ブロークバック・マウンテンで見る世界032●ヒース・レジャー28歳で急死。名演技は永遠に。

彼の「俳優としての人生」においては不思議と、「ゲイの役」が重要な転機をもたらしていたようです。2年前に『ブロークバック・マウンテン』が公開された当時。僕は映画を見てやたらと感激し、このシリーズを始めとして狂ったかのようにブログに記事を書きまくっていたのですが(爆)、当時の記事の一つを見返してみて思い出しました。彼は俳優としてのデビューも「ゲイの役」だったそうなのです。
→「yes」創刊の波紋011●ヒースの名言

ヒース・レジャーは『yes vol.2』のインタビューにおいて、こんなことも発言していました。インタビュアーから、「たとえば将来自分の子供がやってきて『じつはゲイなんだ』って言われたらどう思うか」という質問をされたのですが、その応えが秀逸です。
ゲイの役を演じる「ノンケ俳優」は数多くあれど、記者会見で「どうでした?」と興味本位で質問されたとき、大概においてガッカリさせられるような返事しか返って来ないことに慣れっこになっていた(→たとえばこういうのとかね。)当時の僕にとって、この発言は衝撃的だったし嬉しかったです。そして、『yes vol.2』に続けて掲載されていた北丸雄二さんの文章「クローゼットの闇に迷い込まないための、ブロークバック山の案内図」に、魂を根こそぎ鷲づかみされて号泣したりもしました(爆)。「ああ、そういうのは前から問題なかったよ。べつにゲイだからって普通以上にすごいってはおもわないけど、いつだってそんなことは問題じゃなかった。だからもちろん自分の子供がおれのところにやってきてそう言ったとしたら、逆にもっとその子を愛すると思うな。おれに対して正直でいてくれたということでさ。」
→「yes」創刊の波紋010●僕を泣かせた記事のこと
★この時のヒース・レジャーのインタビューと北丸さんの文章は、どんな『ブロークバック・マウンテン』の記事よりも読む価値あると僕は思います!。『yes』はもう書店には並んでいませんが、ネット上で中古でならば入手が可能なようです。興味のある方はぜひ!
●「yes vol.2」
あの頃の、ちょっと(どころかかなり)ほろ苦い思いを回想するきっかけが、まさかヒース・レジャーの死によってもたらされてしまうとは・・・まだまだ可能性に満ちていた表現者だったのに非常に残念です。とにかく今はそれしか言いようがありません。→FC2 同性愛Blog Ranking
ブロークバック・マウンテンで見る世界031●ディープ大阪にはかなわない 02

しかしその下には・・

ああっ!・・・なんということでしょう。
そ、そこには・・・「リブ釜akaboshi」としては、同性愛と結び付けられた時には血を煮えたぎらせて抗議しなくてはならない、おぞましき禁句=「禁断」の二文字がっ!しかも三連発っ!


すごい、すごすぎる・・・
でも。
なぜだか、ちっともムカつかなかったんですよね~(笑)。それどころか嬉々としてカメラを持ち出し撮影している僕がいました。この「手作り感」と場の雰囲気、そして「ディープ大阪」の街の「なんでもあり」の雑多な魅力と温かさが、そうさせたのかもしれません。
ちなみに、この新世界国際劇場は一週間ごとに上映を差し替えているので、この看板を見ることが出来たのは10月11日~17日だけ。撮っといてよかったぁ~。
▼「ディープ大阪Love~ブロークバックマウンテンで見る新世界」

●アン・リー・コレクション -アン・リー監督作品DVD-BOX-
●オリジナル・サウンドトラック
●Annie Proulx「Brokeback Mountain:Story to Screenplay」
●アニー・プルー著「ブロークバック・マウンテン」
関連記事
●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
→FC2 同性愛Blog Ranking
ブロークバック・マウンテンで見る世界030●ディープ大阪にはかなわない 01
そこで見つけたのが、あの見慣れた「ブロークバックマウンテン」の文字と宣伝写真。おおっ!まだ上映されてたんだぁ~。僕は喜び勇んで看板に近付いてみました。すると、驚くべき事実が・・・。

なにぃ~っ!「マルキ・ド・サドの調教哲学」と同時上映!
そ・・・そりゃあ東京で上映されている時に、こっそり観に行ったさ(笑)。純真なお嬢様が、めくるめく官能の世界に浸って解放されて行くアナーキーなエロスの世界の悦びに浸ったさ。でも・・・ま、まさか「ブローバックマウンテン」と同時に上映されるとはっ!
しかも、もう一本は「イーオン・フラックス」って・・・ますますわけがわからない(笑)。僕はそのまま、猥雑で雑多な魅力溢れるアーケードを抜けて「新世界国際劇場」を探してみました。すると・・・

ありましたありました。通天閣の東側の、ちょっと裏寂れて人通りの少ない一角に、レトロな雰囲気を漂わせた映画館がありました。
そこでまず目に付いたのは、地下で上映されているという3作品の看板たち。

「美人弁護士 発情の悦び」 「人妻痴戯 夫の前で」 「混浴温泉 湯煙で艶あそび」
・・・すごそう(笑)。でもあんま興味ないかも、ゲイだし(爆)。
そっか~。こういうのを好む人が多くいる土地柄だから、「ブロークバック~」の抱き合わせで「マルキ・ド・サド~」なのかぁ~と納得しかけて目を転じたその先に・・・
うっわ~・・・
最近、なにかと「リブ釜化」して来ている僕にとって衝撃的かつ抱腹絶倒の言葉の羅列が、一気に目に飛び込んできたのですぅ~・・・!<つづく>

