挑発と風刺~詩「ある平均的日本人OLの会話」批判に応えます

皆さん、思ったことを率直に書いてくださったので嬉しかったです。
その中には、この詩で僕が使った言葉遣いや表現方法、あるいはコメント欄での補足説明に関しての批判もありました。
僕は、真摯な気持ちから発せられた批判ならば大歓迎です。僕としても色々と考える契機になりますし、自分の表現についても、再び捉え直して反省することができます。
批判のないところに成長はありません。
僕はこのブログは「仲良し倶楽部」的なものではなく、読んでいる人にとっても僕にとっても、お互いに刺激し合えるような場であって欲しいと思いながら書いています。ですから今後も遠慮せず、思ったことを率直に書いてくださいね。
さて今回の批判を受けて、現在の僕の意見を整理してみました。そのためには僕の現在の政治的立場についても言及する必要があると思い、長くなって恐縮ですが書いてみました。目を通していただけると嬉しいです。

僕は早朝からの仕事をしているので、残業をしなければ昼には仕事が終わります。
その日は仕事を終えたらすぐエレベーターに乗り、これから昼休みだという彼女たちと一緒になりました。そして、この会話を聞くことになったのです。
まだ選挙の翌日だったので僕は感情的に「ホット」な状態でした。したがって彼女たちの会話には、かなりの衝撃を受け、打ちのめされました。そして「これはブログに書いて自分らの現状を見直す契機にしなければ」と思い、勢いで掲載したというのが本当のところです。
その前日、9月11日の選挙当日に僕は「気をつけよう」という詩を載せています。
そこで怖れていたことが、もはや現実のこととして進行していることに、黙ってはいられなかったからです。それはいわゆる「衆愚政治」の現実化とでも言いましょうか・・・。

テレビにおいてはNHKの番組制作に政府が介入していた事件が表面化したことが記憶に新しいかと思います。あれはあくまでも氷山の一角であり、目に見えないところで握りつぶされている番組企画は相当な数に上るでしょう。政府によるメディア統制はますます強化されています。体制批判を展開する著名なニュースキャスターは降板し、社会批判を展開する良質なドキュメンタリー番組は、深夜帯以外には見る影もなくなりました。僕が大学生だった10年前には、もっと鋭く尖った番組がたくさんありました。ところがこの5~6年で、テレビは大きく様変わりしています。テレビの良心的な表現者たちは活躍の場を奪われ、どんどん牙を抜かれているのが現状です。
自民党はPR会社と強力なタッグを組んでいます。そして今回の選挙では争点を「郵政民営化」「改革の実行」というわかりやすい言葉で単純化しました。
「改革」という言葉は前向きなイメージを人々に与えます。先行き不透明な時代の不安感を、なんとかしてくれそうなイメージを人々に発信することが出来ます。

アメリカとの同盟強化の行き着く先は「徴兵制」の施行でしょう。現にお隣の国では施行され続けていますし、自民党の言う「普通の国」とは「徴兵制が普通にある国」だということは、普段洩れ聞こえてくる有力者たちの本音発言からも明らかです。今のところ憲法第九条の存在が歯止めになっているのですが、ここまで議席を獲得してやりたい放題の環境が整ってしまったら、いよいよ改正も現実化してしまうでしょう。
男女機会均等が進行している現代においては、女性といえども徴兵されるかもしれません。若者だけではなく、大人であれば誰でも対象となり得ます。これは冗談ではなく、間近に差し迫った問題として肝に銘じなければならないと思います。
今回、争点の中心だとマスメディアが騒いだ「郵政民営化」は、あくまでもたくさん掲げられているそうしたマニフェストの一つにしか過ぎません。彼らは、争点をそこに絞ればイメージ戦略として勝算があることを見越した上で、解散総選挙をイベントとして仕掛けてきたのではないか。僕はそう捉えています。
彼らの目論見どおり無党派層の多くは「郵政民営化」という氷山の一角に目を奪われ、「改革」という言葉の魔力に魅せられて自民党に投票しました。しかし、そのほとんどの人々はその下に潜む自民党の本当の思惑の存在を見落としているのではないでしょうか。

テレビ映りが良く、フォトジェニックであり、声の質も人々に安心感を与えます。
彼のキャラクターは、理屈を超えたところで人々の潜在意識に安心感を与えるのです。
記者会見をする姿を見ても、メディアに映されることへの訓練がしっかりとなされていることがわかります。カメラのフレームからはみ出さないように身体を横に揺らさない。まばたきを最小限に抑えて視聴者の吸引力を高める。一言わかりやすいフレーズを口にしたら、聞き手が解釈できるように適度な「間」を設ける。・・・PR会社が訓練したと思われるこうした「テレビ映り」を良くするための表現技術は、長年の首相経験でしっかり身に付き他の追随を許さないレベルにまで上達しています。
それはスター俳優が身につけている映像演技のテクニックと酷似しています。
こうしたことは本来、政治の場において最優先されるべき「政策」とはまったく関係がありません。
しかし、集団心理というものはこうしたことに流されやすいのが事実です。かつてヒトラーは巧みなメディア戦略でドイツの良心的一般市民の心を鷲掴みにしました。ナチスドイツを構成していたのは、ごく普通の人たちです。悪魔ではありません。不況のさなか、「改革」という旗印を掲げたヒトラーを支持したのは、あたりまえに日常を過ごしている善良な人たちだったのです。
だから僕は、彼女たちの無邪気な会話に直面した時、危機感を強く持ちました。
彼女たちの会話からは政策ではなく「小泉純一郎」というキャラクターを無批判に支持している様子が伺えるからです。まるでアイドルタレントの一人であるかのごとく。

