フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-09
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇016●オダギリジョーさんと犬童一心監督が韓国へ

 1月26日から韓国の単館系で公開されている映画「メゾン・ド・ヒミコ」(Mezon Do Himiko)ですが、観客動員は好調で既に7万人を突破。現在7つの映画館で上映されているようです。 (→朝鮮日報3/7)
 また、これを受けて本日から監督の犬童一心さんと主演のオダギリジョーさんがPRのため韓国を訪問。11日には韓国ファンとの出会いの場を計画、オダギリジョーさんは12日午後、延世大学新千年ホールで約1千人のファンとトークショーを予定しているそうです。
(→Innolife.net)
 当ブログにも最近、「オダギリジョー」検索で韓国の方が訪問してくださったりと、韓国でのオダギリさんの人気は本当にスゴいみたいです。(日本でもスゴイですが。)
 今回の訪問が、さらなるヒットと公開のロングランに繋がりますように~(祈念っ!)

●日本でも二番館系で依然公開中。
東京地区→三軒茶屋中央劇場・・・古くて独特な雰囲気のある映画館です。
 3/18(土)~11:15/15:30/19:40~21:51(終)・併映「誰がために」
大阪地区→ 千里セルシーシアター
 3.14(火)~3.17(金) 14:50~17:09(終)
 3.18(土)~ 10:00/17:30/20:00~22:19(終)
四国地区→シネマ ルナティック湊町
 3/11(土)~3/17(金) 10:25~12:40(終)

●さまざまな映像特典の付いたDVDも発売中

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇015●韓国でヒット中

 最近やたらと朝鮮日報付いている当ブログですが(笑)、韓国で「メゾン・ド・ヒミコ」が公開され、じわじわとヒットしているらしいことが報じられたので紹介します。
(→朝鮮日報2/19「日本映画『メゾン・ド・ヒミコ』、韓国で静かなブーム 」 )

 公開は1/26から5つの映画館で始まり、この規模の公開にしては異例の4万人の動員を記録。韓国ポータルサイト「NAVER」での「ネチズン」による評価も高いと書かれているので覗いてみましたが・・・( →参照)
あはは、読めね~(笑)。
 Yahooの翻訳をかけてみたらかろうじて不思議な日本語で雰囲気を知ることはできます。(→参照)たしかに、映画を見た人が10点満点で点数を付ける投票において、平均9点以上を維持しているようです。(2/21現在)

 韓国では一昨年、犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」が評判を呼び、昨年になって再上映されたこともあるらしいですね。
→朝鮮日報2005.11/3「日本の低予算映画『ジョゼと虎…』1年ぶりの再上映、なぜ?」)
 その流れもあって今回の公開が実現したようですが、ちょうど「王の男」で同性愛に社会の関心が集まっている韓国では、タイムリーな映画だということも出来るでしょう。しばらくは観客動員を増やしそうです。
 ちなみに日本でもロードショーの終了後、二番館系の映画館で上映が続いています。
 現在は早稲田松竹ほか2館で公開中。(24日まで→「Movie Waker「メゾン・ド・ヒミコ」参照 )

☆DVD3/3発売
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇014●ギンレイホールで再上映中

3回以上の鑑賞にも堪える映画

昨日から飯田橋ギンレイホールでの上映が始まった「メゾン・ド・ヒミコ」。さっそく見に行って来たのですが、昨年度の映画賞を多数受賞した影響でしょうか、立ち見が出るほどの大盛況。場内では笑い声もよく起こり、映画館ならではの一体感のもとで堪能できました。
ちなみに僕が見たのはこれで3回目なのですが、まだまだ新鮮な感覚で楽しめたことに驚きました。

僕は、自分にとっていい映画かどうかを判断する時に「3回以上の鑑賞に堪えられるかどうか」というのを基準にしています。2回見たくなる映画ならばよくあるし、実際に見ることも多いのですが、大体はそれで作品を消化してしまい、それ以上見ようとは思いません。しかしこの映画はまだまだ・・・あと4、5回は見られる位に、僕にとっては新鮮であり続けることでしょう。

吟味され、凝縮された台詞たち

その一番の理由はきっと、一言一言の台詞が選び抜かれて洗練されているからだと思います。物語を説明するための説明的な台詞が極度に抑えられていて、なによりも言葉選びが「素直じゃない」ところがいいのです。

人というのは日常において、なかなか「本音」を口には出さないものです。強がってしまったり、わざと遠回しに牽制して言ってしまったり、思っていることとは逆のことを口走ってしまったり・・・。それが人間の滑稽さでもあり哀れさでもあります。

この映画の登場人物たちは、多くの場面においてそうした「本音とはうらはら」の言葉を発し、自分の内面に秘められた「本音」とのギャップに苦しみます。だからこそリアルだし、台詞ですべてを語らないからこそ、見るたびに観客が新しい意味を発見できるのです。

口から発せられる言葉なんてものは所詮は、心の中の複雑な思いを表現するための「氷山の一角」。この映画の脚本家や監督、出演者達はそのことにとても意識的であり、表現者として撮影現場でちゃんと苦しんだからこそ、これだけのレベルに表現が昇華しているのだと思います。