●「マルキ・ド・サドの調教哲学」
(アウレリオ・グリマルディ監督/2005/イタリア)
単なる「エロス映画」だと侮るなかれっ!
マルキ・ド・サド”の『閨房哲学』を原作にした、実はかなり深遠かつ先鋭的なテーマを、映画的な美しさとエロスの娯楽性で魅せてくれる刺激的な名作。
侯爵夫人と哲学者が結託して18歳の美少女に「官能」を調教し、人間本来の持つ「身体で感じること」の悦びに目覚めさせて行く過程を描きます。身体だって思考する。頭で考えてばかりでガチガチになってると人生損しちゃうよ~ってことを、エロスの官能の中で自然と感じさせてくれる贅沢な映画。超美男子ゲイも出てきますし、レズビアン描写もあります。つまりゲイもレズビアンもバイも異性愛者も、み~んなが楽しめる哲学的エロス映画(笑)→FC2 同性愛Blog Ranking
ブロークバック・マウンテンで見る世界029●トラウマと向き合いました・・・痛かった(笑)。

このブログで「ブロークバックマウンテン」の記事を、やたらと頻繁に更新していた半年ほど前。妙に感情的になって失敗してしまった事がありまして(笑)、それ以来自分で、過去の記事を振り返ることすら止めていました。いわゆるトラウマってやつですね、ハイ。あの頃の自分を振り返ると・・・日常生活でもイライラして不安定で、憂さをブログで晴らそうとしていたように思います。・・・イヤです、あの頃の引き篭もった自分は(笑)。
でも、あんな風に鬱積した思いがドロドロと渦巻いた日々があったからこそ、そこから解放してくれた人の放つ光の素晴らしさに気付く事が出来たし、最近の行動力を生み出すエネルギーの源泉にもなっているわけで・・・否定はしませんよ。
そんな時期に書いた記事に、最近になって熱烈に反応してくださった方がいらっしゃいます。事前に「引用」の許可まで申請していただいて本当に恐縮です。・・・そこで僕は、これをきっかけに振り返りたくない「トラウマ記事」を、恐る恐る読み返してみたのでした・・・。
→これです。
あぁ、やっぱり痛かった(笑)。こんな書き方したら引くよね(笑)。ついでに、その次にはこんなものも連続で書いていたようで・・・さらに引きますので、ご覚悟を(笑)。
→ヤバイです。
→イッちゃってます。

でもな。当時はきっと切実な思いでこれを書いたんだろうな、きっと。そんなことを笑いながら思い出すことが出来ました。こうした機会を与えてくださった「BBM与太ばなし」の志仁美さん。ありがとうございました。志仁美さんみたいに「自分が引っかかったことに対して考える」ことに真摯な人って、僕はすごく好きですよ。
→「BBM与太ばなし」より「おバカな私も進化した?」
そういえば最近、志仁美さんのように自身のことを「腐女子」と称する方が増えているようですが、それってゲイが自分のことを「クイア(変態)」と称してアピールする態度と似ていなくもないですね。世間の「正統的な生き方という幻想」に疑問を抱いているという点では、もしかして「同志」なのかもしれません。これからもよろしくお願いします。
「ブロークバック・マウンテン」は語り始めるといつまでも続いてしまう魔物が棲んでいる映画なので、きっと今後もこのカテゴリー、だらだらと続くような気がします。 →FC2 同性愛Blog Ranking

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●Annie Proulx「Brokeback Mountain:Story to Screenplay」
●アニー・プルー著「ブロークバック・マウンテン」
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●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
ブロークバック・マウンテンで見る世界028●濃密すぎる二本立て

僕が今年「ゲイ」として心をかき乱された映画といえば、大木裕之監督「g8-2(カリ)」を抜かせば断然この2本。 「ブロークバック・マウンテン」 と 「ぼくを葬る」なのですが、なんとこの二つが2本立てで上映されるという、とんでもないことが飯田橋ギンレイホールで現在行われています。以前「メゾン・ド・ヒミコ」の時にも紹介しましたが、僕はここの年間パスポート(¥10、000で観放題)を持っているので本当に嬉しい。その気になれば何回だって観てしまうことが出来るのです。

さすがに、この濃密すぎる2本を連続で観るというのは「ゲイ」として自分が持ち堪えられるかどうか、いささか不安だったのですが・・・こんな機会は二度とないだろうと思い直し、昨日やってみちゃいました2本連続での鑑賞。
結果は・・・思ったとおりヘロヘロになりました。神経使い過ぎてグッタリ。心乱されまくって各々一回ずつ涙まで出ちゃうし、正直身体に良いとは言えない体験でした(笑)。精神エネルギーの消費が激しいのであまりお薦めできませんが、もしもそんな稀有な体験をしてみたいというチャレンジャーな東京在住のゲイの方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ飯田橋ギンレイホールに足をお運びください。今週の金曜9月8日までです。
両作品ともDVDの発売が控えているみたいですが、ロードショー公開からだいぶ経っているにも関わらず二番館や名画座系で上映が途切れずに続いているのが嬉しいですね。あちこちでたくさんの上映が繰り返されて、傷が入るようになった古びた色合いのフィルムで観るというのも、なかなか味があって僕は好きです。また、映画館では劇場空間ならではの観客同士で作り出す一回限りの雰囲気も味わえますしね。僕が観た日のギンレイホールでは両作品ともほぼ満席。ユーモアのある場面では笑いが起こっていましたし、後半では啜り泣きが聴こえてきました。やっぱり「力」のある映画なんだなぁと、改めて感じましたよ。
●「ブロークバックマウンテン」今後の劇場公開予定

8/27~9/8 飯田橋ギンレイホール
9/9~9/22 目黒シネマ
10/7~10/13 早稲田松竹
10/14~10/20 三軒茶屋中央劇場
<千葉>
10/14~10/20TOHOシネマズ市川コルトン
<北海道>
8/29~終了時期未定 蠍座
<大阪>
10/11~10/17 新世界国際劇場
<兵庫>
8/30~9/12 パルシネマしんこうえん
10/14~10/27 CINEMA しんげき
<滋賀>
9/ 12~9/24 滋賀会館シネマホール
<福岡>
10/7~10/ 27 小倉昭和記念館
<熊本>
10/28~11/8 本渡第一映劇

