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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2005-10
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たかがテレビ。004●6年後、テレビを卒業しよう

ついに、今持っているテレビは6年後に使えなくなります。
そのことの認知度が思うように進まず、政府は焦っているようです。
IT Media +D LifeStyle(2005年9月30日)
テレビって生活必需品ですよ。各家庭に普及している物ですよ。なのに買い替えやチューナーの付け足しを強制するだなんて、増税と一緒じゃないですか。
そもそもテレビなんて今の画質で充分きれいだと思うし、日本の住宅の狭い部屋に大画面テレビなんて置く必要はない。お金をたくさん持っていらっしゃる一部の方々の道楽ならば結構ですが、テレビを持っている全家庭にそれを強いるとは、なんという強引な国策でしょう。

要するに政府は「財界」という政治献金のスポンサーに媚びを売る必要があるのです。
薄型テレビ、デジタルカメラ、DVDレコーダーの3つを「現代の三種の神器」だと勝手に命名し、総理大臣を広告塔に着々と普及を狙っています。
特にデジタル対応テレビは思ったように普及が進んでいないため、焦った政府による「デジタルテレビ買い替えキャンペーン」は今後ますます加速することになりそうです。NHKなどはその筆頭となり、PRを強化するでしょう。
デジタルテレビの「双方向性」なんて、ネットがこれだけ普及してる世の中に必要あるのでしょうか。せいぜい紅白歌合戦の「赤・白投票」だとかクイズ番組への参加程度にしか活用されないでしょう・・・なんという壮大なる無駄。

かつて高度経済成長の時代に使われた「三種の神器」という言葉。
テレビ・洗濯機・冷蔵庫は、その言葉の命名により国策として普及が奨められ、日本が国際競争力を強める契機になりました。たしかにそれらのおかげで生活は便利になりましたし、いまや生活になくてはならないものだと言えるでしょう。
しかし「薄型テレビ、デジタルカメラ、DVDレコーダー」は生活必需品と言えるでしょうか・・・疑問です。

特にデジタルに対応した薄型テレビは、従来のブラウン管に比べて、かなり割高です。しかもこれから需要が増えることを予期して、メーカーはなかなか値を下げません。国策なので政府がメディアを通してどんどんPRをしてくれます。政治献金の効果は見事に報われるという構図が出来上がっています。まさにやりたい放題ですね。

ブラウン管テレビや、デジタル非対応の液晶テレビなどは、大事に使えば10年以上は使えます。なのに買い替えを呼びかける政府。
あれ?
「ゴミ問題」はどうなっちゃうの?夢の島がますます悲惨なことになっちゃうよ。
地球の資源は有限なんでしょ。どうしてそんな無駄遣いを国民に推進するの?
・・・矛盾だらけ。

本来ならば、デジタル対応チューナーをメーカーから提供させ、今のテレビが使えなくなるまでの処置として各家庭に無料配布するのが筋っていうもんでしょう。

デジタル放送の普及や知名度が思うように進んでいないのは、当たり前です。
「必要がないから」です。
こうなったら、6年後を機会にテレビを卒業するしかなさそうですね。
これ以上国策に踊らされ、きらびやかな広告に流されないためにも。

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三島由紀夫とつきあってみる。005●「卒塔婆小町」のセックス論と三島的男女観

戯曲集『近代能楽集』の一篇「卒塔婆小町」を演じた経験について書きながら、改めてこの短篇に込められた三島由紀夫という人の世界観について考えてみた。
現時点で僕が知っている彼についての知識は大したものではない。しかし、その浅薄な知識と照らし合わせてみても、この戯曲には、「いかにも三島由紀夫らしい」エッセンスが散りばめられていると思う。そのことを考察してみたい。

詩人に象徴される、三島的「男性性」

この戯曲の主人公である詩人は、若い「男」である。
「男」が「女」と比較されるときによく語られる一般論として、「男は理想に生き、女は現実に生きる」という言葉がある。この詩人は、その意味での「男」である。
しかも「詩人」というのは、一般社会とは一歩距離を置きながら、自分の美(理想)を言葉によって探し求めている者のことである。
「理想を追う」ことは「男」の象徴。
したがってこの作品の世界観の中では、詩人は「男の中の男」だと言うことができる。

老婆に象徴される、三島的「女性性」

もう一人の主人公である「老婆」は、年老いた「女」である。
薄汚い公園でカップルがイチャつくのを邪魔しながら煙草の吸殻を拾い集めているという、「現実にまみれた存在としての女」である。
歳を重ねると人は大体において、理想というものを信じにくくなる。積み重ねられた現実体験が人をそう変化させることは致し方ない。
年寄りは現実の中に生きている。夢を見るとしても、それは過ぎ去った過去の記憶の中に見るのであり、未来への理想は抱きにくくなる。「現実に生きる」ことは「女」の象徴。
そういう意味では、この老婆は「女の中の女」だと強引に言ってしまうことも可能である。