父娘対決の凄み

特に後半の、沙織(柴咲コウ)とヒミコ(田中泯)の父娘対決の場面などは絶品です。ヒリヒリとした緊張感のもとで、互いに譲れないプライドを抱えながら、ぶつかりあう二人。娘のキツイ質問に対して、ついには父親から「あまりにも無防備な本音」が投げかけられます。この時ばかりは不意を突かれ、娘は戸惑いのあまり固まってしまいます。

ここの柴咲コウさんの演技は本物です。小賢しい計算からは解放された、本当に役を生きている奇跡的な瞬間がフィルムに定着されていました。しばらく固まった後、「・・・なによそれ。」としか言い返すことの出来ない彼女の思い。
・・・何度も見ているはずなのに、僕は今回ここでホロっときました(笑)。

安易な情緒に流れない冷徹な「映画的センス」

この映画には一人も「善人」はいません。皆、どこかが欠けていて飢えています。
しかし「悪人」もいません。他者と繋がりあおうとして無意識のうちにもがいている人ばかりです。
そしてどの場面でも常に「善」と「悪」が同居し合っています。
こんな冷徹なセンスで物語を紡ぎながら、エンターテインメントとしてもちゃんと成立させられる監督さんは、なかなかいないんじゃないでしょうか。複雑な人間存在そのものを虚飾で飾らずにちゃんと見つめ、甘ったるい情緒で安っぽくごまかそうとしない表現者としての姿勢は、見事だと思います。

汚れて生きるのが人間さっ!

そして、ここがいちばん大事なところ。
「男」だとか「女」だとか「ゲイ」だとか「老人」だとか「若者」だとか・・・そんなアホらしいカテゴライズの窮屈さに捉われながら生きる我々の滑稽さを冷徹に笑いとばし、次第にそれらが混ざり合って混沌としはじめる「武装解除の空間」を一瞬だけでも実現させているこの映画は、やはりタダモノではないでしょう。かといってそこで安易な理想主義や啓蒙主義にも走らずに落とすところは落とし、現実の冷たさの中で汚れながら生きて行くことこそ人間であるということをちゃんと描き出す。これぞ、本当の意味での人間賛歌だと思います。

やはり・・・僕の人生にとってこの映画は、とても大きな出会いの一つでありました。


飯田橋ギンレイホールでは
1/27日(金)まで
11:25/3:45/8:05~の上映です。
(同時上映「八月のクリスマス」←見たけど・・・「メゾン・ド・ヒミコ」とは対極にある、甘ったる~い映画。比較の意味では楽しめるかも。)
・・・ちなみに僕はここの年間パスポート(\10,000でフリーパス)を持っているので、まだ何度も見に行く予定(笑)

DVDが3/3に発売されるという情報をキャッチ!

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇013●田中泯舞踊劇「兵士の物語」今夜放送

映画「メゾン・ド・ヒミコ」で怪演を見せ、高崎映画祭で助演男優賞を受賞した田中泯さんの舞踊劇が、今夜21:00からNHK教育テレビで放送されます。

ストラビンスキーの音楽劇「兵士の物語」を、3トンの砂を敷き詰めた空間でパフォーマンスするらしいです。
共演は準・メルクルさんという指揮者だそうで、なんでも泯さんが彼の指揮する姿に「無数の踊り」を感じたことから、共演を呼びかけたそうです。二人のインタビューも放送されるそうで、「身体を超えるエクスタシーの瞬間」について語り合うとのこと・・・なんだか摩訶不思議ですが(笑)あの 「田中泯ワールド」を再び見るべく、チェックしようと思います。(レビューはこちら)

●ちなみに・・・「メゾン・ド・ヒミコ」は1/14日(土)~1/27(金)に、飯田橋の「ギンレイホール」で「8月のクリスマス」と同時上映されます。僕の大好きな映画館なので、三たび観に行こうと思ってます。FC2 同性愛Blog Ranking

メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇012●犬童一心監督・田中泯さんのトークショー

トークではいくつか、面白いやりとりがあった。
犬童監督によれば、キャスティングは卑弥呼役が最後まで決まらず難航したという。スタッフ達といろんな候補者を挙げてはみるものの、どうしても「違う」ということで延び延びになっていたらしい。

そんな時、犬堂監督は「黄泉がえり」という映画のシナリオを書いた縁で日本アカデミー賞の授賞式に出席し、田中泯さんを見かけることになる。華やかな授賞式の会場の片隅に、ポツンと一人で所在無げに座っている泯さんを見かけて監督は「格好いい~」と一目惚れしたそうだ。しかも、当初はそれが泯さんだとは知らず、舞台上にプレゼンターとして現れた彼を見てはじめて、それが誰だったのかがわかったらしい。