<東京>
8/27~9/8 飯田橋ギンレイホール
<静岡>
9/22~ 浜松東映
●DVDの発売が控えています。
「ブロークバック・マウンテン」
「ぼくを葬る」
●なお、飯田橋ギンレイホールでは今後もLGBT関連映画が上映されます。今年は本当に多かったんですね~。
▼9/9~22 「ナイロビの蜂」・・・ゲイが主要な登場人物で登場(併映「ブロークン・フラワーズ」)
▼10/7~20 「プルートで朝食を」・・・トランスヴェスタイトが主人公(併映「美しい人」)
▼11/4~17 「ヨコハマメリー」・・・メリーさんを見守り続けていたシャンソン歌手は、ゲイの方です。(併映「嫌われ松子の一生」)
関連記事
●フランソワ・オゾン「ぼくを葬る」●MOVIEレビュー1
●フランソワ・オゾン「ぼくを葬る」●MOVIEレビュー2
●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
●ブロークバック・マウンテンで見る世界006●戦わない映画
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ブロークバック・マウンテンで見る世界027●おすぎさんのブロークバック評

タイトルの通り、ゲイの映画評論家として有名なおすぎさんが毎月「幸せになる」映画を紹介するわけですが、この映画の場合は例外。「幸せな気分になれるとは思えません」という但し書きを付け、コーナーのタイトルを裏切ってまで、率直な意見を掲載していました。
ほかの女性向けファッション誌での紹介記事は「男同士の純愛の美しさ」を強調する軽い内容のものが多い中、こうした言説をシビアに載せることは異例のことです。また、「ヘテロ(異性愛者)向け一般メディア」において、LGBT当事者からの発言が掲載されることも、極めて異例のことです。
●「Style」2006年4月号P296「おすぎの映画を観ればこんなに幸せ」
同性愛を真摯に描く『ブロークバック・マウンテン』
愛することは美しい。
だがその影で涙するものがいることは知るべき
今月も、また、"幸せな気分”になれるとは思えません、映画を紹介します。
でも、観て本当によかったと思えるとは思うのであります。
男が男を愛してしまう、ということ、それを異常としていた時代がありました。別に現在だって、それを両手をあげて歓迎などしているとは思えませんが、でも1960年代から80年代にかけては“同性愛”は"薄汚いもの”だったのです。それが最も忌み嫌われた時代、20年にわたって男を愛した男のラブ・ストーリーを綴った映画が『ブロークバック・マウンテン』であります。
<中略(物語前半説明)>
イニスとジャックの再会は、あのブロークバック・マウンテンの出会いから4年後だった。きっかけはジャックがイニスに出した絵葉書だった。イニスの家に来るという。その日イニスはビールを飲みながら待った。時は過ぎていく。ウトウトしていると車の音が・・・。妻のアルマには古い釣り友だちと言っておいたイニス。ドアを開け、飛び出し、熱い抱擁を交わすふたり。想いをこらえきれないイニスは物陰にジャックを誘い、唇を交わすのだった。それをアルマが偶然、目にしてしまうなんて思いもしないで・・・。それから20年、一年のうちに何回かジャックがイニスのもとを訪れ、決まったようにふたりはブロークバック・マウンテンに出かけた。アルマの不幸も、ラリーンの無頓着も道づれにしながら・・・。
アメリカでエイズが発症した年の次の年に、ふたりの関係は意外なかたちで終わります。アン・リーの端正な風景の映像をバックにして繰り広げられるから情緒としてスーッと入ってくるラブ・ストーリーだけど、本来は大きな問題を抱えています。人間が人間を愛すること、それ自体は美しいことだけど、その影で涙を流したり、自分の心を見ないようにしている者もいることを知るべきです。

あれは「アメリカでエイズが発症した年の次の年」なんですね。つまりエイズ騒動の渦中に巻き起こった強烈なゲイ・バッシングによるものではないかと、おすぎさんはこの文章でさらに暗示しているのです。なるほど鋭いですね。
おすぎさんの言うように映画「ブロークバックマウンテン」では、自分の心を見ないようにした者の涙、生活を破壊された者の涙、そしてさらに付け加えるならば、自分の心に向き合ったが故に彷徨った者の涙が重層低音として流れています。アン・リー監督は、あざといドラマティックな演出を嫌う監督なので割とあっさりと描写されますが、そうした行間に想像を巡らすと、さらに色んなことが感じられる映画ですよね。
僕は今まで、おすぎさんのことをテレビのバラエティー番組で「おかまキャラ」を誇張している人だという認識しかなかったので、正直「嫌悪」しがちだったのですが、このレビューに触れたことで彼への見方が変わりました。メジャーな場所に身を置いているが故の制約もたくさんあるのでしょうが、言うべき時には言うべきことを、ちゃんと言っているんですね。

●おすぎ著「バカバカバカ!」(ぺんぎん書房)
ゲイ雑誌「薔薇族」に連載されていたコラムをまとめたものらしいです。僕がゲイを自覚した頃には既に「薔薇族」の全盛期は終わっていたので、彼が連載を持っていたことすら知りませんでした。けっこう、僕が普段感じているのと同じようなことも書かれているので、親近感が湧きました。
彼が「ゲイ」として発言しているこういう側面は、もっと知られてもいいのではないかと思います。「ブロークバック・マウンテン」がもたらしてくれた、思わぬ発見です。
関連記事
●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
●「ブロークバック・マウンテンで見る世界」最新記事はこちら。
●DVD「ブロークバック・マウンテン」
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ブロークバック・マウンテンで見る世界026●「純」について考えた

