豊田四郎「夫婦善哉」●映画レビュー

開映30分前に行ったのに危うく入れなくなりそうだった(笑)。いつも閑散としているはずのフィルムセンターには行列が出来ていて場内はすでに満員。やはり愛されている作品はちがうなあ。上映を見たら・・・なるほど。人気の理由が充分すぎるほどわかった。
場内に漂うあたたかな一体感
いくら衛星放送やDVDが普及しようとも絶対に家庭では再現できないこと。それは劇場で観客同士が作り出す一体感だ。おかしい時に笑い、悲しいときに涙する。周りの皆が笑うから一緒におもいっきり笑える。だから一人で観るより何倍も感情が発散される。一つの映画が、見知らぬ人と人とを結び付けるチカラを持つ。
この暖かい雰囲気は、かつて銀座にあった並木座を彷彿とさせるものがあった。
こうした雰囲気を作り出せるチカラを持つ映画は、そうたくさんあるものじゃない。
この映画は、その条件を見事に満たした稀有な作品である。
役者が楽しんで演じていると、奇跡が起こる

森繁久弥演じる情けないボンボン旦那と、淡島千景演じる快活な芸者。二人の駆け落ちからはじまり、その後巻き起こる様々な泥臭い生活の情景が描かれる。
関西弁でなされる二人の会話が実に小気味良い。まるで夫婦漫才を見ているかのよう。特に森繁氏は、たとえシリアスなシーンでも絶対に素直には演じない。わざとカッコ悪く崩して、ユーモラスに演じるのだ。
カッコ悪い人間にこそ、人は親しみを持つものだ。
この映画の成功は、主人公の二人に観客がどれだけ親しみを感じ、人間の滑稽さを笑い飛ばせるかにかかっていると思う。森繁氏の力量でその点を見事にクリア出来たからこそ、この作品は50年後の今でもなお、人々に愛され続ける名画と成り得たのだ。

それに対してこの映画での淡島千景さんは、一生懸命役を演じているという感じが拭えない。その真摯な姿が魅力的であり目が離せないという別の効果をもたらしてはいるのだが(笑)、
もう少し亭主を尻に敷く女の底力という感じの風格があっても良かったのかなぁと・・・淡島千景ファンとしては思ってしまうのであった(笑)。でも、かえって若い芸者の瑞々しさが可愛く表現されているから、その一生懸命さは良かったのかもしれない(爆)。←ファンの甘い採点をお許しあれ。
総じて、この映画には「映画の神様」が舞い降りてきているという奇跡を感じた。
機会があれば劇場で見るべき。劇場で、大勢で見てこそ、この映画は本当に光り輝くのだ。
言葉に出来ない愛情表現・・・豊田演出の真骨頂

この映画で特に印象に残ったのは、淡島千景さん演じる妻の身体演技だった。
いつもフラフラと居なくなりがちな亭主が、久々に戻ってきたことに気付いた妻。玄関に亭主の草履があったのだ。それを見るやいなやパーっと顔が明るくなり、軽やかな足取りで階段を駆け上がる。でも、そのまま会うのはちょっと悔しい。
亭主に声をかける直前、ふすま越しに体勢を整え、わざとツンとすましてから悪態をつく。亭主もそんな妻の気持ちをわかっていて、悪態を返す。一通り挨拶代わりの小競り合いが済んだ後、妻は障子戸を閉めて亭主に「おねだり」をする・・・(笑)。
この一連の演技が実にかわいらしい。そして、なんだかジーンとくる。
親しければ親しいほど、照れてしまってなかなか愛情表現が素直には出来ないものだ。こうした、決して台詞では表現できない微妙な心理の襞が、アクションで生き生きと表現される。
きっとこの監督は、人間同士の友愛や、愛情表現というものに対する繊細で鋭い感性を持っていたのだと思う。
ラストの二人はサイコーに可愛い。

こうした場面も実に軽くサラっと流すように描かれるのだが・・・なぜだかジーンと来てしまうのだ。
いいなあ・・・こんな風にワイワイ言い合いながら雨風を乗り越えて行けるパートナーがいたら暖かいだろうな。
まぁ、この二人の場合は一緒にいればまた苦労は続きそうだけど(笑)
人生を楽しむってこういうことなのかも・・・と、愛すべき可愛い二人の姿を見ながらそう思えてしまうのであった。
この映画の人気の秘密は・・・そこに夢があるから、ということなのだろう。
文句なし!森繁久弥の代表作。
文句なし!淡島千景の代表作。
文句なし!豊田四郎の代表作。
これぞまさしく日本映画の良心。