その後、キャスティングのスタッフに交渉を頼み、泯さんに台本が送られた。
台本を受け取った泯さんは、「これを俺にやらせようだなんて・・・タダ者ではないな」と、突飛なオファーをする犬童監督に興味を持ったという。
実は「たそがれ清兵衛」に出演して以降いくつも出演依頼はあったけれども、踊りのスケジュール等もあって断っていたという。しかし、この不思議な役へのオファーは、彼の心に強烈な引っかかりを作ったらしい。

かくして、山梨にある泯さんのスタジオに犬童監督が直接訪問し、出演交渉が行なわれた。
泯さんとしては実は乗り気だったようだが、そういう態度を見せなかったため犬童監督に不安を与えていたらしい。トークの時に、はじめてその事実を知った犬童監督は、「あの時、やる気でいたんですかぁ?」と驚いていたのがおかしかった。泯さんは映画の中だけでなく、普段から感情を「表」に表さないタイプのようである。

犬童監督の泯さんへの思い込みは強烈なものだったらしく、アカデミー賞の会場で一目惚れをした瞬間から、「この人は絶対に受けてくれるだろう」「断るはずがない」と確信を抱いていたという。
その熱意は撮影が始まった現場でも持続し続け、泯さんに演技指導をすることはほとんど無かったそうだ。

犬童監督はどんな現場においても必ず「この人は勝手に泳がせよう」と、軸になる人を決めることにしているらしい。そう決めた人に対しては一切口出しせず尊重する。すると、監督個人の発想からは決して出てこないような「意外なもの」が発揮され、作品が予想もしなかった方向に飛躍することを経験で学んだという。(このやり方自体、すごく犬堂監督らしいと思った。)

この映画の場合は、衣裳の北村道子さんと泯さんの二人が「勝手に泳ぐ」特権を与えられた。衣裳プランに関しては、多少奇抜だったり派手だと思っても、あえて口出しせずに全て尊重したという。結果として、全体の雰囲気作りに、衣裳の果した役割はとても大きなものになった。

泯さんの演技についても、そうした態度が徹底された。
田中泯さんは舞踊家である。表現活動において台詞を使う経験は、ほとんどない。すなわち役者としての技術の蓄積がないのだ。
だから声も小さくマイクで拾うのが大変。顔の表情も乏しい。
しかし監督はそれを否定するのではなく逆に面白がり、そのまま生かそうと企んだ。

周囲の技術スタッフからは、泯さんの演技について何度も「あれでいいのか」と意見があったという。

映画界の常識の中で仕事をしているベテラン・スタッフ達にとっては、泯さんの演技はさぞや素人臭く思えたことだろう。しかし監督は泯さんを擁護し続けたのだ。
「この映画で、泯さんについての私の役割は、なにもしないことでした。そして周囲からも、泯さんについては何もさせないことでした。」
監督はトークショーではサラッと口にしてはいたが、それを徹底するのは、実は「戦い」だったのではないかと思う。

映画を思い返してみると、監督のこの企みは見事に成功だったことがわかる。
泯さんの、決してリキまずに無理をしない穏やかな存在の仕方が、繊細に丁寧にフィルムに定着されていたからだ。泯さんの醸し出す雰囲気自体が、映画全体の雰囲気を象徴するものになっていることがわかる。
撮影現場でも、泯さんの存在が、監督には常に面白くあり続けたという。・・・演技というものの不思議について考えさせてくれるエピソードだと思う。

しかし、いつも思うが映画監督というものはしたたかだ。そうでなければ務まらない。
一見すると「人あたりが良さそう」に振るまっているが、その裏では、もの凄くしたたかに周囲の環境を鋭く観察し、周到にコントロールするべく計算している。そういう生き物である。

トークショーの進行も途中からほぼ監督が進めていたのだが、その言葉選び、相手への気遣いといった優しさの中で時折見せる鋭い眼差しは、監督の内面に潜んでいる底知れぬ冷酷さを感じさせた。そして、とても強い人なのだとも感じた。一度話し始めたら、たとえ周囲がその話に飽きて来ていても構わず最後まで話し続ける。自分の欲求に忠実であり、マイペースなのだ。

その横で語る田中泯さんは、とても謙虚で男っぽい感じの人だった。卑弥呼を演じた時は自分の母親になったつもりだったという。しかも自然に、気がついたらそうなっていたらしい。
静かな口調で語りつつも、やっぱり彼も監督と同じように鋭い眼差しを持っていた。この映画では一介の役者としての参加に過ぎないが、普段は自らが信ずる舞踊の道を切り拓くパイオニアでもある。

二人とも、自分のフィールドを持って表現を追及している第一線の者同士。
独自の体臭を感じさせる強烈な個性のぶつかり合いは、それだけでも充分、見応えがあった。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇011●トークショー開始までのミョーな光景

映画のトークショーって、あまり好きではない。できればそのまま帰りたい。
よく、ドキュメンタリー映画の小さな上映会でも、映画が終ったらすぐに司会者が出てきて、監督との質疑応答が始まったりするが、聞いた後で後悔することが多い。
せっかく映画から受けたいろんなものが自分の中でグツグツと発酵しはじめているのに、他人の言葉でぶち壊されるような気がするのだ。出来れば、観終えたばかりの作品との対話の時間をじっくり一人で楽しみたいのに、他者の言葉が侵入してくると、大切なものが消えてしまうような気がする。(←だったらさっさと帰ればいいのだが、やはり誘惑に負けて聞いてしまう場合が多い。そして後悔する・・・笑)。

