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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2005-08
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八月納涼歌舞伎「法界坊」●PLAYレビュー

歌舞伎を観たのは10年ぶりだ。

10年前の僕は「東京に出てくる」ということだけで興奮し、見るもの聞くものが珍しかったというおめでたい奴だった。「こ、これがあの有名な歌舞伎座・・・本物だぁ・・・」と建物を見上げながら単純に感動したことを憶えている。

当時は学生だったから当然のごとく金はない。
いちばん安いチケットを買い3階席の後ろの方から観たのだが、そこで巻き起こる現象のすべてが面白くて新鮮だった。

遠く下の方に見える舞台に向かって、隣の席のおじさんが突然「ヨッ○○屋っ!」と声を掛ける驚き。しかも何人もあちこちから声を掛けるのに、しっかりと声が揃っているのも不思議。
大きくて色鮮やかな舞台セットと、役者の衣裳にも目を奪われた。物語の筋はわからなくても、舞踊として視覚をちゃんと楽しませてくれる。
そしてなにより、場内に漂うあたたかな雰囲気がいい。
現代劇(新劇系)の舞台に親しんでいた僕にとっては、観客が作り出す歌舞伎座独自の「場」の雰囲気が珍しかったし心地よかった。

その後、行く機会はなかった。なんとなく取っ付きにくい印象は拭えなかった。歌舞伎独自の様式や物語に親しんでおかないと、やっぱり敷居が高く思えてしまう。

しかし今回突然、観る機会が訪れた。10年前の感激の記憶と照らし合わせながら、今の僕がなにを感じるのかがとても楽しみになり、出かけてみた。
歌舞伎鑑賞2回目の、とても素朴で幼稚なレビューになることをお許し願いたい。

えっ、あの人たちみんな男?・・・性の超越ぶりがあまりにも自然。

一階席のほぼ真ん中という好条件での観劇。舞台が近い。花道も近い。10年前とはまったく別の劇場に来たみたいだ。
イヤホンガイドを借りて準備は万端。緞帳が開いてさあはじまった。

お茶屋の店先で女中さんたちが歌舞伎調の台詞回しで喋っている。
来たぞ来たぞ、これぞ歌舞伎っ!
綺麗で華やかで明るい世界に浸ろうかと思いきや、ん?・・・そういえば。初歩的な疑問が頭をよぎる。

歌舞伎役者ってみんな男なんだよねえ。たとえ女中さんの役でもそうなんだよねえ。
えっ・・・あの、どう見てもナチュラルに軽い身のこなしで女として振る舞っている人が、実生活では男なのか?
声だって全然太くない・・・。さすが。歌舞伎の芸は幼い頃からみっちりと仕込まれるというから、これは訓練の成果なのだろう。
「女形」というにはあまりにもナチュラル。「女」を誇示していないのに自然に女として舞台に存在している。舞台上における性の越境ぶりの自然さに、クラクラと軽いめまいがした(笑)

串田和美さんが演出という期待。

歌舞伎は一日中上演している。僕は夜6時からの「法界坊」を見たのだが、演出は串田和美さん。なんと、現代演劇界におけるビッグ・ネームではないか。

かつて「オンシアター自由劇場」を主宰し吉田日出子さんらと「上海バンスキング」などのヒット作を作った彼。現在ではフリーの演出家として数々の舞台を演出し続けている。
歌舞伎の演出は何度か経験があるらしいが、僕は今回はじめてそのことを知り、驚いた。
黒テントなどで実験的で先鋭的な舞台を演出してきた串田さんが歌舞伎!?。
野田秀樹さんや蜷川幸雄さんも最近は歌舞伎の演出に進出しているという。
それだけ歌舞伎界が「新鮮な現代の空気」を取り入れ、革新して行こうという意欲に満ちているのだと思う。なかなか面白い展開であり今後が楽しみだ。

