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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

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ふたたび小山田二郎展へ・・・完全に虜と化す。

いいと思ったものは、何度でも見る。自分にとって本当に優れていると感じた物は、そのたびに新しい発見をさせてくれるからだ。
小山田二郎の絵はきっとそのはず。そんな確信を抱いて再び東京ステーションギャラリーへ。

確信は正解だった。二回目だというのに、まるで全く別の展覧会を見に行ったかのように新鮮だった。

なんなんだろう・・・この人の絵は。絵と向き合う時間が嬉しくてしょうがない。
時間が許せばいつまででも見ていられる。出来るものなら自分のものにしてしまいたい。
完全に、彼の絵の虜になってしまった・・・。

遺作は、孤独だけど自由な姿

今回は二回目ということもあり、あえて順路を逆から辿る。遺作「舞踏」から見てみたかったから。
・・・学芸員の人は不審な目で見ていたけど(笑)。
最後の部屋にひっそりかかっていた遺作は、未完のようにも思えてしまう作品。穏やかな光を感じさせる色彩の中、3人の人物が各々の舞踏を踊る姿がスケッチのように描かれる。
彼がこの絵を、死を予期して描いたかどうかはわからない。しかし最後の最後まで、人間の孤独を表現しようとしていたことが確認できる。
三人三様でバラバラな踊り。しかし、ささやかながら自由を享受しているかのような爽快感を漂わせているのが印象的だった。

大作を乗り越えた「殺された」

今回ひときわ僕の目を引いた絵があった。1969年に描かれた「殺された」という作品。
赤いショールをかぶった母親らしき人物が、殺されて青くなった子どもを抱えている。
この構図と主題、どこかで見たことがある。そうだ、展覧会のチラシの表紙に使われている「ピエタ」と、とてもよく似ているのだ。
(チラシは前回の記事参照)

「ピエタ」は1955年、彼が41歳の時のもの。油彩で描かれた大作で、彼の評価を決定付けたであろう作品。
その14年後、55歳の時に描いた「殺された」はささやかな水彩画ではあるのだが、僕にはこちらの方がずっと心に迫ってきた。
「ピエタ」での母親は、嘆き悲しむ表情を露にして天空を仰いでいる。そこからは突き放された空虚感の中で、なおも生きて行かなければならない母親の存在が大きく迫ってくる。
それに対して「殺された」での母親は無表情で殺された子どもを見つめている。
ただ、見つめることしか出来なくなっている。
子どもを抱える母親の手も、力なく青ざめてきている。
まるで、母と子が混ざり合って一つになり行く過程を見ているかのようなのだ。

小山田二郎は「殺された」で「ピエタ」を乗り越えたかったのかもしれないと・・・僕は勝手に想像した。「殺された」での表現の方が、より生々しいし具体的かつ人間的なのだ。「ピエタ」に見られるような絵画としての気取りもない。正直、僕は「ピエタ」を見てもなんの感動もおぼえなかったのだが、その理由がわかったような気がした。
やはりこの人は誠実に、過去の自分までをも脱ぎ捨てて常に生まれ変わるということを意識的に行なっていたのだと思う。
彼ほどの才能のある画家が長く続けていると、いつの間にか周囲の賞賛や画壇の権威と無縁ではいられなくなるものだ。そうしたものとはきっぱり縁を切っていたであろう彼の、絵画への志の高さを尊敬せずにはいられない。

血を求めた作家

彼の絵には、夜を連想させる青黒い色調の他に、赤も多用されている。闇の中で浮かび上がる鮮烈な赤は、時に炎のようでもあり、血のようでもある。
特に水彩画での「染み」のような赤の表現は、血痕のようだ。

油彩画ではあまり赤は使われていないのだが、近づいて見てみると、合板に描かれた作品には無数のひっかき傷が加えられている。一度描いた絵をわざわざ汚すために、かなりの力を込めてひっかいたに違いない。まるで絵の中から血が滲み出てくるのを求めて、執拗に引っかき続けたかのようだ。
どの絵も、血が通っている。そして、血を流しているのだ。
血は、生き物としての本性。
彼は暴力的なまでに血を求めた作家である。

鳥女の恐怖。女性への畏怖

彼は頻繁に「鳥女」というタイトルで、グロテスクな鳥を擬人化して描いた。くちばしは鋭く今にも突っついて来そうな凶暴さ。ふくよかで強欲そうに着飾った鳥女。
怖い。
まるで、僕が普段「女性性」というものに対して本質的に感じてしまう嫌悪や恐怖が表現されているかのようであり・・・背筋が寒くなった。
男性としての身体を持つものが、女性に本質的に感じてしまう異質感、恐れ。自分を産み落とした肉体への畏怖。でもそれは尊敬心の裏返しでもあるのだが。
女性というものをこれほど忠実に表現した絵は、かつて見たことがない。そして、本質が露わな分、どんな美しい(とされる)ヴィーナス像よりも美しい。
彼の画家としての生涯では常に、女性が傍らでサポートし続けた。身近な他者から受ける本能的な感覚が鬱積され、「絵」として表現せずにはいられなかったのだろう。
僕には鳥女の絵は怖い。怖いけど、どうしても逃れられない「母親」というものへの複雑な気持ちを想起させられた。
・・・鋭いくちばしで攻撃され、肉をほじくり出されそうな恐怖心。
息子というものは母親に、こうした感情も抱えている。

作品は、作家の排泄物だ

人は、他者や世界との関わりなしには生きられない。
小山田二郎という人間が日常を生きるにあたって鬱積された、たくさんの毒。
それを絵という形で排泄しないと、彼は生きて行かれなかったのだろう。そうしたことを意識的に忠実に行なうのが、本物の「作家」である。
彼の毒と僕の中の毒は、かなりの割合で共鳴し合った。僕の中にも排泄されずに鬱積する毒がある。また、それは生きている以上誰の心にもあるものだ。

排泄されたがっている毒を、どうやって排泄するのか。
そのことを考えはじめた時に、人は作家になる。
生きていれば誰だって作家になる素質を持っている。
日々鬱積される毒と、正直に向き合えばいいのだ。

表現方法はなんでもいい。
自分に向いたもので、無理せずやればいいのだ。
そして、毒を自分なりの方法で排泄していれば、
本当の意味で健康に生きて行けるのだと思う。


●「異形の幻視力~小山田二郎展」5/28~7/3東京ステーションギャラリー
●前回6/27に見たときの感想はこちらです。
文京アートのホームページに、小山田二郎情報があります。
●奥さんの小山田チカエさんへのインタビュー記事を見つけました。
本を散歩する雑誌スムース
「小山田チカエさんに聞く」

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