妙にテンションの高い司会者だったりすると、その暴力性はさらに高まる。
「なにか質問はありませんか?」と、無邪気な笑顔で客席に振られたりすると、いたたまれなくなる。しかも誰からも質問がない場合の「シーン」とした間が怖ろしい。気の利いた質問が思い付かない自分が、まるで罪人であるかのような気持ちになってしまう。
映画を観た直後の高揚した頭で出来る質問なんて、たかが知れているではないか。ああいう時にスラスラと質問できる人って、すごいとは思うけど僕はあまり信用できない。

しかし今回は矛盾するようだが(笑)、田中泯さんのトークショーがあるというので出かけてみた。ま、観るのは2回目でもあるし。
それにしてもこの映画での田中泯さんの存在感はやっぱりすごい。彼の存在がなければあり得ない映画だと言ってしまってもいいだろう。いったい普段はどんな喋り方をする人なんだろう・・・どんな歩き方をする人なんだろう・・・。普通の姿が見られるということに、とても興味があったのだ。

客席はトークショーがあるにも関わらず、半分も埋まっていなかったのではなかろうか。すでに公開当初の熱気は冷めてしまっているらしい。いわゆる「すっきりさわやかに楽しめる娯楽作品」ではないので、しょうがないといえばしょうがない。・・・これが日本の映画界の現実だろうとも思う。今回のトークショーはきっと、そんな客入りに危惧を抱いた配給会社が急遽設定したのだろうが、告知が徹底できずに当日を迎えてしまったようだ。

映画はやはり心に沁みた。
しかし映画の終わりで、ミョーな光景を目撃して嫌な気持ちを味わった。今回はこのことを書こうと思う。

僕は1階のいちばん後ろの席で観ていたのだが、エンドロールが流れ始めた時、後ろの扉からこっそり若い男が入って来るのを目にした。彼はそっと前の方に行き、通路際の席に座った。そして映画の終了と同時に不自然な拍手をしたのだ。

誰も一緒に拍手する者はいなかった。彼の乾いた拍手のみが空しく響いてすぐ消えた。
おそらく配給会社のスタッフが、監督が来ている事に配慮して行なった行動なのだろうが、なおさら場をシラけさせてしまったように思う。

「準備があるのでしばらくお待ちください。」
明るくなった場内で、若い女性司会者が客席に語りかけた。
舞台の下には照明とビデオカメラが運び込まれ、両脇にセットされる。スタッフが脚立に乗って灯り合わせをしている。・・・僕は、たかだかトークショーで照明が焚かれるのをはじめて見た。

けっこう待たされるもんだから帰ろうかと思ってしまう。案の定、ただでさえ少ない観客がさらにパラパラと減って行く。その代わり、映画の上映時にはいなかった人たちが客席に増えて行く。この人たちは誰?(たぶん配給会社の関係者)。

そして、ある程度客席が埋まっている感じになってから、やっと監督と田中泯さんが登場。
ステージ上に設けられた椅子に座った二人は、至近距離から照明に照らされて、かなりまぶしそうだった。

配給会社のスタッフのこの日の対応は、監督への配慮を最優先し、観客への配慮を欠いているのではないかと感じた。拍手の強要なんて愚の骨頂だ。映画館はテレビのバラエティー番組の収録スタジオではないのだから。

次回は、それなりに面白かったトークショーの内容について書きます。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇010●ふたたび観に行く

また観に行きました。
そしたら・・・観たはずなのに憶えていない場面や記憶違いなども見つかり、記憶の不思議を改めて感じたのでした(←なんのこっちゃ。笑)
だから以前の記事で書いたディテールは、違うところもあります。あんまり気にしないでくださいね~。

今回思ったのは、この映画、実はすごくシビアだということ。
うっかり無防備のままで観るとちょっとした精神的ダメージを受けてしまうかもしれません。
僕にとっては、前回とはまったく雰囲気が違って感じられました。なぜなのでしょう・・・。

筋を追うことからの解放

はじめて観る時というのはどうしても、物語の筋を追うことに意識が集中します。そのため細かい所に目が行き届きません。
特にこの映画は沙織(柴咲コウ)をストーリーテラーのようにして進行するため、まずは彼女の心理がどう変化するのかに気を取られがちです。

しかし今回の僕は、すでに物語を知っています。だから沙織の心理から解放され、周囲のいろんな人たちのことに目を向けられるようになりました。だから印象がガラッと違って見えたのだと思います。

