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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

たかがテレビ。003●笑いのファシズム

テレビ映像は「絵」だけではありません。「音」との組み合わせで作られています。
試しにテレビを「消音」にしてみてください。途端にスカスカした印象になってしまいます。
「絵」にとって、いかに「音」が大切なのかが実感できると思います。

あるダンスの演出家はこの機能を逆手にとり、振りのネタ作りに困った時はテレビの音を消して「絵」の動きに集中してみるそうです。すると、普段は気が付かなかった人間の面白い仕草や表情が発見できるそうです。
たしかにそうした創造的な発見もあるのですが、もう一つ奇妙な発見もすることが出来ます。実はけっこう、音がなくても今のテレビって事足りるもんなんです。なぜなら、説明過多だから。

いつからか、テレビにはやたらと字幕(テロップ)が入るようになりました。
いまやバラエティーを筆頭に、ニュースでもドキュメンタリーでも、登場人物たちの喋っている言葉を文字で説明することが常識になっています。NHKも例外ではありません。これはテレビならではの現象でしょう。

登場人物たちは外国語を話しているわけではありません。聴き取りにくい方言を喋っているのでもありません。とても聴き取りやすくはっきりと語っているにも関わらず、まったく同じことが文字でも示されるのです。
だから音を消したところで同じこと。テレビが発する情報はほとんど、音などなくても文字で読み取れてしまうのです。

僕が思うにこの現象は、よく親に隠れて見ていた(笑)「夕やけニャンニャン」の放送されていた頃(~1987年)には無かったので、バブルのはじけた1991年あたりから顕著になって来た現象ではないでしょうか。そもそも「夕やけニャンニャン」は生放送だったので同時テロップは入れられないという事情もありますが(笑)、あの頃は面白い番組の中にはけっこう、生放送がたくさんありました。しかし「同時テロップ多発現象」が主流になるにつれ、テレビから生放送のバラエティーがどんどん姿を消して行きます。

今、ゴールデンタイムで放送されているバラエティーはほとんどが録画のようですね。同時テロップを入れて、隙間を無くして面白くする編集をするためには、そのための時間が必要ですから。

いまではテロップ付け専門の制作会社もたくさんあり、日夜ひたすら編集済みの番組にテロップを付けることを仕事にしています。僕の友人が就職していましたが、あまりの激務に精神がおかしくなりかけて辞めてしまいました。
「面白い」と思われているタレントたちの発言やギャグなどは、こうした人たちが「面白く」見えるようにしているから、より面白く感じられるのです。
「ここが面白い」「ここで笑え」と見ている者に笑う場所を説明してくれるようなあのテロップの大洪水。僕はなんだか、笑う部分まで強制されているようで嫌いです。

そもそもなにに笑うのか、なにをおかしいと思うのかは人ぞれぞれ違うはず。
ところがテレビ村の住人になると、笑う部分までみんなと一緒のことを強制されてしまう。

その裏には、意地でもなんでも「視聴者」をテレビから離れさせないように、リモコンでチャンネルを変えられないようにという、制作者たちの恐ろしい血の滲むような執念が感じられます。
彼らは視聴率という結果を出すためには止むを得ないと腹をくくっているのでしょうが、そんな人間性のカケラも無いようなシステムに振り回されている人たちにバカにされるような「盲目な視聴者」でいることは、僕はやめたいと思っています。

たかがテレビに笑いまで強制されてたまるか。
僕は、自分の笑いたい時に、自分が心から面白いと思ったものに対して腹筋を使おうと思います。

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水木荘也「或る保姆の記録」●MOVIEレビュー

これは本当に戦時下の映画なのか?

驚いた。1942年という戦争真っ盛りの軍国主義「右ならえ」の時代に、亀井文夫氏以外にも、映画でささやかな抵抗を実践していた映画人がいたのだ。僕にとってリスペクトするべき新たな映画人を発見した喜びに、心が躍った。

戦時下にも関わらずフツーの日常をそのままに活写

この映画は、なんの変哲もないどこにでもあるような保育園にカメラを持ち込み、どこにでもいる保母さんの仕事の様子を、なんのメッセージ性もなく描いている。
なにがすごいのかと言えば、「お国のために死にましょう」というメッセージを込めないと映画が作れなかったあの時代に、メッセージのない映画をつくることなど、ほぼあり得ないことだからである。

1942年と言えば真珠湾攻撃の直後であり、日本がいちばん戦勝ムードに沸き立っていた頃。皇国思想を喧伝するものでなければ「軟弱」であり「意味のないもの」として切り捨てられていた。
「ハワイ・マレー沖海戦」「加藤隼戦闘隊」のような「勇敢」で戦意を高揚させるために「意味のある」表現でなければ「女々しい」ものとして断罪されてしまう。
そんな中、戦局とはまったく無関係に日常を過ごす無辜の民のなんでもない日常を描く。なんという勇気だろう。

