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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

高校時代、女の子と付き合ってみたものの・・・07

ナマな女同士の対決を目の当たりにして僕はどうしたかというと・・・見事に逃げました(←最悪っ!)
急病を装って一週間は休んだかな?(←おいっ!)。
彼女(後輩)が電話をくれても居留守を使ったので余計に心配をさせ、ついには家まで彼女がやってきました。
さすがに家族を丸め込むことは出来ていなかったので、親切にも母親は彼女を部屋に通しました。困った僕は・・・なんとか重病患者を演じきりました(←サイテー!)。
部屋に入ってきた彼女は・・・かいがいしく水枕を代えてくれたり、お粥を作ってくれたり・・・すごく、彼女っぽいことをしてくれるんです、母親と一緒に喜々として。
「やめてくれ~っ!」という心の叫びも空しく、僕はますます生理的に彼女を嫌いになってしまうのでした。(ヒドイ話だ・・・)。

☆硬軟織り交ぜた当ブログ・・・この話はまだまだ続きます~。FC2 同性愛Blog Ranking
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アインシュタイン:手紙6通寄贈へ 原爆の苦悩にじませ

本音をぶつけ合って見えてくるもの。
開けてくる地平。
かの有名なアインシュタインがアメリカの原爆開発に加わっていたことはこれまた有名なこと。そんな彼と日本の哲学者・篠原正瑛(せいえい)さん(故人)が書簡のやりとりをしていたという。遺族がその書簡の寄贈先を探しているらしい。
毎日新聞ニュース2005年6月7日
(この記事下に全文引用あり。)


かつて二人の間ではかなり突っ込んだやりとりがなされたようだ。ルーズベルト大統領に対して原爆開発を進言したとされるアインシュタインに対して篠原さんは、「原爆を投下された国」日本に生きる者としての率直な思いをぶつけた。それに対してアインシュタインは怒りを隠さず、「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と反論。当時ナチス・ドイツで原爆製造の情報が流れ、その勢いを封じるためにはやむを得なかったことを説明した。それからも両者の間で時には感情的なやりとりが交わされたのち、最終的には気持ちが通じ合い、木彫りの人形とサイン入りの写真を交換しあったという。

僕がこのニュースを知ってすごく「いいなぁ」と思ったのは、篠原さんが無鉄砲にもこうした書簡をアインシュタインに送ったからこそ、お互いの対話が生まれたという事実。その結果アインシュタインからこういう言葉を引き出し、当時のその複雑な胸中がこうして歴史として記録されることになったわけだ。

篠原さんにとってもこの冒険は良かったのだ。自分の怒りを紳士的にぶつけてみた結果、アインシュタインの当時の立場をある程度は理解することになり、複眼的なものの見方を得ることにつながったわけだから。

なにより好感が持てるのは、お互いに真摯にやりとりをした様子が伺えるということ。
反発から転じて人間的交流に至ったという、その過程を想像すると嬉しくなる。
自分の信念に真剣に生きている者同士だからこそ、成り立った対話なのだろう。

原爆投下の是非については、国や社会が違えば意見も当然違う。ちなみに僕は「反対」という意見を待っている。しかし自分の意見を持つことは大事だけれども、だからと言って違う意見を持つ他者に対して「悪」のレッテルを貼ってしまうことは、結果的に自分の首を絞めることになる。自分こそは「善」だという思い上がりから来る思考停止だ。

人は、自分がよく知らない他者に対しては、簡単に単純化したイメージを作り出して、自分勝手に「レッテル」を貼ってしまいがち。特に言語や所属社会が違ったり、戦争における敵に対する憎悪の感情は、大体がその「レッテル」の産物と言える。そして困ったことに、他者を「悪」と単純化してしまえばその瞬間から人間とは見なさなくなり、徒党を組んで燃え上がって魔女狩りをはじめてしまう愚かな生き物。

・・・そうした場合冷静に考えて、どっちが「悪」なんだろう。

・・・そもそも他者を「悪」と決め付ける資格のある善人なんて、いるのだろうか。

篠原正瑛さんの、おそらく「怒り」から発せられた投げかけと、それに答えたアインシュタイン。
二人は期せずしてとても大切な「記録」を残してくれた。
立場や文化の違う人と人とが、どうやってお互いを尊重し合えるのか。
わかり合わなくてもいい。
存在を認め合えるのか。
そのことについて、いろいろ考えさせてくれる記録だと思う。