ジェシカの試写会レポート突然!炎のごとく
男同士の切ない純愛に胸が締めつけられる!!
魅惑の世界・・・(笑)今回、紹介するのは”ラブストーリー“。
しかも男と女ではなく”男と男”。そう言うと「私には関係ないじゃん」て言われてしまいそうだけど、そんなことはない!!すごく切ない純愛に女のコだって胸が打たれるハズ。<中略(物語説明)>
この映画で注目すべきは、やっぱり主演の二人!!
ゲイじゃない彼らが、本当に自然に演じきっているのがスゴイ。でも、そこにちょっと面白い話があるんです。ヒース・レジャーはずっとナオミ・ワットと付き合っていたんだけど、それが、この映画の撮影に入る直前に破局しちゃってるの。そして、この映画の共演者ミシェル・ウィリアムズと付き合って、結婚しちゃったんだよね。私が思うに、本当に魅惑の世界へと、足を一歩踏み入れてしまいそうで、不安だったんじゃないかな(笑)。だから、さほど美人でもない(失礼!)ミシェルと恋に落ちた・・・あくまでも私の想像だけど(笑)。それくらい、男同士の演技が自然だった!!
純愛ではあるけれど、本当に切なくなってしまった今作。最近では、イギリスとかではゲイ同士の結婚が認められるくらい、オープンになってはいるけど、保守的な日本ではまだまだ苦しんでいる人もいるんじゃないか・・・色々考えさせられる部分も多い作品です。
そんな今作は、”辛い恋“をしているアナタに、贈ります。どんな恋だって、この2人の恋に比べれば軽いって(笑)。前にすすむ勇気をくれる映画だと思います。
今回は「女の子雑誌」からのご紹介。
この人、直言派でおもしろいなぁ~。ジェシカさんという人はモデルさんらしいのですが、ヒース・レジャーの恋路についての分析とか発想が、すごく女の子っぽくて可愛い(笑)。魅惑の世界に足を踏み入れそうな不安を紛らすために付き合ったことにされてるミシェル・ウィリアムズはとんだ災難だけど(笑)、そう感じさせる位に、主人公を演じる俳優二人に、ものすごく濃密な空気が漂っていただろうことは画面からも伝わって来ましたよね。
考えてみれば役者さんって、特に舞台では性別を超えて演じることもよく行われているし、子どもも演じれば老人も演じられる。想像力をフルに活用してゲイを演じるなんてことも、役に没頭してしまえば出来るんでしょうね。もちろん演じた俳優二人にとっては挑戦だったのでしょうが、「演技」ということの不思議さと可能性についても考えさせてくれる映画でした。
純愛かぁ・・・。
「純」ってなんだろう。打算もなく、思うがままに求めて行動することを「純」というのなら、「ブロークバック・マウンテン」での二人は本当に「純に」愛し合ったんだろうと思います。しかし人というのはいつまでも「純」ではいられないもの。社会のしがらみの中で生きて行くには、受け入れなければならない現実もたくさんあります。そのために犠牲にしなければならないのは「純」な自分の心の核。
しかし、本当に「純」であった自分を見つけてしまった「熱い記憶」は、なかなか消し去ることは出来ません。特に、現実が辛ければ辛いほど、輝いた日々の思い出は、より鮮明に心を縛り、現実に浸透してきます。

この映画で最後にイニスが気付いたものは、ジャックのように自らの「純」に素直に向き合えなかった、彼の「不純さ」だったのかもしれない。そんなことを考えました。
ジェシカさんの記事のプロフィール欄に、おすぎさんと試写室でよく遭遇することが書かれています。「小さな作品から話題作までちゃんとチェックしているんだなって、尊敬しちゃいました」とのこと。そんなおすぎさんの、なかなか骨太な映画評を、ある雑誌から発見しました。「さすがはLGBTっ!」と言いたくなるような視点から、きっちりと発言していたので僕は彼を見直しました。次回紹介します。
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●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
●「ブロークバック・マウンテンで見る世界」最新記事はこちら。
●DVD「ブロークバック・マウンテン」
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ブロークバック・マウンテンで見る世界025●男だから純粋なのか?

全国公開のタイミングに合わせ、3月に発売された雑誌の多くに「ブロークバックマウンテン」の紹介記事やレビューが掲載されました。このシリーズでは今後そうした記事も取り上げながら、この映画が日本で公開されるにあたり、どのようなPR戦略が行われたかという視点からも見てみようと思います。
現代は「PRの時代」。雑誌に紹介される新商品やイベント情報、映画紹介等のほとんどにはPR会社が絡み、雑誌編集部と組んで巧妙なイメージ戦略が行われます。この映画も膨大な広告宣伝費を使ってPRを行ったわけですから、まずは綿密な「市場分析」が行われ、どのような人々をターゲットにし、どのような雑誌でどのようなイメージでPRすれば、より効果的に観客を動員できるのかが細かく計算されたことでしょう。その結果として掲載された記事を見れば、自然と「2006年の日本における同性愛者に対する世論の実態」が浮かび上がります。
ただし、それはあくまでもPR会社が分析した世論にすぎないわけですが、こうしてマス・メディアに掲載されたPR記事によって読者は、「これが今の風潮なんだなぁ」という印象(イメージ)を無意識下に与えられますし、その結果さらに「世論」は上塗りされて補強されるわけですから、その動向は無視できません。
この映画が「同性愛」について描いているということは、日本公開開始前からアカデミー賞絡みの報道によって、すでに周知の事実になっていました。LGBT達への認知度も高く、ある意味キャンペーン的には放っておいてもLGBT達は映画館に足を運ぶことでしょう。問題はストレート自認者たち。彼らに、どうやって劇場まで足を運ばせるか。その際にまずは「女性を味方につける」戦略が取られたようです。
「女性ファッション誌」が中心のPR
本屋で立ち読みしたり雑誌が多く置いてある図書館で調査してみたところ、圧倒的に「女性ファッション誌」での掲載率が高かったようで、映画紹介コーナーを持っている雑誌では、8割位がこの映画を取り上げていたのではないかと思われます。中には1ページ大のカラー広告を掲載しているものもありました。
それにくらべて「男性ファッション誌」では、この映画をレビューコーナーで紹介したものは皆無に等しく、日本での配給会社ワイズポリシーが発注したPR会社の広報戦略は明らかに「女性をPRターゲットの中心」にしていたことがわかります。ストレート自認男性向けにPRしても効果は薄いという判断が下されていたことは確実です。
男女どちらをも読者として想定している週刊誌やオピニオン系雑誌での掲載率は、おそらく半分くらい。今回はその中でも珍しく「男性の視点」からこの映画を語っていた記事を紹介します。
●週間朝日3/10増大号P101・前売りランキング5位「ブロークバックマウンテン」
「どうだ!男って純粋だろう!」 作家・江上剛
英国の国民的歌手エルトン・ジョンがカナダ人男性と結婚し、その満面の笑顔が世界に配信されたのは、ついこの間のことだ。この結婚が可能になったのは、英国で同性カップルの結婚を法的に認める「同性市民パートナー法」が施行されたからだ。この法律により異性婚の場合と同様に配偶者死亡時の年金受給などが同性婚にも認められるようになったという。正直なところ私はこのニュースに「なんでも認められる社会になったのだな」という程度の関心しか持っていなかった。そんな私が「ブロークバック・マウンテン」を見て「男同士の恋はなんと深いものか」とあらためて感じ入った。
この映画は、ゲイの問題、男同士の精神的・肉体的な恋というものを正面から描いている。<中略(物語説明)>
この映画はぜひ女性に見て欲しい。男の気持ちがよくわかる。今や男は女に疲れているのだ。映画の中には、ダンスを強要する妻、やたらとおしゃべりをして男の気持ちなど全く考えない妻、仕事好きで男を小ばかにする妻などが出てくる。ところがイニスとジャックは何も言わなくても相手の気持ちが分かる。また男と女の恋は最初激しく燃え上がるが、いつしか醒めてしまう。しかし男同士の恋は何年たっても初めて会ったブロークバック・マウンテンの時のままの激しさなのだ。どうだ!男って純粋だろう!<後略>