卑弥呼からの自立

今回いちばん印象に残ったのは、卑弥呼の哀しさ。
老いて死に行く者の哀しさが残酷なまでに感じられ、胸を衝かれました。

卑弥呼が大量に血を吐いた日。
春彦は不安に耐えられず沙織を電話で呼び出します。
そして卑弥呼がベッドで寝ている横で、募る不安を沙織に吐露してしまいます。


「こうやって、この人がちょっとずつ死にかけていくのを見ていながら、オレ、生きていたいとか思えなくなってくんだよ・・・もう、愛とかさ、意味ねーじゃん」

「だから、オレが自分をこっちの世界につなぎとめとくにはさ、欲望なんだよ!
それだけなんだよ!」
実はこの言葉を、卑弥呼はちゃんと聴いていたようです。
後日、春彦に釘を刺すからです。

ドレスを着た山崎を、ホームの皆で連れ出してクラブへ行く夜。出かける前に春彦は、ベッドの卑弥呼に挨拶します。
「じゃ、適当にその辺で遊ばせてくるよ」
すると卑弥呼は突然春彦のTシャツの袖をつかんで険しい顔で言うのです。
「駄目よ・・・駄目。」
恋人への嫉妬心をあらわにした、生々しい場面だと思いました。
もしかしたらこの時点で卑弥呼は、沙織と春彦が惹かれあっていることにも気付いていたのかもしれません。
あるいは、ホームの皆を外界へ連れ出すことを止めたのかもしれません。
そのどれもが含まれているように感じられる、多義的な「駄目」でした。
しかも卑弥呼にしては珍しく、感情的に取り乱しているのだから驚きです。

若さの残酷

しかし春彦は若い。卑弥呼の制止を振り切って、思うがままの行動を実践します。
その夜、春彦は沙織と思いが通じ合ってキスをしてしまいます。そして後日ベッドを共にしてみるところまで、二人の関係は急速に発展します。

これでは、卑弥呼は完全に置き去りです。
死に行く老いた者は、生を謳歌している若者の熱情や衝動を止めることはできないのです。
なんという残酷。
あの、めくるめくようなダンスシーンの裏には、卑弥呼の底知れぬ孤独があったのです。

人間の業

生きている限り常に移ろい行くのが「人の心」というもの。
だからこそ、共鳴し合えると感じた時には、儚さを承知の上でわかち合い、楽しむのです。
しかしその楽しみは必ず終わり、空しさが訪れます。
それが人間の生です。

そんな繰り返しをそのままに、突き放すような態度で提示しているのが、この映画の本質であるかのように、今回は感じられました。

だからこの映画を「ファンタジー」と呼ぶのは、あまりにも表層的な見方ではないでしょうか。
「笑い」や「美しさ」の裏には毒がある。「ファンタジー」的なデコレーションは、その毒を少しでも緩和させ、少しでも開かれた表現にしようという、監督なりのバランス感覚なのでしょう。
◇◇◇
次回は、上映の後に行なわれた犬童一心監督と田中泯さんのトークショーについて書いてみます。実は僕は、これを目当てに出かけました。そして、この映画の持っている体質通りにシニカルな、犬童監督という人格に興味を持ちました。では次回。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇009●父のような、母のような・・・

21年ぶりの再会には、二人きりのシチュエーションが用意されました。
春彦の案内で卑弥呼の部屋に案内される沙織。しかし卑弥呼は見当たりません。
「ちょっと待ってて・・・」
春彦は部屋を出て行きます。
(↑せっかくの親子の再会は当事者2人であるべきだという、シナリオライターの配慮なのでしょう。)

一人になった沙織は、無人の部屋を見渡します。
部屋の中心には大きく優雅なベッド。壁には半裸の男が横たわっている絵。

静寂の中、卑弥呼が登場。
紫のガウンに上品な花柄のストール。頭には紫の布を巻いて神秘的な雰囲気。その立ち姿は「品」を感じさせます。

「・・・新しいアルバイトの方?」
卑弥呼は、すぐに娘だとは気付きません。長年この二人が会っていなかったことが察せられる言葉です。

沙織をアルバイトの子だと勘違いしたままの卑弥呼は、ブランチに沙織を誘います。
しかし沙織は立ちすくむだけ。その眼光はやはり強烈です。
無理もありません。なんともいえない奇妙な存在感を放っている彼を目の当たりにすれば、誰もがしばし言葉を失うのではないでしょうか(←だって演じてるのが田中泯だもん)。もはや睨むことしか、彼女にはできなくなっているようです。

沙織のただならぬ気配を敏感に察知した卑弥呼は、やっと気付きます。
「・・・あなた、もしかして・・・。」

しかし、そのまますぐに場面は切り替わり、ホームのゲイたちが一同に会するブランチの様子が映し出されます。

◇◇◇

卑弥呼役の田中泯さんは、インタビューで面白い発言をしています。
「イメージしたのは、亡くなった母のような女。動きは、何から何まで母から来ています。外見は似ていないんですが、映画を見た僕の子供たちは『おばあちゃんにそっくり』と言ってました。真似しているうちは、まだ僕ですが、母と僕が重なっている瞬間は母なんです。技術としての演技ができない僕にとって、その人になっちゃうのが一番近くて、他の俳優さんに失礼でない、僕なりのやり方だろうと思っています。(中略)実は僕の人格の大半は母親の影響を受けているんですが、これまで母の事は喋らないできたんです。でも今回は、大事にしまっておいた風呂敷を広げているような感覚でした。これからは踊りの中にも母が登場してくる気がするんです。」(オフィシャルブックより)