☆そうではない女性もたくさんいますが、三島由紀夫は50年代~60年代にかけて活躍した作家だということもあり、あえて旧来の一般論を持ち出して語っていることをご承知おきください。ここでいう「女」とは、古い男性社会の中で語られていた一般的な「女」という概念にすぎません。

三島的「男の中の男」と「女の中の女」の対決

この戯曲は、三島由紀夫にとっての対立する二つの概念をぶつけ合った「ジェンダー論」だという風に読み取ることも可能である。しかもそれは、セックスという行為における身体性とも密接に関係があるので「身体論」でもあり、「セックスにおける男性性・女性性についての考察」でもある。

女は男に美しがられることで生きていると実感できる

この戯曲で奇妙なのは、恋愛状態がもたらす高揚感を賛美する詩人に対して、冒頭のやり取りで老婆はきっぱりと否定しておきながら、いつの間にか自分の方から詩人をたぶらかし、自分に惚れさせるということだ。
99歳の皺だらけの婆さんが、巧みな弁舌と共にいつの間にか絶世の美女、小町に変身する。
これは言葉がもたらす魔力を象徴しているのかもしれない。演劇というのは、台詞の一言一言が虚構の世界を構築して行く芸術だからである。
詩人はまんまと老婆の言葉の魔力に魅せられて、老婆のことを絶世の美女だと思い込み「美しい」と口にしたくてしょうがなくなる。
しかし老婆(小町)はそこでもったいぶらせる。
今までも沢山の男が自分に惚れてきたが、「美しい」と口にした途端に皆、死んでしまったというのだ。だから詩人も口にするべきではない。それを言ったらあなたは死ぬ、と色っぽく警告する。

男は女に自分の理想(美)を重ね、手に入れようと燃え上がる

恋愛感情による熱病状態にある人間というものは、逆境であればあるほど燃え上がるものだ。老婆の警告は詩人の炎に油を注ぐようなもの。ますます詩人の熱病は燃え盛り、老婆(小町)の美しさという幻想に酔いしれ、ついには口にしてしまうのだ。
「小町、君は美しい。」
そして残酷なことに、この言葉を口にした途端に詩人は死に、詩人の幻想が消えたことで絶世の美女・小町は元の99歳の老婆に戻る。
老婆はその後も生き続ける。そしてまた99年後に次の「男」が現れて「美しい」と言ってくれるまで、生まれ変わって待たなければならないという残酷な運命が暗示されて幕は閉じられる。

セックスの暗喩

これは、ぶっちゃけてしまえば人間の本能がもたらす営みとしての「セックス」における男性性、女性性を暗喩した描写だということが出来る。
セックスという行為において「男」は、「女」に自分の美の幻想を抱いて欲情し、一つになろうとあらゆる手練手管を用いて征服しようとする。
逆に「女」は「男」が自分に欲情してくれることで喜びに満たされ、「男」を受け入れる。

「男」は「女」を征服できた喜びを感じた途端、射精という絶頂を迎えて「死ぬ」。
「女」は「男」が絶頂を迎えたことで自分の存在が満たされるが、「男」のように一瞬で絶頂を迎えることは少ないので「死にはしない」。

結局は男性的生き方の中に「美」を求めてしまう三島的結末

こうしたことから見ても、彼は「男」と「女」という対立概念にこだわって表現をしつづけた作家であると言うことは可能だろう。しかも結局彼は、「男」という生き方の中に「美」を求めた結末を、いつも用意する。「男性性の勝利」を謳い上げてしまうのだ。
この戯曲でも、詩人が死んだ後、老婆にこんな言葉を吐かせている。
「もう99年!」
・・・彼女は自分の美しさを証明してもらって「男」に愛される瞬間のために、さらに現実にまみれて生き続けなければならないのだ。死の直前に欲求を満たし、絶頂という幸福感を味わって死んだ詩人と、どちらが辛い結末だろう。明らかにこの結末では、「女性性の敗北」を描くことで「男性性の勝利」が宣言されていると言えるだろう。

同性愛者の光と影

三島研究本において、三島由紀夫が同性愛者でなかったことを証明しようとする記述を、たまに見かける。
彼は結婚をし、妻子もいたことは事実だ。しかしそういうゲイは世の中にいっぱいいる。