まずは週刊朝日という、どちらかというと男性読者が多そうな雑誌で紹介されたことが画期的。しかも男性側からの視点で掲載すれば男性読者も「あまり抵抗なく」読むことが出来ますから、江上氏に白羽の矢が立ったのではないかと思われます。(注:このコーナーは江上氏が持っている「連載コラム」ではなく、毎週違うライターが執筆しています。)
結果的に、ストレート自認男性にとっては「わが意を得たり」といった感じの意見が表明され、「男性視点からは心地の良い」内容のレビューになっています。ある程度のPR効果はあったのではないでしょうか。その反面、女性にとっては「反感を持たれる」内容だとも思いますが(笑)。
「男」が観に行きにくい映画
ストレート自認男性がこの映画を劇場に観に行こうとした時、普段から映画をよく見る「映画ファン」以外にとっては、心理的な抵抗感が強いのではないかと思います。
なぜならアカデミー賞報道が過熱した時期に、「ゲイについて描かれた映画」だということが非常に大きく報道されていましたから、ゲイに抵抗を持ちやすい「男」としては足を運び辛くなるだろうからです。多くの新聞の見出しに大きく「同性愛」の文字が踊りましたし、サラリーマンがよく読む「スポーツ新聞」では特に顕著に、センセーショナルな取り上げ方が目に付きました。
「あの人、ゲイなのかも」と思われる視線を嫌うのは、カミングアウトしていないゲイもストレート自認男性も同じですから気持ちはよくわかります。しかもハンサムな人気俳優が主役として出ているということは、映画館に女性が大挙押し寄せていることを容易に連想させますから「男」としてはさらに躊躇する原因の一つになり易いことでしょう。
したがって、ストレート自認男性でこの映画をどうしても見に行きたい人は、女性同伴で「恋人や奥さんに強引に誘われて渋々観に来た」という態度を装うことでしょう。男同士だと「疑われて」しまいますからね(笑)。そして、観に行ったとしても感想を会社等で述べることは控えることでしょう。僕だって現に会社では「ブロークバックマウンテンを観た」ことは会話に出来ません。
とても率直なレビューです。
それにしても江上さんのこの文章、僕はすごく面白いと思いました。なぜなら結構あっけらかんと、すごいことを言ってのけているからです。特に僕が注目したのはこの部分。
えっ・・・!!「男同士の恋はなんと深いものか」とあらためて感じ入った。
作家とか表現者になるタイプの人は自己洞察の鋭さが必要条件ですから、江上さんはさすがに自分の内面を表現することに率直です(笑)。僕、思うんですけど男は基本的に男が好きなんです。(女も女が好き。みんな同性も異性も「好きな人のことは好きだし、嫌いな人のことは嫌い」なのだ!)しかし素直に気持ちを表現することに「不器用である」ことが男らしさだと思い込まされているのが「男」という生き方ですから、「男っていいなぁ~」とか「あいつ、かわいいなぁ~」と心の中で思ったとしても表面には出さないようにしがちだし、実際問題としてそれ以上、深くは認識しないようにしているんだと思います。
「ホモフォビア」というのはその辺の心理が屈折した結果なのかもしれません。むしろ「ホモフォビア」をあからさまに表現する男性ほど実は「男好き」なのではないでしょうか。だって「嫌いだ」とわざわざ表現せずにはいられないということは、裏を返せば「気になってしょうがない」ということを意味しますから。本当に嫌いな人は「無関心」であるはずなんです。
ゲイを「同士」として扱う視点の珍しさ
さらにこの文章の珍しいところは、江上さんがジャックとイニスのことを「おかま」だとか「ゲイ」という「他者」として差別的に語るのではなく、自分と同じ「男」として扱っているところ。特に「イニスとジャックは何も言わなくても相手の気持ちが分かる」という箇所からは、男同士の精神的な繋がりを論じる際に「ゲイ」を排除していない態度が伺えます。
ただ、この文章では江上さんの個人的な意見表明として「男の純粋さ」を強調したいらしく、「男同士の恋愛」を実態以上に美化しすぎな所が暴走気味で面映いところ(笑)。う~ん。僕の実感では、男同士の恋愛だって「最初激しく燃え上がるが、いつしか醒めてしまう」ところは同じだし、それほど純粋で綺麗なものでもない。「美化」というのは「蔑視」とは反対のようではあるけれども、「思い込み」が生み出しているという点では似ているのかもしれませんね。