製作=東宝 1955.09.13公開
製作 ................ 佐藤一郎
監督 ................ 豊田四郎
監督助手 ........... 中村積
脚本 ................ 八住利雄
原作 ................ 織田作之助
撮影 ................ 三浦光雄
音楽 ................ 團伊玖磨
美術 ................ 伊藤憙朔
録音 ................ 藤好昌生
照明 ................ 石川緑郎
編集 ................ 岩下広一
製作担当者......... 馬場和夫
配役
維康柳吉 ........... 森繁久彌
蝶子 ................ 淡島千景
柳吉の妹・筆子..... 司葉子
おきん .............. 浪花千栄子 他
●豊田四郎監督作品レビューBACK NUMBER
「夕凪」 (1957年)
「男性飼育法」 (1959年)
●織田作之助著「夫婦善哉」読書レビュー
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ジェームズ・アイヴォリー「モーリス」●映画レビュー
生前は発表されなかった、作家フォースターの本性
「ホモセクシャルの世界史」という本を読んでいる。このブログをはじめてから、本格的に考えてみたくなったからだ。
そして、E.M.フォースターのことを知った。
「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」など作品の名称は知っていたが読んだことがなかった。彼は他に「モーリス」という作品を1913年頃に書いていたのだが、同性愛を描写しているということで発表せず、そのままつつましやかに亡くなった。当時のイギリスでは同性愛は犯罪として扱われたし、彼自身、解放的な性格ではなかったらしいから当然のことではある。「モーリス」はその後1971年になってやっと出版され、彼が同性愛者として生きたことは周知のこととなった。それまでに知られていた名作も、そうした視点から読み直されているという。
「モーリス」なら映画のDVDを持っている。実は同性愛映画を集めるのに凝った時期があり、そのときに買っていたがまだ見ていなかったのだ(笑)。さっそく見てみた。
人間の本性を受け入れない国
すごく丁寧に優しい語り口で、今世紀初頭のイギリスの雰囲気が描かれる。ケンブリッジ大学で同性愛に目覚めた二人の男の対称的な生き方。とても引き込まれる映画だった。
大学の寮で魅かれあった二人は、授業をサボって愛し合う。二人とも超エリートの上流階級。しかし授業をサボったことを咎められて一人は休学処分に。その後も二人はお互いの家を行き来して愛し合うのだが・・・。
その後、恋人同士であったはずの二人の人生は大きく隔たって行く。一人は要領よく結婚し、出世街道を突き進むのだが、もう一人は同性愛であることを気に病み続けて医者にかかったりする。彼は結婚した恋人の家を訪ねて泊まったりするのだが、かつての恋人にはすでに妻が居る。自分はいったいなんなんだっ!と悩んでいる時に・・・今度はそこで出会った若い使用人の男に強く魅かれる。身分の違う男に対して抱く恋心を罪と感じ、しかも同性愛なわけだから二重の罪。心は激しく乱れる。しかし、どうやら使用人の方も彼に好意を持っていて毎晩窓の下で彼を見つめているのだった。
・・・そしてある晩、ついに窓から侵入してきた使用人。二人は思いを遂げてしまう。ここまでの二人の魅かれれあう描写がとてもドキドキする。お互い、相手に思いを伝えたいけどストレートには伝えられないすれ違い。でも、目が何よりも雄弁に語っているものなのだ。
「ついに罪を犯してしまった」という意識にさいなまれた主人公は、精神科に行き、医師と次のような会話をする。
医師「昔なら死刑になってた。・・・外国へ行って暮らすんだ。フランスかイタリアでね。同性愛が罪とならない国へ。」
主人公「いずれ英国もそうなるのか?」
医師「・・・ここは昔から人間の本性を受け入れようとしない国だ。」
口には出さない。目が語る。
映画の端々で、登場人物たちの「視線」が丹念に描かれる。同性愛というものへの人々の嫌悪感、断罪意識を表現するのは「視線」。口にはされない、いわゆるタブーだから。主人公が少しでも同性愛を滲ませる振る舞いや発言をするだけで、周囲は敏感に感じ取り、なんとも言えない視線を投げかける。その恐怖。心理的圧迫感。