彼の場合は大っぴらに公表出来ない立場にあり、そういう時代状況の中にあったから、こうした作品や自分の生き方を通して歪んだ形で表現ぜざるを得なかったのではないか。僕はそう捉えている。なぜなら、その書かれた内容や趣味・嗜好からしても、明らかにゲイ特有の特徴が読み取れるし、そう考えることが最も自然だと思われるからだ。
そして、その歪みと暗さこそが三島文学の魅力となり、表現の原動力となっているのではないかと思う。

彼は、歪んだ形で「男性性の優位」を表現することで、自らのカタルシスを得ていた。
或る意味では悲しい生き方だ。
また、或る意味では、自分の性的嗜好に忠実に生きることを追求し続けた生涯であったとも言えるだろう。
そこに是非の判断はいらない。彼の生涯は、彼にしか歩めなかった生涯なのだから。

当時と今とでは時代状況は明らかに変わった。
現代において、もう三島由紀夫は生れないだろう。
まさしく彼は、この国の戦前・戦後から高度経済成長、その飽和期に差し掛かるまでの時代が生み出した「鬼っ子」である。彼の年齢が、昭和の年号と見事に一致していることもなにかの因果だろう。

彼を読み解くことは、この国の精神史、さらには同性愛者の精神史を読み取ることにもなる。
そうした観点から、今後もこの連載を続けてみようと思う。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇004●キツイ言葉を言い合うということ

映画について場面を追って分析するのと並行して、いただいたコメントをきっかけに感じたことを書いて行こうと思います。
今回は、 002●柴咲コウの目① に対して書いてくださったyoseatumejinさんのコメントから。以下引用させていただきます。
●私はゲイの友達とか知り合いは居ないのですけれど、映画の中で柴咲さんがゲイの皆に向けてる言葉の強さがちょっと辛かったかな。苦笑。だって、ある意味人間が人間に対して暴言を吐いているという事でしかないのですし。でも、彼等はそんな柴咲さんの言葉を真っ直ぐに受け止めている瞳をしていて、実際のゲイの方々もこんな風に「きつい言葉」を真摯に受け止めるしかないのかな....って思うと、偏見って嫌だなぁって感じたりしました。

この映画での柴咲コウさんの台詞は、たしかにキツい口調でした。
彼女は目だけではなく、口でも攻撃力を全開にして、未知の人たちにぶつかって行ったと言えるでしょう。
しかし僕はゲイとして見ていても、特に不快感を持ちませんでした。それはなぜなのか考えてみました。

「きつい言葉」には、二種類あると思います。
一つは、よく知らない人に対して偏見から吐いてしまう「暴言」。
もう一つは、理解しあった者同士だからこそ言い合える「本音」。

日常生活で我々は、親しくない人に対しては遠慮して、言葉も選びながら話しています。仕事仲間や、関係の薄い友だちなど。関係をそれ以上深める必要をお互いに感じないから、言葉はよそよそしいままで変化しません。
しかし、関係を深めたかったり、お互いに興味を持った者同士だったら、交わす言葉もどんどんフランクになって行き、本音を語れるようになります。格好つける必要がなくなるので、言葉も必然的にキツくなるでしょうし、自由になります。

映画の中の柴咲さんの台詞は、前半部分のものは暴言であり、後半部分のものは愛情があるからこそ言える「本音」であるように、僕は感じました。その質は関係の変化とともに深まって行きました。だから、全体を通して受け入れられたのだと思います。

僕は、「暴言」というものにも、時には必要な場面があると考えています。「暴言」とは、それを吐いた人の内面に溜まったストレスや鬱積の爆発だからです。ある程度放出する機会がないと、溜め込まれた負のエネルギーは、さらに悲惨な行動を招くでしょう。

ただし、言ってしまった後にどうするかが大事なことだと思います。
多くの場合、「暴言」を言った本人も、言ってから自分の言葉の意味に気付くものです。「暴言」とは衝動から発せられるものだからです。
そして「暴言」を浴びせられた相手も、そのことによって相手の内面に隠されていた本音を知るきっかけとなるし、自分と相手との関係の距離を再認識できます。

その後も関係を続けたいのなら、歩み寄りの努力をすればいい。
そこで壊れてもいいと思う関係なのだと気付いたのなら、そのまま放置すればいい。
そういうものなのではないでしょうか。

「暴言」というものには、それまで停滞していた関係とか空気というものを掻き回し、新たなものを認識させる「刺激」としての意味があります。一概に悪いこととは言えないし、なんだか人間らしい一面だと僕は思います。