▼リンク切れに備え、毎日新聞ニュースを全文、引用させていただきます。

アインシュタイン:手紙6通寄贈へ 原爆の苦悩にじませ 

アインシュタイン(1879~1955)博士が平和観や戦争責任についてつづった6通の手紙の寄贈先を、東京都中野区在住、哲学者の故・篠原正瑛(せいえい)さんの家族が探している。博士は第二次大戦中、ルーズベルト米大統領(当時)に原爆開発を促す連名の書簡を送った。「あなたは平和主義者と言うが、なぜ開発を促したのか」と批判する篠原さんの指摘をきっかけに始まった文通の手紙で、家族は「今年は戦後60年の節目。平和を考える材料にしてほしい」と話している。
篠原さんは戦前、ドイツに留学して哲学を学んだ。現地で終戦を迎え、連合国軍に2年間抑留された後に帰国、著述活動を始めた。ドイツ語で書かれた博士への最初の手紙は53年1月。6通は53年2月から54年7月にかけ博士が送った。53年2月22日付の手紙で博士は「私は絶対的な平和主義者ではない」と書き、ナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当で、必要なことだったと主張した。
「日本は原爆投下のモルモットにされたのではないか」。篠原さんが同6月18日付の手紙でただすと、非礼と知りながら、あえてその裏に返事を書いた同23日付の手紙が博士から届いた。
「日本への原爆使用は常に有罪と考えているが、日本人が朝鮮や中国で行った行為に対して(篠原さんに)責任があると言われるのと同様、(私は)何もできなかった」とし、「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と怒りをあらわにした。

時に感情をぶつけ合うこうしたやり取りから、2人に友情が生まれた。篠原さんは人形や絵画を米国へ届け、博士はサイン入りの写真を贈った。篠原さんと結婚したばかりの妻信子さん(80)は、写真の博士が古びたカーディガン姿なのを見て、手編みのセーターを贈ると申し出た。博士は「あなたの国にも必要とする人は大勢いらっしゃる」と丁重に辞退した。博士は戦後、平和運動に取り組み、核兵器廃絶を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出た55年に死去した。
篠原さんは90年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、01年に89歳で亡くなった。信子さんは蔵書などを売って療養費に充てたが、手紙は手放さなかった。遺産は、預金約30万円と書籍約3000冊だった。信子さんは「お金や名誉に執着しなかった夫は、博士の生き方に共感していた。多くの人の目に触れる博物館などに引き取ってほしい」と語る。
アインシュタイン研究家の金子務・大阪府立大名誉教授は「アインシュタインの手紙の現物は、日本にはほとんど残っていない。当時の日本人の多くが聞きたかった問いでもあり、貴重な資料だ」と話している。【元村有希子、藤生竹志】

 ◇アインシュタイン博士からの手紙(抜粋)

1953年2月22日
……私は絶対的な平和主義者だとは言っていません。私は常に、確信的な平和主義者です。つまり、確信的な平和主義者としてでも、私の考えでは暴力が必要になる条件があるのです。
その条件というのは、私に敵がいて、その敵の目的が私や私の家族を無条件に抹殺しようとしている場合です。……したがって、私の考えではナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当なことであり、そうする必要がありました。

1953年6月23日
……私は日本に対する原爆使用は常に有罪だと考えていますが、この致命的な決定を阻止するためには何もできなかった。日本人が朝鮮や中国で行ったすべての行為に対して「あなた(篠原さん)に責任がある」と言われるのと同様、(私は)ほとんど何もできなかったのです。
……他人やその人の行為についてはまず、十分な情報を手に入れてから、自分の意見を述べるように努力すべきでしょう。あなたは、日本で私を批判的に説明しようとしている。……

1953年7月18日
あなたが前回のお手紙で予告されていた、素晴らしい日本の木彫りの人形が届きました。素晴らしい贈り物に心から感謝します。

1954年5月25日
……奥様からの感動的なお申し出をありがとうございます。しかし、私はどのみち要求の多い人間でありますし、あなたの国にも必要とされるふさわしい人たちは大勢いらっしゃるでしょうから、その友情をお受けすることはできません。

1954年7月7日
……原爆開発で唯一の私の慰めとなることは、今回のおぞましい効果が継続して認識され、国家を超えた安全保障の構築が早まっていることです。ただ、国粋主義的なばかげた動きは相変わらずあるようです。
(手紙はすべてドイツ語。藤生竹志訳す)
毎日新聞 2005年6月7日 3時00分


本文中の写真は、下記のWebより引用させていただきました。
科学技術解説遮蔽装置のページ
名言名句のウラ側はアルベルト・アインシュタインのページ
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