フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-06
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悪と善001●「善」の政治性

「善と悪」。

この対立概念を語るとき、フツーは最初に「善」が来ます。しかし僕は、この新連載を設けるにあたり、あえて「悪」を先に持って来ようと思いました。
なぜなら、人間とは本来「悪」であると思うからです。

どうしてそう思うのか。
以前から考えてみようと思っていました。
僕は昔から、書店や古本屋で書名に「悪」という文字を見つけると、つい手に取ってしまう習性があります。このブログで三島由紀夫氏や工藤静香さん、左幸子さんについて語りたくなったのも、これらの人々が表現活動においてきちんと「悪」と向き合っているからなのだと思っています。

いざ語ると言っても、あいかわらず方針も立てずに成り行きまかせで進行すると思いますが、その状態をあえて楽しみたいと思います。(それがブログの醍醐味!)
このブログを読み始めたのもなにかの縁。ぜひぜひ、「悪」という概念について言葉を交わしてみませんか~?。
さて今回はまず、ブログ友だちの記事へのコメントという形で、書いてみようと思います。
flowfreeさんの「大学の真相 海外で考える」の記事より。
性の捉え方と文化:正常を狂気に変え得る精神分析
●flowfreeさん。
僕の「音楽」のレビューが刺激になったなんて、嬉しいです。
僕もあの映画にはとても衝撃を受けました。三島由紀夫氏は、人のいろんな部分を刺激して開発する名人のようです(笑)。

「音楽」では近親相姦の描写がありますが、これはいわゆる表社会では「タブー」とされることですよね。しかしこの映画の中では美しく人間的なこととして描かれています。明らかに一般社会との価値の反転が意図されています。
驚きました。そして、いろいろと考えさせられました。

僕もflowfreeさんと同じように、昔から「タブー」とされるものがどうして「タブー」とされて嫌悪されるのか、違和感を憶えながら生きてきました。それは自分が社会からタブー視されがちな同性愛者であることも、少しは関係があるのかもしれません。
でも考えてみたら近親相姦は同性愛と同じくらい・・・いや、もしかしたらそれ以上に「忌まわしいこと」として嫌悪されがちなものなのかもしれませんね。そのことにも気がつきました。

でも・・・どうして嫌悪されるのだろう。
どうして禁止されるのだろう。
それは・・・禁止しないと、ついついやってしまう事だからなのかも知れません。

家族というものは親しく接する分、お互いを理解しやすいし親しみやすい存在。恋愛感情が芽生えたとしてもなんら不思議はありません。僕も、恋愛感情というわけではありませんが姉のことは大好きだし、兄弟や親子が愛し合うということは「フツーに起こり得ること」として理解できます。

でも現在の日本において、法律上では近親同士の恋愛について保証する生活制度はありませんし、そもそも「口にするのも憚られる」こととして闇に葬り去られる行為であることは確かでしょう。すなわち「悪」と呼ばれる行為として断罪され、本人達も社会から「罪」の意識を持つように強制されるような感があります。

でも・・・僕はよく思うのですが、そもそも法律だとか正義だとか道徳だとか、人を「悪」だと断罪することで「善」であることを強いる仕組みというものは、人の表情と同じようにコロコロと移り変わるものですよね。

ここで「善」と「悪」という概念について、「戦争」を例に考えてみます。

たとえば60年前の日本は、少しでも多くの敵国人を殺せば「善」として評価される社会システムでした。国家という歯車の一部として殺人マシーンになることを拒否する者は「悪」として断罪され、投獄されて人々の見せしめとされました。

ところが今はどうでしょう。
人を一人殺すことは重大な犯罪として重い罪に罰せられます。

「戦時」と「平時」という言葉のマジックだけで、人間というものはこんなにも簡単に価値観を180度変えてしまいます。そして、それを受け入れてしまう「あやふやな」生き物です。
現に、今でも世界中、ありとあらゆる所で「戦時」と「平時」の切り換えは行なわれていて、人の命に関わる価値観はコロコロと切り換わり続けています。

また、こういうこともよく言われますよね。
「本能を野放しにしていたら危険だ。皆がやりたい放題に振る舞ったら社会の秩序が保てない。」
・・・こうした発想からスタートして、人間集団が社会を成り立たせるには一定の「ルール」が必要とされ、宗教や法律が生れたのでしょう。

しかし宗教や法律も、所詮は、「あやふやでしかない」人間が作った、あやふやなもの。
完全なものなど作れるわけがないのです。

そこの所を勘違いして「絶対神」がいるかのごとく喧伝し、物語を作って「無知の民」に啓蒙してきたと自負する方々が世界中に勢力を拡大しました。
そして、彼らが自分達の正当性を誇示するために作り出した概念こそが「善」。



「善」が「善」であるためには、対立概念が必要となります。
そこではじめて、人間の本能的な行動を「悪」と名づける断罪が始まったのではないでしょうか。
自分たちの信じる絶対神こそ「善」であり、信じない者は「悪」である。
・・・なんという身勝手で政治的な都合でしょう。

政治なんて、所詮は刹那的で一過性のもの。権力者が変わるたびにコロコロと移り変わります。我々無辜の民は油断をしていると、そうした権力者の押し付ける道徳観を無批判に受け入れて流されてしまいがちです。歴史はそうやって繰り返されてきました。

流されないためには学ぶこと。

いろんな価値観があって、世界や人間というものはこんなにも多用で豊かなものだということを知ること。世界の多様性や人間の複雑さを丸ごと描き出す豊かな芸術表現に触れ、感覚を鋭くすること。
そうした知識の積み重ねが、一過性の政治的な道徳観ではビクともしない「自分独自の」道徳観・価値観を作り上げるのだと思います。そして、作り上げて行きながらも、常に学び続けて更新して行く過程そのものが、「生きる」ということだと思います。

近親相姦も、その時の本人たちにとっての必然であり、心から求める事なのだったら、誰の咎めも気にする必要はないことだと僕は思います。
同性愛も然り。その他の「タブー」も然り。
政治的な都合によりコロコロと移り変わる「善」の強制なんて気にしない。
我々を「無知の民」だと決め付け、啓蒙しようとする権力者なんて気にしない。

・・・それは現実にはなかなか難しく、勇気のいることですが、そう思える強さを育むためにも、「固まらずに学び続ける謙虚さ」を忘れずに生きて行きたいと思います。

flowfreeさんの文章を読んで、今日の僕はこんなことを書きたくなりました。・・・どうもお粗末さまでした。
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