同性愛に男女の恋愛との違いがあるとすれば「日常」だとか「生活の場」に表立って持ち込むことが許されなかったということでしょう。
もしジャックとイニスの関係が「あたりまえのこと」として受け入れられる世の中だったなら、あのように20年の長きにわたって相手のことを激しく想い続けていられたかというと・・・怪しいものです(笑)。
彼ら二人がなんの抵抗もなく添い遂げることができ、社会の中でパートナーとして暮らし始めていたとしたら、もしかして江上さんの書く「女性たち」のように、ジャックが「やたらとおしゃべりをしてイニスの気持ちなどまったく考えない男」になってたかもしれないし、イニスも「仕事好きでジャックを小ばかにする男」に変貌したのかもしれない。 日常という場でお互いの清濁を併せ呑んでみたら、恋愛感情の持続はなかなか難しいものなのかもしれませんからね。男同士、女同士、異性カップルを問わず。
非日常という「純粋な自分に戻れる場所」は、非日常であるからこそ魅惑的であり続けるのです。映画「ブロークバックマウンテン」で、多くの人々が喚起させられている普遍的な感情の一つは、「非日常という魅惑」への憧憬なのかもしれませんね。
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●「ブロークバック・マウンテンで見る世界」最新記事はこちら。
●DVD「ブロークバック・マウンテン」
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ブロークバック・マウンテンで見る世界024●ゲイ・イメージ考

この映画を観て、「彼ら二人はゲイなのか」と疑問を持つ人がいるようです。つまり「彼らをゲイと見做していいのか」ということらしいのですが、ゲイである僕にとってその疑問はとても不思議だし、ある意味では面白い疑問だとも思います。なぜなら「ゲイと見做す」という判断をする際に浮かび上がるのは、その人が従来抱えてきた「ゲイという言葉へのイメージ」であり本音だからです。普段、存在を意識すらされない我々ですから、こんな機会はめったにありません。
特に、カミングアウトしているゲイが、これまで自分の周囲にいなかった人たち(今の日本ではほとんどの人がそうでしょう)にとっては、イニスのことを「ゲイ」と呼ぶことに、ためらいを感じる人が多いようです。
その理由の一つはきっと、映画の主人公二人ともが「男っぽい」からだと思います。たしかに彼らは、世間に流布している「ゲイ」「同性愛者」「おかま」という言葉から短絡的に連想される「フェミニンな感じ」のキャラクターではないし、テレビタレントのように「オネエ言葉」で喋るわけでもありません。ルックスは「イケメンだけどフツーの男」だし、女性と結婚してセックスもして、子どもを持ったりもしているわけですから、なおさら「彼らはなんなの?」と混乱させるみたいです。
その混乱はおそらく、この作品の映画化に当たってアン・リー監督が「確信犯として」描き出した場面のせいでもあると思います。なにせこの映画では「男性同士のセックス場面」だけではなく、あえて「女性とのセックス場面」をも生々しく映像化しています。この映画が物議を醸し、多くの観客の旧来の価値基準を掻き乱している理由の一つに、その場面も含まれるのではないかと思います。
今回は、この映画の反響によって浮かび上がった「ゲイ・イメージ」の相違について、特に「非当事者たち」によるイメージと、「ゲイである僕が思う」イメージの相違について、こだわってみようと思います。
ここで僕の話をします。注:ここで使う「ゲイ」とは、男性のことを恋愛対象として好きになっている自分のことを、自覚している男性のことを指します。ゲイの中には女性を性的には愛せない人が圧倒的に多いのですが、中には愛せる人もいます。また、そうしたセクシュアリティーが人との出会いによって柔軟に移り変わる人もいます。
「ゲイ」という概念や「男女どちらを、どの程度好きになるかの比率」は人それぞれ。はっきりと固定された正解があるものではありません。したがって僕は「今、自分で自分のことをゲイなんだと認識している人」のことを、ゲイと見做すことにしています。

「おかま」という言葉は、それを言われた人間にとっては非常に侮蔑的な言葉に感じられることが多々あります。世代によって感覚に差はあるようですが、僕の感覚では自分のことを「おかま」と呼ばれることには、今でも抵抗を覚えます。それは個人の体験にもよるようです。
例えば僕は幼少からピアノを習っていたのですが、小学生の時にクラスの男子から「ピアノなんか習って女みたいな奴だな。おかま~ぁ」と、しつこくからかわれたことがあります。どちらかと言えば弱気で内気だった僕はジョークとして聞き流すことが出来ず、けっこう傷つきました。まだ性にも目覚める前であり、自分としては「男子」だと思っているわけですから「女みたい」とか「おかま」と言われるのはショックです。「男子」として育てられた自分を否定されたような気持ちになります。その後は、ピアノを習っていることを友達には話さないように心がけました。
僕はかつて「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」を抱えていました

すなわちその頃の僕は、女性を生理的に嫌悪するのと同時に、たとえタイプの男性がいたとしても「ホモフォビア」を理由に「嫌悪を装っていた」わけですね。嫌悪しないとタイプの男性を好きになってしまい、自分の「おかま」と向き合うことになってしまいますから。その頃の僕はきっと、周囲に「嫌悪エネルギー」を撒き散らしていたのでしょうね。(しょ~もなっ。)
そんな状態で20代の後半までの月日を過ごしたので、言わずもがな僕のキャラクターは、いわゆる「フツーの男」です。ファッションも髪型も、喋り方も完全に「平均的な男」という感じです。
20代の後半になってようやく「ゲイ」の人たちと接する機会を持つようになってから、まずは驚きました。自分のようなケースは特殊だろうと思っていたら、その反対。むしろ僕は「平均的・多数派のゲイ」だったのです。たしかに「おかま」のイメージどおりに女性っぽい人や「オネエ言葉」で喋る人もいますが全体の中ではむしろ少数派。そうした人ほど「ゲイ」であることがキャラクターとして「わかりやすく表面化」しているわけですから、新宿二丁目を中心とした「ゲイ・コミュニティー」に積極的に関わるケースが多いようです。しかし、そうした行動を取らない人もたくさんいるのが実情だし、むしろほとんどのゲイは「フツーの平凡な男っぽい感じ」のキャラクターなのだと知ったのです。
考えてみれば当たり前のことなんですよね。カミングアウトしていないということはなにも引きこもって無人島で生きているわけではなく、男性であるキャラクターを身に纏いながら「異性愛者のフリをして」社会の中に存在しているということなのですから。ゲイだと悟られて「おかま」というレッテルを貼られることによる中傷や、偏見により社会的地位を失うことへの恐れも抱えています。だから「フツーの男キャラ」で過ごす事の方が安全だし、自らもずっと馴染んで生きて来たキャラクターでもあります。僕の場合は自分を女性も愛せる男だと認識したがっている時期が長かったわけですからキャラクターもそのまんまなのです。
お互いに見えない「ゲイ」と「ゲイを差別する人」

