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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

三島由紀夫とつきあってみる。003● 「卒塔婆小町」体験記②

今回、ひさびさに「卒塔婆小町(そとばこまち)」を読み返してみた。9年ぶりだ。
文庫本でたったの21ページ。あっという間に読めてしまう。今の視点から読み返してみると、想像以上に面白い戯曲だった。

それにしてもかつての自分は、どれほどこの台詞の面白さを理解していたのだろうか・・・あの頃はわからないままに、ただ単に暗記して喋っていただけなんじゃないかと思うと、冷や汗が出てきてしまう。
もし今の自分が演出家で当時の自分を目の当たりにしたら
「全然わかってないっ!なんだその口先だけの表現は・・・出直して来い!」
と、灰皿投げつけて罵倒しまくるであろう。
恋愛の「れ」の字も知らず、単なる演劇バカだったあの頃の僕に、この作品が理解できるはずもない。演技というものはやはり、演者の人生経験が滲み出てこそ人に見せられるものだから。

しっかし三島由紀夫はすぐに男を殺す(笑)。
しかも早死にするのは必ず若くて純粋な美男子。女は反対にたくましく、男の死を乗り越え生きて行くというパターンが、どうも好きらしい。この作品は、いわばその王道である。

能の謡曲として名高いこの物語は、小野小町と深草少将の百夜(ももよ)通い伝説がベースになっている。
小町の美しさに魅せられ求愛する深草少将。
小町は少将に、百夜通えば百日目の夜に契りを結ばせることを約束する。
少将はがんばって99日目の夜まで通い続けるのだが、いよいよ100日目になって大雪の中で凍死してしまうという、ヒジョーに可愛そうな物語。

三島由紀夫はこの物語を、現代のうら寂れた公園に場面を設定しなおし、小町を99歳の老婆にし、深草少将を酔いどれの詩人にした・・・要するに、かなり「醜く」書き変えたのである(笑)。
恋人同士がベンチで愛を囁き合う夜の公園に、老婆は夜な夜な出現する。カップルの邪魔をして意地悪くベンチを占拠するのだ。そこへ酩酊した貧乏な詩人が話しかけ、二人の恋愛談義がはじまる。

この詩人が、かなり理論家で頭でっかちなロマンチスト。
たぶん恋愛経験はないのだろう。恋愛というものを頭の中だけで理想化し、崇高なものだと思い込んでいる。そして、周囲のベンチで愛を語り合う恋人達を賞賛し、老婆にこう語る。

詩人「僕は尊敬するんだ。愛し合っている若い人たち。彼らの目に映っているもの、彼らが見ている百倍も美しい世界、そういうものを尊敬するんだ。」

しかし老婆は詩人の甘ったるいセンチメンタルを嘲笑って否定する。

老婆「ふん、あんたは若くて、能なしで、まだ物を見る目がないんだね。・・・あいつらこそお墓の上で乳繰り合っていやがるんだよ。・・・そら、あいつらは死人に見えやしないかい。ああやってるあいだ、あいつらは死んでるんだ。」

恋愛状態で熱に浮かされることを「生」だという詩人。「死」だという老婆。
この対比が面白い。

僕の相手役の女性は当時20代だったため、この深いテーマをどう自分のものとして引き付けて演じるべきか戸惑っていたようだ。よく二人で台詞の解釈について話をした。
台詞を憶えて口に出すことは、誰にでも出来る。
しかしその一言一言に血を通わせることが出来るのかどうか。生きた自分の言葉として肉体化できるのかどうか。そこで、演者の人間としての度量や人生経験が問われてくるのだ。

今思えば、彼女とは本当によく会って稽古をした。いちばんよく稽古をした場所は皇居前広場だ。
ベンチがいっぱいあって、広い割には人が少なく、台詞を喋っていても怪しまれない雰囲気があるからだ。

若い男女が二人きりで会う。そこには色っぽい展開が期待されがちではあるが・・・
ご存知の通り僕は女性に性的魅力を感じないから、彼女のことを性的欲望の対象として見る事は、まったくなかった(笑)。
当時はまだ自分がゲイだという自覚はなかった。
恋愛というものに興味がなかったので彼女を異性として意識することなど、考えつきもしなかった。
彼女の方は、どうだったのだろう・・・。
不思議と「女」を感じさせない雰囲気の人だったから、長く一緒にいても自然でいられたのかもしれない。彼女もなんとなく、性の垣根を越境しているような人だった。

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