父親だけれど、性を超越しているから母親のようでもあり・・・。
田中泯さんがこの映画の中で見せている存在の仕方は、演技というものの不思議さをまざまざと見せつけてくれます。

既成の言葉で喩えるのは無理。
僕はまだ、彼の演技を形容すべき言葉を見つけ出せずにいます。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇008●卑弥呼の人生

沙織との対面シーンに行く前に、さらに寄り道して父親・卑弥呼(田中泯)の人生について考えてみたくなりました。

この映画の中では、卑弥呼の過去についてはあまり説明がありません。
その分、限られた情報の中から観客自身が卑弥呼の人物像を組み立てることになります。
彼についての情報は、冒頭のナレーションに多く含まれています。オフィシャル・ブックのシナリオから引用しながら、考えてみようと思います。
ナレーション「1958年。東京銀座コリドー街の奥に一軒のゲイバーが開店した。店の名は卑弥呼。初代ママは退廃的な美貌とエレガントな接客で客たちを魅了するも、1985年に肝硬変のため引退。2代目卑弥呼を一体誰が襲名するのかは当時ゲイたちの注目の的であったが、彗星のごとく現れてママとなった人物があった。吉田照雄、40歳。初代ママに劣らぬ魅力と才覚で店を繁盛させ続けるが、2000年に突然閉店。神奈川県、大浦海岸の近くに一軒の老人ホームがひっそりと開設されたのは、その2ヶ月後であった。
(脚本:渡辺あや)

卑弥呼の本名は吉田照雄。
1945年、終戦の年に生まれた。
年齢設定は59歳。
いわゆる「団塊の世代」と呼ばれる戦後のベビー・ブームの人たちよりも、少し上の世代(「プレ団塊世代」と呼ばれることもあるそうです)。高度経済成長の加速する最中に青春時代を過ごした世代です。

19歳の時に東京オリンピックが開催され、ベトナム戦争が激化する中で大学時代を過ごし、学生運動がこれから活発になるという頃に大学卒業。 ある意味、1968年に世界中で吹き荒れた「大学闘争」や「若者たちによる革命運動」の下地を作リ、引っ張る役割を果した世代だと言うこともできるでしょう。今の若者達と比較すると、血気盛んな世代であるとは言えると思います。国家権力や既成の権威に対して反抗することがムーブメントとしてあったわけですから。

☆もちろん「世代」によって個人の性格が決まるわけではなく、どんな時代にもいろんなタイプの人たちがいたでしょう。しかし「どういう時代の雰囲気の中で青春を過ごしたか」ということは、多かれ少なかれその人の人生に影響を与える要因でもあるので、ちょっと乱暴な「世代論」を持ち出してみました。
☆ちなみに、卑弥呼を演じた田中泯さんも、1945年生まれだそうです。・・・公式サイト参照)



会社に勤め始めた頃の1970年には大阪万博という「高度経済成長誇示の一大国家イベント」と、三島由紀夫の自殺という「高度経済成長の精神的揺らぎ」を象徴する大きな出来事があります。
1973年のオイルショックの頃には、バリバリと仕事をこなすようになっていたことでしょう。

1981年。彼が36歳の時に沙織が生まれます。
その頃に沙織の母親と結婚したのでしょうから、20代~30代の間は普通に会社勤めをしていたようです。

そして1985年、40歳の時にゲイバー「卑弥呼」の2代目を継ぎます。時代はバブルの絶頂期を迎えようとしている頃です・・・
ということは、どうやら30代の頃の吉田照雄さんは二重生活をしていたという事になります。
家庭を持ち妻子を持ち、社会では「男」として生きつつ、「ゲイ」としての自分を解放する場も同時に持ち続ける二重生活。あり得ない事のようですが、実際、このような生き方をしている人はいるし、特に珍しいことではないようです。(よく話に聞きますから。)

こう辿って見てみると、やっぱり気になるのは、彼はなぜ40歳の時に突然「卑弥呼」の2代目ママになったのかということ。
おそらく初代ママと愛人関係にあったか、親密な間柄だったということでしょう。余程の思い入れがなければ、家庭を捨ててまでゲイバーを継いだりなんかしないでしょうから。

「40歳になる」という節目の時に愛する者を亡くし、人生というものを考えた。そして、彼の中で「自分の生き方」を選択し直したのではないでしょうか。

長年の二重生活でフラストレーションが溜まっていたのかもしれません。女性との性生活を続けることはやっぱり無理だったのかもしれません。その上で彼は、自分の本性に忠実に生きる道を選択したのです。

そのために払われた犠牲は多大なるものがあります。今まで仕事で築き上げて来たキャリアや社会的な地位は捨てたでしょうし、家庭も捨てることになった。娘も捨てることになった。
あちこちに傷や禍根を残すことは目に見えています。
しかし彼は、そうした道を選んだ人なのです。