なぜなら、どこに強烈なホモフォビアを抱えている人がいるのかが、現実問題としてとても見えにくいからです。自分の会社やライバル会社の役員や上司、同僚に、もしゲイに対して強烈な偏見を抱えた人がいた場合、なにをされるかわかりません。実際にそうした被害に遭って脅されたり、いじめられた人の話も聞きます。世の中、人の揚げ足をとろうとする人はたくさんいますから。
しかもゲイ自体が普段、「異性愛者」を装い隠れているのが現状ですから、強烈な偏見を抱えている人が誰なのかも、なかなか表面化される機会はありません。隠れているから話題にすらなりにくいし、強烈な偏見を抱えている人の思想というものは「ゲイ」を目の当たりにしたり「おかま」について語らないと表現されないからです。だから、お互いに見えないのです。
もしかしたらゲイの側の過剰防衛という面もあるだろうし、必要以上に仮想敵を強大なものとして思い描き過ぎている面もあるのでしょう。しかし、ある程度の世論の後押しなり、何らかのきっかけがないと、ゲイを戦々恐々とさせているこの心理的圧迫や恐怖感からはなかなか自由になれません。本音とタテマエを使い分け、直接的な衝突や自己主張を避けたがる日本社会に濃厚な二面性も、その圧迫を生み出す原因になっていると思います。まだ世論は熟しているとは言えないし、我々が当たり前の生活者として生きていることへの想像力を持っている人が非常に少ないのが現実です。
こうしたゲイのあり方や世の中の仕組みを認識していれば、映画でのイニスやジャックの姿は「とてもリアリティーのある」ゲイの姿だと映ります。彼らは、あの時代における「ゲイ」としての典型的な生き方をしていると思うし、彼らのような二重生活は、程度の差こそあれ現在でも「ゲイにとっての日常」であり続けています。

映画の中の二人のように、女性と結婚して子どもを作っているけれども、同時に男性とも関係を持ち続ける「既婚者ゲイ」も、実際に世の中にたくさん存在しています。日本でも、60~70年代に青春時代を過ごしたゲイの多くの者たちが「既婚者にならざるを得なかった」というのが現実だったようです。作家の三島由紀夫氏も、その代表例だと思います。
その頃はまだインターネットもありませんし、ゲイ同士が出会って恋愛関係を築ける場は大都会などの特殊な場所に限られていたようです。ゲイの交流雑誌として一時代を切り拓いた「薔薇族」の創刊も、1971年のこと。それほど長い歴史があるわけではありません。
「薔薇族」創刊・普及前のゲイたちは、今とは比べ物にならない孤独感と戦いながら、日常を生きていたのだと思います。いつまでも男が結婚をしないで一人でいると「おかま」であると公言することになってしまうプレッシャーもあります。また、両親が生きているうちに安心させてあげようと、自らを偽って結婚を「してあげる」人も、実際にたくさんいたようです。
70年代~90年代頃(ネット普及以前)のゲイの生き方については、伊藤文学さんの著書「薔薇ひらく日々を~薔薇族と共に歩んだ30年」を読むと、詳しく知ることができます。彼はゲイではないにも関わらずゲイに関心を持ち続け、ゲイバーをかつて新宿で経営したり、最近でも「薔薇族」を復刊したりして日本のゲイたちをずっと応援し続けている人です。
●伊藤文學著・「薔薇ひらく日を―『薔薇族』と共に歩んだ30年」
「ブロークバックマウンテン」と「町」との往復は、多くのゲイにとって日常である
既婚者に限らずゲイの多くは今でも、公的には「異性愛者の男」としてのキャラクターを身に纏い、たとえば男同士の会話に出てくる恋愛話や「オンナの話」などになった時、異性愛者に話を合わせ、ゲイであることが「バレないように」振る舞っています。そして、自分が本当に感じることを本音で語ったり、異性愛者の鎧を脱いで身軽になるのはあくまでも私的な場に限定していますし、人を選んで行なっていますので二枚舌はゲイの必然。もし都会ではない場所で結婚して私的な場を持てなくなってしまったりしたら、ゲイは精神的にかなり追い詰められてしまうのではないでしょうか。
この映画で描かれた「ブロークバックマウンテン」という場所は、ゲイにとっては自分を解放し、ゲイとして振る舞える時間や場所と同義。そして、彼らが山を下りてから過ごした「町での日々」は、我々が本音を隠して生きている時間や場と同義。その両方の世界を行ったり来たりしているのが、現在でも行われている平均的なゲイの生き方だと言うことも出来るでしょう。
イニスを「異性愛者」とカテゴライズしておきたいホモフォビア

