燐光群「アイ・アム・マイ・オウン・ワイフ」●PLAYレビュー

セクマイたちへの鎮魂歌
MtFトランスジェンダーとして20世紀初頭の東ドイツに生まれ、波乱の生涯を過ごしたシャーロッテ・マールスドルフが主人公。
もともとは一人芝居として、ニューヨークのアングラ派劇団シティカンパニーが初演し、トニー賞やピュリッツァー賞を受賞した世界的に有名な戯曲を、燐光群が16名の出演者で翻訳上演。吉祥寺シアターの剥き出しの裸舞台を生かし、退廃的な場末のキャバレー風の客席を創り上げ、あとは生身の俳優の肉体で勝負。さまざまに自らの想像力を喚起させられ、演劇ならではの魅力を存分に味わうことが出来た。
■2月16日まで上演中。
この戯曲を書いたのは、ゲイ当事者であるアメリカの脚本家ダグ・ライト。彼がシャーロッテと実際に面会し、インタビュー取材を重ねる光景を劇中に頻繁に登場させながら、「シャーロッテが語る自身の生涯を、若き作家のダグ・ライトがどのように受け止めたのか」が観客に提示される構成。
役者全員の衣装は同じ。黒を基調とし、上半身はスーツのようなワンピースのような不思議なデザインで、下半身はスカートで靴はスニーカー。男性性と女性性が入り混じった印象を換気させる。そして俳優達はそれぞれに、シャーロッテを演じたり、別の役を演じたり、次から次へと役目を変えて行く。つまり一人の俳優に、シャーロッテのイメージを集約させないのだ。一人の俳優が男になったり女になったり、子どもになったり老人になったり。こうした変化を自在に瞬時に出来るのは、演劇ならではの特性だろう。
この演出によって結果として浮かび上がるのは、人間存在というものの流動性。そして儚さ。性的にも人格的にもアイデンティティを固定させずに越境しながら時代の変化の荒波を生き抜いた、シャーロッテのしたたかさ。劇のテーマを理屈ではなく、まさに「肌感覚」として感じることができた。
それにしてもシャーロッテの生涯というものは凄まじい。
「男性」としての身体で生まれたものの、幼い頃に性別違和を憶え、女性の服を身につけることで「しっくりくる自分」を発見する。20世紀のベルリンにおいて、セクシュアル・マイノリティが「ありのままで生きる」ことは、すなわち「異端」のレッテルを容赦なく貼られることに繋がる。しかし、彼女は可能な限り「ありのまま」の自分を通そうとする。その後押しをしたのは、レズビアンである、彼女のおばさんだった。なんと心強かったことだろう。
劇中では20世紀初頭のベルリンにおける、ゲイやレズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーたちがどのような生き方を強いられていたのか、どのように出会いの場を求めていたのかについても丹念に描かれていて興味深かった。この辺りの細部にこだわったのは、やはり作家がゲイ当事者だからだろう。東独でのその時代ごとのLGBTたちの「生活」や「思い」が丁寧に描写されていて、やはり当事者として観ていると胸に迫るものがあった。
伯母がレズビアンであったものの、シャーロッテの父親はなんとナチス党員。「男性性」を振りかざし、理不尽なくらいまでの凶暴さで家族を圧迫する。しかも息子がいわゆる「異性装者」であるわけだから、家族の関係は一筋縄ではいかなくなる。こうしたドラマチックな展開が、シャーロッテの人生には頻発する。
戦後を生き延びたものの、東西冷戦の時代における東ベルリンの共産主義体制下では、秘密主義がまたしても、セクシュアル・マイノリティたちの生き方を圧迫した。そんな中、シャーロッテはゲイのレコード収集家と恋をするが、やはり国家体制の犠牲となり悲劇的に引き裂かれたりする。それでもシャーロッテは、秘密警察(シュタージ)を何度も出し抜きながら、持ち前の「したたかさ」でベルリンの壁崩壊・冷戦時代の終焉まで生き延びる。そして、こうしてかつて「西側」だったアメリカの若きゲイ作家の訪問によって生涯を脚本化され、上演されるに至るのだ。

まさに、「生きた歴史」が心に刻み込まれた。しかもそれが、よくあるハリウッド映画のように暴力的に一方的に押し付けられるわけではなく、あくまでも、観ている自分自身の「想像力」によって、自らが心の中に刻み込む。そんな体験が出来る豊かな舞台だった。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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劇団フライングステージ「プライベート・アイズ」●PLAYレビューのような感想のような