そんな視線を送って他人を断罪する人間はきまって、表向きは秩序だった生活を重んじる「善人」として社会生活を営んでいる。自分たちの秩序からはみ出す者は排除しなければならない。だから異物に対してとても敏感だ。特に上流階級ならなおのこと。男性は紳士として振る舞い女性をレディーとして尊重する。女性はそれを当然のこととして受け入れ、そう扱ってくれない男性に対して敵視する。
そうした社交儀礼を、空々しくもしなければならない主人公。彼は、男を好きになってしまう自分に気がついた途端、そうした日常の光景が当たり前のこととは思えなくなってしまうのだ。
それからというものは、日常的に視線の恐怖にさらされながら、自分ひとりで自己の本性と葛藤せざるを得ない。この映画は、そうした心理を誇張することなく丁寧に描いていてとてもリアルだ。
フツーの男の同性愛を、フツーに描く
この映画の特筆すべきことはなにより、同性愛者がいわゆる「おかま」や「ドラッグクイーン」ではないということ。今世紀初頭のイギリス上流階級で平々凡々と生きていたフツーの男が、フツーに同性愛で苦しむ姿を描いている。好奇をてらわず、当たり前のこととして描く。当たり前でないのは、それを見つめる社会の側。
そうした視点で貫かれているこの作品だから出版できなかったのは当たり前だと言えるだろう。同性愛というものに対する風当たりが最も強かった当時のイギリスでは、まず無理だ。それだけ先駆的な作品であり、原作者のフォースターは、そうした点でも評価されるべきだと思う。
・・・本当は、当たり前のことが当たり前に書かれているだけなのに。
発表の当てがなくとも、自分の問題としてこの作品を書かざるを得なかった100年前のフォースター。その思いを、僕はちゃんと受けとめたいと思った。そして、少なくとも同性愛であるということだけで監獄へ送られずにすむ社会に住んでいる偶然に、感謝しようと思った。
出世を選び本性を隠すことを選んだ男と、本性と向き合い葛藤し続けた男。
映画では二人の生き方に評価は下さない。
今でも、同性愛者が生き方を選択するときにぶつかる、普遍的なテーマだからだ。
そして、どちらを選択したとしても、その選択を悩み続けることになるのだろう。
「モーリス」 Maurice(1987) イギリス
監督 : James Ivory ジェームズ・アイヴォリー
製作 : Ismail Merchant イスマイール・マーチャント
原作 : E. M. Forster E・M・フォースター
脚本 : Kit Hesketh Harvey キット・ヘスケス・ハーヴェイ
/ James Ivory ジェームズ・アイヴォリー
撮影 : Pierre Lhomme ピエール・ロム
音楽 : Richard Robbins リチャード・ロビンズ
美術 : Brian Ackland Snow ブライアン・エクランド・スノウ
編集 : Katherine Wenning キャサリン・ウェニング
字幕 : 戸田奈津子 トダナツコ
キャスト(役名) :
James Wilby ジェームズ・ウィルビー(Maurice)
Hugh Grant ヒュー・グラント(Clive)
Rupert Graves ルパート・グレイヴス(Alec)
Denholm Elliott デンホルム・エリオット(Dr. Barry)
Simon Callow サイモン・カラウ(Mr. Ducie)
●「モーリス restored version」発売中
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そして、E.M.フォースターのことを知った。
「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」など作品の名称は知っていたが読んだことがなかった。彼は他に「モーリス」という作品を1913年頃に書いていたのだが、同性愛を描写しているということで発表せず、そのままつつましやかに亡くなった。当時のイギリスでは同性愛は犯罪として扱われたし、彼自身、解放的な性格ではなかったらしいから当然のことではある。「モーリス」はその後1971年になってやっと出版され、彼が同性愛者として生きたことは周知のこととなった。それまでに知られていた名作も、そうした視点から読み直されているという。
「モーリス」なら映画のDVDを持っている。実は同性愛映画を集めるのに凝った時期があり、そのときに買っていたがまだ見ていなかったのだ(笑)。さっそく見てみた。
人間の本性を受け入れない国

