに刺激され、ちょっと調べてみましたが・・・なかなかミステリアスな存在なんですよね、歴史上の卑弥呼って。
そして、その謎めいた存在の仕方と伝説の中に、この映画での「卑弥呼」のあり方と共通しているような部分が多々あり、ネーミングの妙が窺えます。
フリー百科事典『Wikipedia』での卑弥呼の説明によると・・・
「卑弥呼」という記述は、現在の日本国土からその痕跡が発見されたことはなく、中国・朝鮮半島の歴史書にしか記述されていないようです。(三国志時代の魏志倭人伝など)。
だから「卑弥呼」が日本史上の誰を指すのかは不明であり、そういう人が本当にいたのかも謎。いまだに決定的な「正論」に達することなく諸説が共存したままだそうです。
「邪馬台国」と「メゾン・ド・ヒミコ」を、強引に結びつけてみる(笑)
歴史上の卑弥呼は年老いてから王になったそうです。
王になってからの姿を見た者はなく、1000人の女を召使としていました。
ただ一人の男子のみが彼女と会うことができ、飲食の世話をして彼女の呪術の結果を人々に伝える役割を果たしたと言われています。
・・・「メゾン・ド・ヒミコ」の卑弥呼はここまで閉鎖的ではありませんが「一人の男子」を従えていたというのが、なんとなくオダギリジョーの演じた春彦の存在とかぶります。
邪馬台国の卑弥呼が死んだ後は若い女性が後を継ぐことになるのですが・・・これまた春彦的です。(自分と同類の者を後継者にしたという意味において。)
他者の目がなければ伝わらなかった「卑弥呼」伝説
僕が卑弥呼の伝説のあり方として最も面白いと思ったのは、「卑弥呼」と「邪馬台国」の存在は、中国・朝鮮半島の歴史書に記述されなければ伝わることがなかったという事実。
つまり「外の世界の者の目」によってはじめて、その存在が証明されているということです。
卑弥呼は積極的に、中国や朝鮮半島に使者を送り、鏡などの物資の交易を行なったと言われています。
この狭い島国の小国に生きる者として、自閉することへの危機意識を持ち、海の向こうに広がる世界に自国の存在をアピールする必要性を感じていたことが窺えます。それは邪馬台国という閉鎖社会を停滞させないために必要なことだったのでしょう。そして、小国として(マイナーなものとして)、大国と友好関係を結ぶことの重要性を認識していたのかもしれません。
自閉しないために「他者」を求める
この映画における「外の世界の者」とはもちろん沙織(柴咲コウ)。
「メゾン・ド・ヒミコ」というゲイの閉鎖社会に沙織を呼び寄せたのは春彦(オダギリジョー)の卑弥呼への愛情。卑弥呼は末期がんに侵され死期が迫っています。死ぬ前にこじれた父娘関係をなんとかさせたいと思ったのでしょう。
しかし理由はそれだけではなかったのではないでしょうか。春彦自身も、刺激を求めていたのではないでしょうか。
停滞した老人ホームでの日常。みんな年老いて行く中で若者は彼一人だけ。しかも恋人は日に日に衰え、やつれて行く。先行きの見えない中で孤独感が募り、強烈に他者との出会いを求めていたのかもしれません。
沙織が訪ねて来たことにより、「メゾン・ド・ヒミコ」という閉鎖社会には刺激が生まれます。
かなり掻き回されもしますが、沙織の若さと率直さによって確実に活性化されたのです。
他者としての彼女の目。
それがもたらした非日常。さまざまな事件と出会い、別れ。
人は、自分が生きていることを実感するためには「他者」という鏡を必要とします。
他者と生き生きとした関わりを持ち、ぶつかり合う中ではじめて、自分の存在を感じるのだと思います。そうした意味でも、自閉して滅びかけていた「メゾン・ド・ヒミコ国」は、沙織という他者によって活力を取り戻したのです。
この映画のこうした構造は、「ゲイ」として生きている者にとって、とても示唆的だと感じます。
この映画は、「ゲイ」という枠組みに自分を当てはめ、他者を怖れて自閉しがちな人たちに対する、異性愛者の作家と監督からの問題提起だと言えるのかもしれません。
もちろん自分もそんな「ゲイ」の一人です。
けっこう臆病です。その反面、他者と出会う契機を強く求めていることも確かです。
そんな自分の姿を見つめなおすことのできる映画でもありました。
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そして、その謎めいた存在の仕方と伝説の中に、この映画での「卑弥呼」のあり方と共通しているような部分が多々あり、ネーミングの妙が窺えます。