役者同士の関係性を丁寧に構築。「様式」で死んだ演技を否定する。

串田さんの演出は、俳優の演技の質に如実に現われていた。

基本的には歌舞伎の節回しを大切にしつつ、時々、まるで現代劇であるかのような「遊び」を俳優にやらせるのだ。
上手い俳優は、そうしたアドリブであるかのような「遊び」を楽しみ、客席を沸かせる。それは相手役との関係性をしっかりと把握し、「様式だから」という安心感に埋没してしまわない「生きた」演技の形である。しかし「遊び」はあくまでも「遊び」。歌舞伎調の様式という基本にすぐ戻れるからこそ遊べるのである。

「現代的遊び」と「伝統様式」との行ったり来たり。
その浮遊した演技感覚が自ずと俳優たちに緊張感を持続させ、観客にもスリルを与える。
だから歌舞伎なのにちっとも眠たくならないのだ。

主役の法界坊を演じる中村勘三郎さんは、その点やはり「ピカ一」で、演出家の要請を見事に消化していた。
法界坊とは「悪僧」のことなのだが、基本的にダラダラとした崩した姿勢で存在し、幼子のような幼稚さも兼ね備えたコミカルな役柄を飄々と楽しんでみせてくれる。身体が身軽だし、アドリブもバンバン入るから目が離せない。
彼が舞台にいる時といない時では、「場」の温度が明らかに違うように感じられた。

伝統芸能というものはどうしても「様式」に甘んじて死んだ演技をしがちになる。
見ている者は退屈しやすく、眠くなりがちだ。
しかしこうした現代劇における演技の基本を導入することによって、生き生きと躍動をはじめるのだ。だからこそ、歌舞伎界から現代演劇の演出家へのラブ・コールが絶えないのだろう。
歌舞伎界は、生き残るための大切な鉱脈を見つけたのである。

歌舞伎とは「見えないはずのものを見せてしまって、あっけらかんと笑い飛ばす遊び」である。

物語は基本的には、封建制度の理不尽さに翻弄され、恨みや妬みがぶつかり合って殺し合いにまで進展して行くという歌舞伎の王道どおりの展開。

きれいだったはずの登場人物の心に潜んでいた「エロ」や「悪」が、どんどん露呈してゆくさまはグロテスク。滑稽なくらいに様式で誇張されるものだから、その露悪的な物語がちっとも陰惨には感じられないのがいい。

立ち回りで相手の腕を切り落としたらユーモラスに飛んで行ったり、顔を切りつけたらパカッと割れて中の肉が丸見えになったり。本当ならば正視するのも憚られるような気持ち悪い出来事を、平気で軽々とやってしまうのだ。
演出家は、こうした歌舞伎の特色を意識的にわざと誇張して、際立たせる仕掛けをいくつも設けている。

黒は「見えないもの」の象徴。そこをあえて「見せる」演出。

たとえば、暗闇の中で何かを求めて探りあい、立ち回る「だんまり」という無言劇の場面。
本来は背景に黒幕を張ったり照明を暗くして「暗闇」を表現し、その中をスローモーションのように皆が動きまわるというスタイルなのだが、串田演出ではわざと客席の電気までつけて煌々とまぶしい中で「だんまり」を行わせた。
最初は違和感があってどう観たらいいのか戸惑う観客も、しだいに「普段は隠されていて見えないもの」の細部までじっくりと観ることの楽しみを見出して行く。

「黒子」の存在も際立たせた。「黒子」は本来、舞台上に出てきても「見えないもの」として扱われる存在。ところが串田演出は黒子にも物語に介入させ登場人物とコミュニケートさせたり、意志を持った人格としてさまざまな悪戯をさせている。

雷の場面ではわざと「風神・雷神」のパネルをあざといまでに吊るして登場させ、目には見えないはずの自然界の神々の存在をも舞台上に現出させる。歌舞伎の持つ「あざとさ」を余計に際立たせて批評してみようという試みを感じた。