その後15年間、55歳で店を閉じるまで「卑弥呼」のママとして夜の世界に君臨し、店を繁盛させます。春彦とは店で出会ったのでしょうか。店を続けながら資金を貯め、晩年の過ごし方として選び取ったのが「ゲイのための老人ホーム」を建設し、そこを運営するという道。

吉田照雄さんの人生の分岐点は40歳。
そこから先は「卑弥呼」と名を変え、堰を切ったように自分の人生を選び取り、設計しながら実現してきたと言えるでしょう。特に「メゾン・ド・ヒミコ」建設にあたって春彦はパートナーであり、未来を一緒に作り出す「同志」でもあったのでしょう。

そんな卑弥呼も末期癌を患い、余命幾ばくもない状態。
死期の迫った卑弥呼への愛情から、春彦は父娘の再会という修羅場を設定します。

そこでは、互いにゆずれない「人生という名の重し」を背負ったままの二人が、真正面からぶつかり合うことになるのです。
ある意味残酷な対面ではありますが、やはり必要なことではあったのだと思います。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇007●沙織の人生

いよいよ卑弥呼の登場まであと少しとなりましたが、再びちょっと脱線して・・・(笑)
この映画の主人公・沙織(柴咲コウ)の内面について、もう少し掘り下げてみたくなりました。
「メゾン・ド・ヒミコ」を訪ねるまでに彼女がどういう人生を過ごしてきたのか。それがこの映画の大切な背景になっているからです。

そのことに関連して、003●柴咲コウの目②にいただいたRINさん のコメントを紹介させていただきます。

●柴咲コウの視線は「ツッコミ」だという意見ですが、なるほど、と思うと同時にちょっと違うなとも思いました。彼女は、子供時代の「父」の姿しか知らないわけですから、単に「ゲイ」の世界を観に行くだけではなく、自分の知らない「未知の父」の姿を見に行くわけでもありますよね。ガンで余命幾ばくもない、それにプラスして、父親がゲイである姿を見ることは、彼女の父親に対する既成概念を壊すことであり、「ツッコミ、関心、興味」よりも「恐怖」に近いと思います。なので同じ視線で「ゲイの老人ホーム訪問」という気分には私はなれなかったです。あの「ツッコミにまつわる攻撃性」は、恐怖に裏打ちされた攻撃性であると思うし、「ゲイに対する攻撃性」というより、「自己崩壊、自己変革」への恐怖の方が強いように感じました。父親への怒りが彼女の半生を支えてきたわけですし。
するどいっ!
「父親への怒りが彼女の半生を支えてきた」
とありますが、その通りだと思います。
彼女の眼光の鋭さは、その支えが崩壊するかもしれないことへの恐怖だったのかもしれません。

そしてさらに言うとすれば、彼女を支えてきた父親への怒りは、「憎悪」に近いものだったのかもしれないとも思いました。


卑弥呼が銀座のゲイバー「卑弥呼」の2代目ママになったのは1985年。
沙織は24歳という設定だから1981年生まれ。
つまり4歳の時に父親に捨てられたわけです。

彼女が幼い頃、父親に可愛がられたのかどうかは描かれていません。おそらく関係は希薄だったのではないかと思われます。

彼女にしてみれば、あたりまえにいるべき父親が突然、自らの意志で出て行ってしまったわけです。しかも「男が好きだから」という理由で。
・・・ということは当然、、自分はなんなの?ということになります。
自分は、両親が愛し合った上で生まれたわけではないのか・・・?
望まれて生まれたわけではないのか・・・?
彼女は物心ついた時から、そういう疑問に悩まされ、苦しめられて生きて来たに違いありません。

しかも父親は生きているのに、連絡一つ寄越さない。自分に会おうともしない。
3年前に母親が癌で亡くなった時の葬式にすら顔を出さない。
彼女はその時に親戚から借りた入院費と手術代を返済するため、会社の他に深夜はコンビニでバイトしなければならない生活を送っています。これでは憎悪が募らないわけがありません。

春彦(オダギリジョー)が、卑弥呼の末期癌を理由に誘いに来た時も、彼女は車の中でこんな言葉を吐いています。
「あんな男、癌だろうが末期だろうが関係ない。死ぬならとっとと死ねって感じ。」

親というものは、子どもを愛するもの。
一般的には、そういうふうに考えられていると言っていいでしょう。
しかし、自分を愛してくれるべき人が愛してくれないとき・・・愛は憎しみに変わるのではないでしょうか。
「自分が悪いわけではない。母親が悪いわけでもない。父親が勝手に母との関係を裏切って、自己実現だかなんだか知らないけど出て行った。」
卑弥呼の振舞いは、彼女からはそう見えて当然です。