「卑弥呼」という記述は、現在の日本国土からその痕跡が発見されたことはなく、中国・朝鮮半島の歴史書にしか記述されていないようです。(三国志時代の魏志倭人伝など)。
だから「卑弥呼」が日本史上の誰を指すのかは不明であり、そういう人が本当にいたのかも謎。いまだに決定的な「正論」に達することなく諸説が共存したままだそうです。
「邪馬台国」と「メゾン・ド・ヒミコ」を、強引に結びつけてみる(笑)
歴史上の卑弥呼は年老いてから王になったそうです。
王になってからの姿を見た者はなく、1000人の女を召使としていました。
ただ一人の男子のみが彼女と会うことができ、飲食の世話をして彼女の呪術の結果を人々に伝える役割を果たしたと言われています。
・・・「メゾン・ド・ヒミコ」の卑弥呼はここまで閉鎖的ではありませんが「一人の男子」を従えていたというのが、なんとなくオダギリジョーの演じた春彦の存在とかぶります。
邪馬台国の卑弥呼が死んだ後は若い女性が後を継ぐことになるのですが・・・これまた春彦的です。(自分と同類の者を後継者にしたという意味において。)
他者の目がなければ伝わらなかった「卑弥呼」伝説
僕が卑弥呼の伝説のあり方として最も面白いと思ったのは、「卑弥呼」と「邪馬台国」の存在は、中国・朝鮮半島の歴史書に記述されなければ伝わることがなかったという事実。
つまり「外の世界の者の目」によってはじめて、その存在が証明されているということです。
卑弥呼は積極的に、中国や朝鮮半島に使者を送り、鏡などの物資の交易を行なったと言われています。
この狭い島国の小国に生きる者として、自閉することへの危機意識を持ち、海の向こうに広がる世界に自国の存在をアピールする必要性を感じていたことが窺えます。それは邪馬台国という閉鎖社会を停滞させないために必要なことだったのでしょう。そして、小国として(マイナーなものとして)、大国と友好関係を結ぶことの重要性を認識していたのかもしれません。

この映画における「外の世界の者」とはもちろん沙織(柴咲コウ)。
「メゾン・ド・ヒミコ」というゲイの閉鎖社会に沙織を呼び寄せたのは春彦(オダギリジョー)の卑弥呼への愛情。卑弥呼は末期がんに侵され死期が迫っています。死ぬ前にこじれた父娘関係をなんとかさせたいと思ったのでしょう。
しかし理由はそれだけではなかったのではないでしょうか。春彦自身も、刺激を求めていたのではないでしょうか。
停滞した老人ホームでの日常。みんな年老いて行く中で若者は彼一人だけ。しかも恋人は日に日に衰え、やつれて行く。先行きの見えない中で孤独感が募り、強烈に他者との出会いを求めていたのかもしれません。
沙織が訪ねて来たことにより、「メゾン・ド・ヒミコ」という閉鎖社会には刺激が生まれます。
かなり掻き回されもしますが、沙織の若さと率直さによって確実に活性化されたのです。
他者としての彼女の目。
それがもたらした非日常。さまざまな事件と出会い、別れ。
人は、自分が生きていることを実感するためには「他者」という鏡を必要とします。
他者と生き生きとした関わりを持ち、ぶつかり合う中ではじめて、自分の存在を感じるのだと思います。そうした意味でも、自閉して滅びかけていた「メゾン・ド・ヒミコ国」は、沙織という他者によって活力を取り戻したのです。

この映画は、「ゲイ」という枠組みに自分を当てはめ、他者を怖れて自閉しがちな人たちに対する、異性愛者の作家と監督からの問題提起だと言えるのかもしれません。
もちろん自分もそんな「ゲイ」の一人です。
けっこう臆病です。その反面、他者と出会う契機を強く求めていることも確かです。
そんな自分の姿を見つめなおすことのできる映画でもありました。
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