そして、たぶん串田さんが最も(?)こだわったであろう演出が、二幕のラスト近くにあった。
法界坊が幽霊となってロープで吊るされ、客席の上を彷徨う場面のあと。
吊られた幽霊が姿を消し、さあこれで終わりかと思いきや、いきなり舞台の隅に大きなサーチライトが一つ登場し、ものすごい光量で天井を照らし出す。縦横無尽に動き回るライトの先に、
なにかが捕らえられて照らし出されるのかのような期待を持たせておいて、結局はなにも照らし出さずに、行き場をなくしたかのようにライトは去って行く。
一見すると意味がない。しかし、何かが暗示されているような気がして胸に引っかかった。

謎のサーチライトが象徴するもの。

観劇当日の僕は、この謎の演出の意味がわからなかった。
物語とは関係のない意味不明なことをするということは、演出家がその場面に強いこだわりを持って仕組んだということを意味する。あの仕掛けはなんだったのだろう。

今日になって突然わかったような気がした。
あれは「見えないものを見えるようにしたい」という、「露悪」への憧れを持ち続ける人間存在というものを象徴したかったのではないだろうか。
「なかなか見えない」からこそ、「もっと見よう」と思って人は惹きつけられる。しかも隠されていて「悪」の香りがするものに、人は根源的な魅力を感じて引き寄せられる。エロスというものはそういうものだ。

しかし現代社会はそうした「悪」や「汚いもの」をどんどん、社会の表舞台から抹殺して「クリーンな」管理社会へと変貌しようとしている。人間本来の多様性は否定されて画一化され、不自由で息苦しい社会を我々は築きつつある。
そうした流れの中でも人間の根源にはやっぱり「悪」がある。「悪」とは「人間の本能」の別名だと僕は考える。本能を無くしたら、すでにそれは人間ではない。

社会の息苦しさによって「悪」のガス抜きができにくくなってしまったら、歪んだ形で「悪」は蓄積されて行く。鬱積されたマグマはいつか必ず噴火する。そのための出口を塞いでしまうのが現代社会。じゃあ、どういう形で噴火すればいいのか。自分で新たに捜さなければならない時代なのだ。

歌舞伎は「悪」をあっけらかんと舞台上に提示し、観客に大笑いさせたり美しさに酔わせたりする。昔から「悪場所」と揶揄されながらも人々に求められて来たのは、歌舞伎のグロテスクな「悪」を見に行くことで、自らの「悪」をガス抜き出来るからなのかもしれない。

本当の暗闇の深さを知らなくなったわれわれ。

あのサーチライトは、現代のわれわれの欲望の姿だ。
幽霊を探しても、私たちには見えなくなってしまった。
あまりにも明るくクリーンで清潔な「良識」の灯りに包まれることに慣れてしまったから。
もう、幽霊や魑魅魍魎たちのおそろしくも魅力的な姿に、本当の意味で怯えることが我々には出来なくなってしまった。
そもそも東京に住んでいると、夜でも「闇」がない。
深夜でも地上のネオンサインが夜空を染め上げていて、路地という路地には外灯が赤々と点いている。闇に潜む幽霊の存在など、想像すら出来なくなる。
こうして人間としての本能は、どんどん鈍くなり殺されてゆくのだ。

なんとつまらないことだろう。
闇の深さを知らなければ光の素晴らしさも知ることは出来ないというのに。

そう思うと、あの日見た歌舞伎のすべての場面が、遠い世界にある懐かしいけれどももう届かない、グロテスクな夢の世界に思えてくる。なんだかせつない。

見えないからこそ見ようとする。
見えないものがなくなったら、見ようとすることすらしなくなってしまう。

そうした力に対抗し、人間のありのままをみつめようとする営み。
昔も今も、歌舞伎の本質は「ロック」である。


「法界坊(ほうかいぼう) 」
序幕 深川宮本の場より
大喜利 隅田川の場まで
浄瑠璃「双面水照月」
演出・串田和美(ポスターの人形制作も→)
歌舞伎座にて8月28日まで

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