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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

たかがテレビ。002●テレビを見なかった2年間

一人暮らしをはじめた最初の2年間。僕は四畳半一間で風呂なし共同トイレの、家賃2万5千円の木造ボロアパートに住んでいました。
その間、自分の部屋ではいっさいテレビを見ないという生活を経験します。正確に言えば「見られなかった」わけですが(笑)。
テレビ受像機は持っていても、部屋にアンテナ線が来ていなかったので視聴不能でした。室内アンテナを試してみたものの、映りが悪くあんなの使い物になりませんでしたから。
おもえば自宅にいた頃は、家に帰ればまずはテレビをつけ、食事中はずっと見ているほどの「テレビっ子」だった僕。その生活の急激な変化は、最初の頃は禁断症状が出て仕方が無かったのですが(笑)、人間というのは順応力に優れた動物です。そのうち何とも思わなくなり、その経験自体を楽しんで捉えられるようになりました。
ちなみに、電話回線も引かれていなかったのでインターネットも出来なかったし、新聞も取りませんでした。自分用のポストがなかったので迷惑がかかってしまうからです(笑)。

そんな暮しの中ではまず、タレントのことがわからなくなりました。
CMもバラエティーもドラマも見ないので、いわゆるテレビの中の「旬」の人の移り変わりがわからないのです。
その時期はちょうど「米倉涼子」が売り出し中で、新聞や雑誌に頻繁に登場していました。僕はなにかと活字媒体には目を通していましたから名前と顔は入ってきます。しかし動いて喋っている彼女を見ることはありません。
自分の部屋にテレビが無いと、銭湯の待合室にあるテレビを食い入るように見つめるようになってしまうのですが(笑)そこではじめて彼女の声を聴いたときにはショックを受けました。あの端正なルックスからは想像できないような、しわがれ声・・・(←訂正:ハスキーボイス)。
キャラクターにとって声というものが占める重要度を認識した次第です。

旬のタレントというのはすぐに移り変わります。知っていたところですぐ消えるのであれば、はじめから知らなくても同じこと。どうでもいいことなんだなぁと再認識しました。
彼らはテレビの中で、タレント以外の人間のことをよく「一般人」と呼びますが、そんな彼らのことを知らない僕からすれば彼らも「一般人」。テレビという世界と無関係に生きている者にとっては、知らない人は知らない人。
テレビに出て顔が売れていれば偉いという価値観を、今までいかに無意識に受け入れてしまっていたのかを反省しました。

次に、ニュースを知ることに時差が生じるようになりました。大きな出来事が起ったことを、会社に出社してから新聞ではじめて知ることになるのです。それでは半日位のブランクが生じてしまいます。
会社で同僚から「あれ、まだ知らなかったの?」というリアクションを受けることを気にしなければ特には不自由を感じませんでした。
重要な出来事は放っておいても勝手に耳に入って来ますし、それほど重要ではない瑣末なニュースに気をとられなくてもよくなります。「早く知る」ことと「なんでもかんでも知る」ということには、大して意味がないことに気がつきました。

「9・11」が起ったときもテレビを見ていなかったのですが、薄い壁を隔てた隣の部屋のおじさんが興奮してボリュームを大きくしていたので、一緒に見させてもらいました。おじさんも室内アンテナだったので映りは悪かったのですがあの映像にはショックを受けました。そして、それまであまり口を利いたことがなかったおじさんと仲良くなるという副産物もつきました。

ワールドカップで日本中が熱狂しているときも、その熱狂を冷めた目で観察させてもらいました。もともとスポーツを見ることに興味がないということもありますが、あれほど皆が熱狂していると、それを見ないということは実は勇気のいることです。中継がある日には近所中から「やった~!!」とか「キャー!!」とか歓声が聞こえて来ます。見ないことへの無言のプレッシャーを感じるとともに、寂しさと孤独も募りはしましたが(笑)。

飲み屋で仲間と飲んだ日にちょうどサッカー中継が重なったことがあるのですが、普段サッカーに全然興味をもっていないはずの人たちまでが、あの時ばかりはみんなテレビに熱中しているのが不思議でした。
僕はつまらないので帰ろうとしたら「非国民!」という時代錯誤な言葉を浴びせた人がいます(もちろんギャグで)。僕は笑顔でかわしましたが正直、無邪気に使われては困る言葉だし、そういう言葉が使われてもおかしくない熱狂ムードをテレビが作り出していることを、ますます奇妙に思いました。帰り道、道路に人がほとんど見あたらず、車もほとんど走っていない静寂の中で、「みんな日本国民というよりは、テレビ国民なんじゃないの?」とつぶやいたものです。

テレビを見ることをやめてみると、自然と世の中から「ずれる」ことが出来ます。これは、表現活動や芸術を志す人間にとっては格好のトレーニングになります。
自分が「ずれて」しまえば、世の中に対して言いたくなることが勝手に次から次へと噴き出てくるようになるからです。
テレビは多くの人の生活にとって密接な関わりを持っているので、人々の思考はいつの間にか「テレビ的」になっています。よく言われているそのことを、自分の皮膚感覚として感じることができました。問題意識も、作ろうとしなくても生活の中から湧き出てきます。僕は自分のライフワークとしてメディア批評をして行こうと思っているので、これは嬉しい発見でした。

ただ困ったことは、天気予報も見なくなったために、知らないうちに台風が来ていて慌てることが何度かあったこと(笑)。まあでも、かつて戦時中は敵に弱点を知らせることになるので天気予報が禁じられていたわけだし、その中でも人は生きていたわけで・・・(←ちょっと強引っ!)

とにかく、テレビなんて見なくても人は生きて行かれます。言い換えると、テレビを見ないほうが、ある意味においては「生きていられる」のかもしれません。

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大きなものと小さなもの

暴走させないように
破滅させないように
大きなものが小さなものに
気を使う

大きなものが
誰よりもたくさん持っているものを
小さなものには禁止して

大きなものが持っていても「悪」ではなくて
小さなものが持っていたら「悪」

小さなものを
そこまで追い詰めたのは
誰?

小さなものが
引き裂かれたのは
そもそも誰のせい?


☆画像は、2005年9月20日付の東京新聞12版1面です。
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