これは彼女にとってはアイデンティティーに関わる問題です。いつまで経っても自分を縛り、抜け出したくても抜け出すことはできない深刻な問題です。

そして彼女は「メゾン・ド・ヒミコ」に行きました。

春彦が提示した「日給3万円」という額に魅力があったことも確かでしょう。しかし、やはり父親と会ってみたい。ひょっとして謝ってもらえるのかも・・・という期待が無かったとも言い切れないでしょう。
もしかしたら、「日給3万円」という破格の給料は、春彦の優しさかもしれません。(あるいは、狡さかもしれません。)
それを表向きの理由として、本音を隠した形で彼女は父親を訪ねることができたわけですから。

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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇006●伝説の「卑弥呼」について

前回の記事005●やっぱ女装かぁ・・・のコメントでephaさん が「卑弥呼」ついて書いたのに刺激され、ちょっと調べてみましたが・・・なかなかミステリアスな存在なんですよね、歴史上の卑弥呼って。
そして、その謎めいた存在の仕方と伝説の中に、この映画での「卑弥呼」のあり方と共通しているような部分が多々あり、ネーミングの妙が窺えます。

フリー百科事典『Wikipedia』での卑弥呼の説明によると・・・
「卑弥呼」という記述は、現在の日本国土からその痕跡が発見されたことはなく、中国・朝鮮半島の歴史書にしか記述されていないようです。(三国志時代の魏志倭人伝など)。

だから「卑弥呼」が日本史上の誰を指すのかは不明であり、そういう人が本当にいたのかも謎。いまだに決定的な「正論」に達することなく諸説が共存したままだそうです。

「邪馬台国」と「メゾン・ド・ヒミコ」を、強引に結びつけてみる(笑)

歴史上の卑弥呼は年老いてから王になったそうです。
王になってからの姿を見た者はなく、1000人の女を召使としていました。
ただ一人の男子のみが彼女と会うことができ、飲食の世話をして彼女の呪術の結果を人々に伝える役割を果たしたと言われています。
・・・「メゾン・ド・ヒミコ」の卑弥呼はここまで閉鎖的ではありませんが「一人の男子」を従えていたというのが、なんとなくオダギリジョーの演じた春彦の存在とかぶります。
邪馬台国の卑弥呼が死んだ後は若い女性が後を継ぐことになるのですが・・・これまた春彦的です。(自分と同類の者を後継者にしたという意味において。)

他者の目がなければ伝わらなかった「卑弥呼」伝説

僕が卑弥呼の伝説のあり方として最も面白いと思ったのは、「卑弥呼」と「邪馬台国」の存在は、中国・朝鮮半島の歴史書に記述されなければ伝わることがなかったという事実。
つまり「外の世界の者の目」によってはじめて、その存在が証明されているということです。
卑弥呼は積極的に、中国や朝鮮半島に使者を送り、鏡などの物資の交易を行なったと言われています。
この狭い島国の小国に生きる者として、自閉することへの危機意識を持ち、海の向こうに広がる世界に自国の存在をアピールする必要性を感じていたことが窺えます。それは邪馬台国という閉鎖社会を停滞させないために必要なことだったのでしょう。そして、小国として(マイナーなものとして)、大国と友好関係を結ぶことの重要性を認識していたのかもしれません。

自閉しないために「他者」を求める

この映画における「外の世界の者」とはもちろん沙織(柴咲コウ)。
「メゾン・ド・ヒミコ」というゲイの閉鎖社会に沙織を呼び寄せたのは春彦(オダギリジョー)の卑弥呼への愛情。卑弥呼は末期がんに侵され死期が迫っています。死ぬ前にこじれた父娘関係をなんとかさせたいと思ったのでしょう。
しかし理由はそれだけではなかったのではないでしょうか。春彦自身も、刺激を求めていたのではないでしょうか。
停滞した老人ホームでの日常。みんな年老いて行く中で若者は彼一人だけ。しかも恋人は日に日に衰え、やつれて行く。先行きの見えない中で孤独感が募り、強烈に他者との出会いを求めていたのかもしれません。

沙織が訪ねて来たことにより、「メゾン・ド・ヒミコ」という閉鎖社会には刺激が生まれます。
かなり掻き回されもしますが、沙織の若さと率直さによって確実に活性化されたのです。
他者としての彼女の目。
それがもたらした非日常。さまざまな事件と出会い、別れ。

人は、自分が生きていることを実感するためには「他者」という鏡を必要とします。
他者と生き生きとした関わりを持ち、ぶつかり合う中ではじめて、自分の存在を感じるのだと思います。そうした意味でも、自閉して滅びかけていた「メゾン・ド・ヒミコ国」は、沙織という他者によって活力を取り戻したのです。

この映画のこうした構造は、「ゲイ」として生きている者にとって、とても示唆的だと感じます。
この映画は、「ゲイ」という枠組みに自分を当てはめ、他者を怖れて自閉しがちな人たちに対する、異性愛者の作家と監督からの問題提起だと言えるのかもしれません。
もちろん自分もそんな「ゲイ」の一人です。
けっこう臆病です。その反面、他者と出会う契機を強く求めていることも確かです。
そんな自分の姿を見つめなおすことのできる映画でもありました。

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