お互いに傷つく部分はあるだろうし、しこりとして残る部分もあるかもしれません。
しかし、ぶつかり合わなきゃ進展しない人間関係というものもある。
そして、ぶつかり合うというエネルギーの根底にあるのは、相手を理解したい、わかり合いたいという愛情なのだと思います。

この映画で、あそこまで柴咲さんが暴言を吐いても彼らの関係が続いた理由は、ゲイの父親が家出して母が早死にしたという柴咲さんの苦労を、皆が理解していたからだと思います。彼女は暴言を吐いて当然の立場であり、父親(卑弥呼)は言われて当然なのです。かなり身勝手な行動だったわけですから。

キツイ言葉の裏にあるものを周囲の人が理解できる時、その言葉は許されるものなのでしょう。そして理解できない時に、人は怒りを感じて対決するのです。
対決する意欲も湧いてこなくなる時・・・それが「別れ」というものなのかもしれないと思いました。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇003●柴咲コウの目②

柴咲コウの目から、僕は「ツッコミ」を感じます。

その突き刺すような眼光の鋭さは、あの目が見るものに対して「ツッコミ」を入れているかのような印象をもたらします。
彼女は喋らなくても瞳を動かすだけで「ツッコミ」の出来る、稀有な女優ではないでしょうか。そして、その能力はこの映画全体を引っぱって行く原動力として、全篇にわたって活用されていると言えるでしょう。
「ツッコミ」とは「攻撃性」でもあります。ゲイという閉鎖社会に対して、鋭い目を持つ彼女が攻撃的に突っ込んで行く。それがこの映画の基本構造だと言ってしまえることもできます。

「メゾン・ド・ヒミコ」の内部を、おそるおそる覗きこんだ彼女の目。
観客の目とも同化し、内部のインテリアをまさに「ツッコミまくって行く」この訪問シーンは、正直、僕にとっては心臓がバコバコになって飛び出しそうなほど、緊張感に満ちたものでありました・・・。
なぜなら、やっぱりゲイの当事者としては「どういう風にゲイが描写されるのか」は大問題。
それをチェックしたい、確かめたいというのが、僕がこの映画を観ようと思った理由の一つだからです。おそらく、他のゲイの人たちもそういう思いだったのではないでしょうか。

カバちゃんとかレイザーラモン住谷とか、おすぎとピーコとか・・・テレビを「ゲイのキャラ」で賑わしている、ああいう濃いキャラクターが出てきたらどうしよう。またゲイの珍奇な印象が強固されるような映画だったらどうしよう。そのことがいちばん心配でした。
誰もが「ゲイ」という言葉から連想する濃い「ゲイキャラ」の人たちの姿は、僕が見聞している「フツーに生きているゲイの人たち」からは、かなり掛け離れた誇張されすぎたものだと思っているからです。
そういうキャラクターを出しておけばとりあえず、多くの人たちの期待に応えることにはなるでしょう。この映画がそういう安易な方向に逃げた作品でありませんように。
これはかなり切実な願いでした。

ゲイの描かれ方。
そこにナーバスになってしまうのは、ゲイである者の必然でしょう。
カミングアウト出来ない状況で日常を過ごしているゲイの多くは、自分が周囲にどう思われているのかを気にしながら生きる習慣を、無意識のうちにしっかりと身につけています。・・・いまさらその習慣はやめられません(笑)

自意識過剰すぎるのかもしれません。しかしこの時の僕は、映画の一観客であるのと同時に、周囲の女の子たちがどういう反応を示すのか、笑い声が起こりやしないか。嘲笑されるのではないか。そんなことまで気になってしまい、かなりの興奮状態にありました・・・。

柴咲コウが視線をゆっくり動かします。
彼女の主観ショットをとらえたカメラも、ゆっくりと「メゾン・ド・ヒミコ」の壁をパン(横移動)して映し出して行きます。
ネバーっと粘着質にゆっくりと移動する画面・・・(そんなに怖れなくてもい~のに。)
センスの良さを感じさせる内部のインテリア(やっぱゲイってセンス良く思われてるの?)
壁に架けられている写真の配置レイアウトがカンペキ・・・(同上。笑)
全体的に、おとぎ話の中にでもいざなわれるかのようなムード・・・(こそばゆい~。)
←こんな感じで、その微に入り細に入り、どーでもいいようなことにまで、僕としても一緒にツッコミながら見てしまいました。(疲れる~・・・)

未知のものを、はじめて覗き込む時のドキドキ。
出会いというもののもたらす、張り詰めた緊張感。
この場面では、それがかなり上手く表現されていたと思います。

☆この連載では、映画の役名と俳優の芸名のうち、読者がイメージしやすいと思われる呼称を優先的に使用しています。その際に「敬称」は略させていただく場合があります。

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