大学の寮で魅かれあった二人は、授業をサボって愛し合う。二人とも超エリートの上流階級。しかし授業をサボったことを咎められて一人は休学処分に。その後も二人はお互いの家を行き来して愛し合うのだが・・・。
その後、恋人同士であったはずの二人の人生は大きく隔たって行く。一人は要領よく結婚し、出世街道を突き進むのだが、もう一人は同性愛であることを気に病み続けて医者にかかったりする。彼は結婚した恋人の家を訪ねて泊まったりするのだが、かつての恋人にはすでに妻が居る。自分はいったいなんなんだっ!と悩んでいる時に・・・今度はそこで出会った若い使用人の男に強く魅かれる。身分の違う男に対して抱く恋心を罪と感じ、しかも同性愛なわけだから二重の罪。心は激しく乱れる。しかし、どうやら使用人の方も彼に好意を持っていて毎晩窓の下で彼を見つめているのだった。

「ついに罪を犯してしまった」という意識にさいなまれた主人公は、精神科に行き、医師と次のような会話をする。
医師「昔なら死刑になってた。・・・外国へ行って暮らすんだ。フランスかイタリアでね。同性愛が罪とならない国へ。」
主人公「いずれ英国もそうなるのか?」
医師「・・・ここは昔から人間の本性を受け入れようとしない国だ。」
口には出さない。目が語る。
映画の端々で、登場人物たちの「視線」が丹念に描かれる。同性愛というものへの人々の嫌悪感、断罪意識を表現するのは「視線」。口にはされない、いわゆるタブーだから。主人公が少しでも同性愛を滲ませる振る舞いや発言をするだけで、周囲は敏感に感じ取り、なんとも言えない視線を投げかける。その恐怖。心理的圧迫感。
そんな視線を送って他人を断罪する人間はきまって、表向きは秩序だった生活を重んじる「善人」として社会生活を営んでいる。自分たちの秩序からはみ出す者は排除しなければならない。だから異物に対してとても敏感だ。特に上流階級ならなおのこと。男性は紳士として振る舞い女性をレディーとして尊重する。女性はそれを当然のこととして受け入れ、そう扱ってくれない男性に対して敵視する。
そうした社交儀礼を、空々しくもしなければならない主人公。彼は、男を好きになってしまう自分に気がついた途端、そうした日常の光景が当たり前のこととは思えなくなってしまうのだ。
それからというものは、日常的に視線の恐怖にさらされながら、自分ひとりで自己の本性と葛藤せざるを得ない。この映画は、そうした心理を誇張することなく丁寧に描いていてとてもリアルだ。
フツーの男の同性愛を、フツーに描く

そうした視点で貫かれているこの作品だから出版できなかったのは当たり前だと言えるだろう。同性愛というものに対する風当たりが最も強かった当時のイギリスでは、まず無理だ。それだけ先駆的な作品であり、原作者のフォースターは、そうした点でも評価されるべきだと思う。
・・・本当は、当たり前のことが当たり前に書かれているだけなのに。
発表の当てがなくとも、自分の問題としてこの作品を書かざるを得なかった100年前のフォースター。その思いを、僕はちゃんと受けとめたいと思った。そして、少なくとも同性愛であるということだけで監獄へ送られずにすむ社会に住んでいる偶然に、感謝しようと思った。
出世を選び本性を隠すことを選んだ男と、本性と向き合い葛藤し続けた男。
映画では二人の生き方に評価は下さない。
今でも、同性愛者が生き方を選択するときにぶつかる、普遍的なテーマだからだ。
そして、どちらを選択したとしても、その選択を悩み続けることになるのだろう。
「モーリス」 Maurice(1987) イギリス
監督 : James Ivory ジェームズ・アイヴォリー
製作 : Ismail Merchant イスマイール・マーチャント
原作 : E. M. Forster E・M・フォースター
脚本 : Kit Hesketh Harvey キット・ヘスケス・ハーヴェイ
/ James Ivory ジェームズ・アイヴォリー
撮影 : Pierre Lhomme ピエール・ロム
音楽 : Richard Robbins リチャード・ロビンズ
美術 : Brian Ackland Snow ブライアン・エクランド・スノウ
編集 : Katherine Wenning キャサリン・ウェニング
字幕 : 戸田奈津子 トダナツコ
キャスト(役名) :
James Wilby ジェームズ・ウィルビー(Maurice)
Hugh Grant ヒュー・グラント(Clive)
Rupert Graves ルパート・グレイヴス(Alec)
Denholm Elliott デンホルム・エリオット(Dr. Barry)
Simon Callow サイモン・カラウ(Mr. Ducie)
●「モーリス restored version」発売中
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