また、同じ観点から「異性愛者であるイニスが、同性愛者であるジャックの想いを受け入れた」という解釈もあるようですが、それを真に受けると、こういうことになってしまわないでしょうか。
同性愛者ジャックが「男とやりたがっていたから」異性愛者イニスが「やらせてあげた」。すなわちイニスは、「ブロークバックマウンテン」での日々において、ジャックに対して「恋人同士であるかのように演じてあげて、ゲイのために肉体を捧げてあげていた」。そして山を下りてからの再会も、ジャックの前でだけ「ゲイを演じてあげていた」ということになってしまいます。あの映画において、「山」と「町」どちらの環境が演じているものだと表現されていたのかは、言うまでもないことでしょう。
「ゲイ」という言葉は基本的に「男性の同性愛者」という意味です。ジャックが男性である以上、イニスを「ゲイ」だと呼ばないということは、イニスがジャックに愛情を持たなかったということを意味してしまいます。
イニスがあくまでも異性愛者であり、同性愛者の思いを受け入れてあげたのだと考える背後には、異性愛者を「一段上」のところに置いて同性愛者を「可愛そうで哀れなもの」だと見做す、「旧来のゲイ・イメージ通りの意識」があるように僕は感じます。細かいことかもしれませんが、この映画が発しているメッセージにも関わる重要な部分だと思いますので、あえて書かせていただきました。
「ゲイ映画」ということに抵抗を感じるホモフォビア
また、この映画のことを「これはゲイ映画だ」とゲイが述べることに抵抗を感じる方もいるらしいです。それは裏を返せば「同性愛者」「ゲイ」「おかま」という言葉を、今までその人が「どういうイメージで捉えて来たのか」を、如実に物語ってしまっているのではないかと思います。それはゲイの問題というよりはむしろ「そう思っている人たち」の内面の問題だと思いますので、それに合わせて僕が自らの見解を変える必要もないし、気を使って主張を控える必要も感じません。
また、たとえ「ゲイ映画」という言葉のイメージが汚れていて、「従来のゲイ向け成人映画」というニュアンスで捉えられるのだとしても、その捉え方自体に「無知から来る差別意識」があると思いますので、そう思ってしまう人たちに合わせて僕の主張を変える必要も感じません。このブログでも紹介してきた「シュガー」や 「ハードコア・デイズ」 をはじめ、「ゲイ向け成人映画」というカテゴリーに入れられがちな作品の中にだって素晴らしい作品はたくさんあるし、志を込めて作られた名作がたくさんあります。そのことをぜひ知ってもらいたいと思いますし、「ゲイ」という言葉が付くことに抵抗を感じてしまう自らの内面と向き合ってほしいと思います。
このブログのスタンス
このブログは、タイトルに「GAY」という言葉が入っていることからもわかるとおり「ゲイが書いていることを読者が承知している」ことを前提にして書いています。ゲイとして生きている僕の主観を包み隠さず書くことが、ここを見に来ている人への礼儀だと思っています。「ゲイ・イメージ」が汚れているのだとしたら、それはゲイの問題ではなく、そういう目で見ている社会の問題だと思います。そして、そのことに遠慮して、これまで対社会的には本音を控えてきたゲイの「卑屈さ」にも一因があると思います。したがって僕はこの場を「ストレート言説に気を使って大人しく語る場」ではなく、「思うことを率直に主張する場」だと捉え、書いて行こうと思います。
「ゲイ・イメージ」考

実はこの現象自体、とても画期的であり、意味のある事だとも思います。今まで潜在していて見えなかったものが、この映画をきっかけにして一挙に表現され、しかもブログ時代ということもあり、ネット上に溢れ出しているのですから。
僕は他所でそういう発言を見かけたとしても基本的にはスルーしていますが、当ブログにコメントとして書き込まれた発言に、そういうニュアンスが感じられたものに関しては、指摘してこだわらせていただきます。僕はゲイの代表者を気取っているわけではなく、あくまでもこのブログのコンセプトの中心テーマとして、僕の主観を表明しているだけです。今の僕は実生活では「ゲイとしての本音」を率直に語れる立場にありませんが、ここはそういう場であってもいいはずです。
最後に、「キネマ旬報」3月下旬号に掲載されていたアン・リー監督の発言を紹介します。
関連記事「映画作家としての僕の挑戦よりも、むしろ映画を観てくれる人が試されるんじゃないかな。他者に対して寛容であること、あるいは自分の未知の領域に関してもオープンでいられるか否か。そして内なる“恥”の部分とどう向き合うか。この映画で動揺してしまうのは別に悪いことだとは思わないけど、でもイニスとジャックの情熱を受けとめられる正直さと勇気は持ってほしい」
「自分の視点よりもまず他の人の視点を撮るという習慣が身についているのかもしれないな。女性とか、同性愛者とかね。」
●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
●「ブロークバック・マウンテンで見る世界」最新記事はこちら。
●DVD「ブロークバック・マウンテン」
→FC2 同性愛Blog Ranking
ブロークバック・マウンテンで見る世界023●センチメンタルへの疑問
山から下りたイニスの生き方
あんなの
もう終わりにしなきゃならない
自分に嘘つき
周りに嘘つき
結局なにも選び取れず
自分の本当の悦びから
逃げていた彼の生き方
愛する人が死んでから
やっと気付いてどうする
クローゼットを開けたところで
打ちのめされてどうする
遅いじゃないか

→FC2 同性愛Blog Rankingジャックがどんな思いで死んで行ったか
ジャックがどんな気持ちで
クローゼットにシャツを架けていたのか
ジャックは
イニスがそれを見ることになるだろうとは
夢にも思わず死んだのだ
突然命を絶たれたのだ
希望が持てず不安定なままで
彼は死んで行ったのだ
死の瞬間までの彼の気持ちを想像せよ
クローゼットから出ることの出来なかった
本当の愛の姿を直視せよ
これは果たして
感動してセンチメンタルに
泣くべき映画なのだろうか?
僕は今度
ジャックの側からこの映画を
もう一度見返すことにしてみるよ
ブロークバック・マウンテンで見る世界022●決意

→FC2 同性愛Blog Ranking君に思われてないことを知ったとき
やっと僕がはじまった
僕は僕
君が知らなくても僕は生きている
思ってもらおうとばかり
してるからだめなんだ
僕は僕
なにを卑屈になってんだ
僕は君が好きだから君を演じてるんじゃない
だから
君に好きになってもらう必要もない
僕は
僕を好きになってくれる人を好きになろう
そう気付いたら
君から解放されたよ
まだ不本意ながらも
君を演じなきゃならない日々は続くけど
いつか僕は
君から自立してみせる