僕自身も「平均的」だとか「日本人」だとか「OL」という抽象的で曖昧な言葉を用いることには抵抗があります。それらの言葉は、人を個人として見るのではなく「ステレオタイプ化」してしまう種類の言葉です。あまり使いたくありません。
しかし、あえて使うことを選択しました。批判は覚悟の上でした。
使うことにより、この詩の表現に挑発的なニュアンスが加算され、風刺の意味が込められると思ったからです。
新聞の政治欄に載っている風刺漫画と同じような感覚・・・と言えばお分かりいただけるでしょうか。
そしてそれは、あくまでも僕の主観です。
そもそもこうした詩による表現は、作者の主観以外の何物でもありません。主観以外になにを書けるというのでしょう。文章というものは個人が書くものであって、主観表現以外はあり得ません。
たしかに「平均的」という言葉は少し乱暴ではありますが、いつもだったら投票に行かないような都市部の無党派層の多くが今回は自民党を支持したこと。そのことをふまえて使った言葉です。

昨年、イラクで3人の日本人の人質が解放された時に、帰国した彼らを暴力的なまでに「自己責任論」という世論の波が襲いました。その後、その行き過ぎが急激に見直されたわけですが、あの一件からも、今日の我々がいかにマスメディアが煽る世論に流されてしまいがちな状態にあるのかがわかるかと思います。
「みんながそう思っているみたいだから、自分もそう思う。」
こういう思考パターンは危険です。自分の頭で思考した結果ではないから簡単に変わります。その分、権力者からしてみれば好都合。コントロールしやすいからです。60年前に、そのことの愚かさに打ちひしがれ多くの涙が流れたということは、けっして忘れてはなりません。
「OL」という言葉は、僕が目撃した人たちがたまたまOLであったために使いました。
小泉首相は男性であり、彼のイメージ戦略が女性層をターゲットの中心にしていたことは事実です。現に数年前「純ちゃん」と呼ばれてアイドルまがいの写真集を出版したり、自民党のポスター=小泉首相のアップ写真というビジュアル・イメージが継続されていることからもわかるでしょう。僕が目撃したわが社のOLたちはそのPR戦略に、まんまと乗せられているからこういう会話が出来るのだと思います。

僕は、彼女と自分とはまったく異質なものの感じ方をすることが面白くて友人関係を続けています。
たまに口論になることもありますが、僕はそういう彼女を否定はしません。観察させてもらっています。
(スミマセン。基本的に僕ってそういうスタンスなんです。噛み合わない意見をぶつけ合って喧嘩して友人関係を終わらせてしまうよりも、異質であることを面白がってみる。そのことで見えてくる新たな発見を期待してしまうのです。意見の相違なんて、その人の人間性のほんの一部であって全体ではない。意見が違う人を自分の周りから排除したり否定することからは、「争い」しか生まれない。僕はそう考えます。)
こうした僕の経験から、僕なりの批判や皮肉も込めて、あえて「OL」という言葉を使用することを選びました。
もし目撃したのが「サラリーマン」だったらそう書いているし、「ゲイ」だったらそう書いていたかもしれません。
僕の場合、たとえ「ある平均的なゲイの会話」としてなにかを書かれたとしても、それが風刺表現として的を射ていると思ったら、気分を害するどころか笑い飛ばして受け入れるでしょう。
もし自分がそれに当てはまらないと思っても気分は害しません。自分は平均的なゲイではなく特殊なゲイでよかったなぁと、ホッと胸をなでおろすでしょう。そもそも、その程度の事で腹を立てていたら、今日までゲイをやってられません。叩かれたり中傷されたりすることには慣れています。

でも不快な思いをするということは、あなたは「平均的日本人OL」ではないということでもあります。
そのことを誇りに思ってください。
昔から落語や歌舞伎などの大衆芸能の世界では、様々な趣向をこらして自分たちの愚かさや権力者の無慈悲を笑い飛ばし、世の中を批判してきました。この詩もそうした表現の一種だと思っていただけると幸いです。こうした表現が「毒」を持ち、表現としての強度を増すためには、ある程度のステレオタイプ化やカリカチュアはやむを得ないことだと思います。
以上の理由で、僕はあの詩の表現を否定しません。
僕がこれらの言葉を使用したのは「蔑視」からではなく、あくまでもこの詩の表現に「風刺性」と「挑発的なニュアンス」を持たせたかったからです。
万人に心地よく感じられるものは表現とは言えません。表現とはある意味、他者への挑発だからです。だから僕はこの詩の表現に自主規制をして変更する必要性を感じません。
また、コメント欄で返信した僕のコメントについても読み返してみましたが、偽らざる僕の気持ちが書かれていると思いました。記事と違ってコメント欄では即興的に書いてしまいがちなので言葉遣いが辛らつではありますが、僕はこういう考え方を持っている人間です。しかもかなりの毒舌家です(笑)。もし違和感を感じられたのならどんどん指摘していただいて、また言葉を交わし合ってお互いの思考を深めて行きましょう。

さらに意見がございましたら書いてください。
よろしくお願いします。
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