やはり政府の圧力を受けていた

上映を観た下北沢TOLLYWOODのパンフレットから、この映画の解説を紹介する。
「厚木たかが、戦時下の働く母と子供達の生活を、東京大井の労働者街の私立保育所を舞台に見つめた。厚木は「映画統制委員会」から呼び出され、シナリオに戦時教育的内容を加えるよう圧力を受けている。」
厚木たか氏とは、この映画の構成者。監督は水木荘也氏。政府の圧力をどう切り抜けて、この映画を制作し公開したのか・・・。反響はどうだったのだろう。これから知って行こうと思う。

戦後の再編集の謎

ただし、映画の冒頭に次のような但し書きが付けられていた事も注意しなければならない。
「この映画は戦後に再編集されたものであり、実際よりも短くなっている。」
ひょっとしたら、公開時には政府の圧力に従わざるを得なくて、戦時教育的内容を足した形のものが上映されたのかもしれない。そうだとしたら、それはどういうシーンだったのだろう。
もし戦時教育的な内容が足されていたのだとしても、制作者達が作品に込めたかった心意気は少しも揺るがない。この映画は撮影方法そのものが、当時の映画界の奔流から外れた、まさにラディカルな方法だったと言えるからである。

驚くべきカメラの透明性。取材者たちの粘り腰の結晶
人は、カメラを向けられると緊張するものだ。
フツーの人々は俳優ではない。「自然に見せるための訓練」を受けていない。
フツーの人々がカメラの前で自然に振る舞うためには、カメラに慣れる時間が必要だし、取材者達との人間的信頼関係が成り立っていないと難しい。
しかしこの映画の園児たちは、驚くべきほど自然に生き生きとカメラの前で振舞っており、主人公の保母さんもまったく緊張していない。
よほどの粘り腰で長期取材した成果であろう事が伺える。

当時の撮影機材はすべてがデカかった

当時は、今のようなデジタルカメラとは違ってカメラは重く、フィルムも高価なので経済的な事情から言っても「無駄に廻す」ことが非常に難しかった。しかもカメラを廻すと「カタカタカタ・・・」と大きな音がするので気配を消すことも難しい。
さらにカメラで同時録音は出来なかったので、録音には大きなマイクとテープレコーダーが必要だった。屋内撮影のためには照明機材も必要だし、かなり大きかったはずだ。
現場での撮影スタッフ達の存在感・威圧感は相当に大きかったことだろう。そう考えると、これほどまでにリラックスした情景を撮影できたことは、奇跡に近い技である。

大人の「意味世界」とは関係なく、自由な子どもたちの姿

輪になって歌を歌っていても、子どもたちの表情は千差万別。
はちきれんばかりの笑顔の子。
となりの女の子にちょっかいを出している男の子。
マイペースにボーっとしている子。
大あくびをしている子。

・・・そこには男女の区別もなければ、大人の都合により強制される感情もない。
子ども本来の姿というものはそういうものだし、人は誰でもそういう時代があったのだ。
( 「上海」 に出てきた、日本語の唄を無理やり歌わされている中国の子供たちの死んだ表情とはまるで対照的である。)

しかし成長するにつれて「男」や「女」という役割を背負わされ、「兵隊」や「皇国の子を産む母親」としての人生を強制される。それが60年前のこの国が、国民に強いた生き方なのである。
いつの時代にも、人は時代の要請する枠組に組み込まれてしまうもの。それを「成長」と呼ぶ。
しかしこの映画のこの子どもたちの姿は、そうした常識さえも反転させてしまうほどに、人間として魅力的な姿を見せてくれる。

記録しといてくれてありがとう

この映画がこうした「あたりまえの日常」の「あたりまえの人間の姿」を記録しておいてくれたおかげで、今日の我々は戦時下の人たちのことを「狂信的」で「盲目的」な人たちだったという大雑把な先入観から解放される。いつの時代にも、フツーの庶民はフツーに生きていたのだということを確認できる。

優れた映画は、人と人との余計な垣根を取っ払う。
本来あるべき人間としての自由で豊かな境地の存在を思い出させてくれる。
映画というものが発明されて良かった。
映像というものは、こういう風に活用されるべきものなのである。


「或る保姆の記録」
1942年、 芸術映画社、35分 
構成:厚木たか
監督:水木荘也
下北沢TOLLYWOODでの上映予定
9/28(水)15:00・9/30(金)20:00
10/8(土)13:45・10/9(日)16:30
10/12(水)15:00・10/14(金)20:00

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