★劇団公式ページはこちら。
高校時代の演劇部が主に描かれ、ゲイであることに気付いた主人公の悲喜こもごもが描かれているのですが、大学時代に演劇部を経験した僕としては「こういう人、いたいた」とか「こういう恥ずかしいことやってたなぁ~」と、若かりし頃のいろんな無茶をした記憶が数々呼び起こされました。ただし、当時の僕は自分がゲイだとは微塵も自覚していませんでしたけどね(爆)。
当時、男の先輩とのキスシーンを演じさせられたこともあったのですが、たしかに普段よりも役作りをせずに自然にその役に入っていける自分に気づいてはいました。でも、それがなぜか「ゲイである」という発想には結び付かなかったんですよ。基本的にセクマイに関する情報が届いていなかったんだと思います、当時の僕には(苦笑)。
そんな頃に感じていた微妙な感情って、こういう機会でもないと思いださないもんなんですねぇ~そのこと自体に気がついて更に驚いたりして。
演劇部経験者で、ゲイの人には超どストライクに響く内容だと思います。そうでなかったとしても、学生時代のいろんなことを思い出したり、文句なしに抱腹絶倒で爆笑できる場面があったり、ゲイならではの直面する悩みを主人公と共に疑似体験して甘酸っぱい思いをしたりと、すご~く楽しめる内容だと思います。
特に見どころは、主人公が自分の「性」を身体的にも精神的にも、どのように受け入れていくのかがすごく丁寧に繊細に描き出されているところ。不覚にも、思わず泣きそうになっちゃう場面もありましたよ(←ひさしぶりです、そういうの)。7月20日まで上演しているそうですので、ぜひどうぞ。超オススメです。
約半年に一度、こうしてフライングステージの舞台を見ることで、気持が「原点」に戻れているような気がします。今日もすごくさっぱりと、いろんな「憑き物」が落ちたような気持ちになれました。感謝です。→FC2 同性愛 Blog Ranking
劇団フライングステージ「ミッシング・ハーフ」●PLAYレビュー

前日に見た「ジェラシー~夢の虜」と同じ場面設定=20世紀初頭の上海にある一室が舞台。今日はそこの住人であるマリーさんの8年後の姿が描かれていた。
このマリーさんってのが、かつて映画が無声映画だった時代に女形として活躍していた人なのだが、トーキーになったとたんに女形は皆、お払い箱になってしまい、上海に流れて宦官になり(つまり性転換して)女優になるチャンスを窺いながらも、なかなかチャンスに恵まれずに街娼をしているという設定。
映画がトーキーになった時に活動弁士が不要になったのは知ってたけど、リアリティが求められるようになって女優が活躍するようになり、女形の仕事が奪われたというのは知らなかった。
こういうところに注目して作劇するっていうのが、さすがは関根氏。劇団フライングステージでこれまで書いてきた脚本では、歴史とか文学の名作の「クィア・リーディング」がたくさん行われている。つまり、あまり語られることのなかった「セクマイ的な視点」から、歴史を捉え直しているわけであり、本当に貴重な仕事を続けているんだなぁと尊敬。
今回は昨晩の舞台よりももっと濃厚に、マリーさんの恋愛模様とか人生が描かれていて、感じ入ることが多かった。昨晩は川島芳子に惚れたが、今日は関根マリーに惚れた(笑)。
こうして「いい舞台」を見ると思う。「人間を描く」ということは、綺麗事だけではなくその人物の醜い部分とか隠したいと思ってる部分とかにもスポットを当てることであり、醜悪でグロテスクな行為でもあるわけだ。それがあってこそ、その人物にとっての夢や理想が対比的に浮かび上がり、表現としての立体感が増す。
光は、影があるからこそより光として輝く。
影は、光があるところには必ず存在する。
・・・これ大事。
それにしてもマリーさんはやはり、ある意味では関根氏の分身なんだろうなぁと思う。ものすごく役柄に愛情を持っていることが伝わってきたし、これから年を重ねることでこの役を彼がまたどんなふうに咀嚼して新たな生命を宿らせ続けていくのかを、ファンとしてず~っと追跡していきたいと思った。
関根信一氏にはこれからも、好き勝手に我が道を進み続けてほしい。「自分でなければ出来ないこと」見つけられている人って、本当に幸運だと思うから。→FC2 同性愛 Blog Ranking
劇団フライングステージ「ジェラシー~夢の虜」●PLAYレビュー

川島芳子についての物語だったので、昨年末にテレビ朝日で放送された「川島芳子物語」を見ておいて良かったと思った。彼女の人生のあらすじは、あのドラマのおかげで頭に入っていたので今回の演劇、すごくとっつきやすかった。
昨年の「新・こころ」に続いて、最近劇団フライングステージは「文芸もの路線」をかっちりと丁寧に上演している。とても見ごたえがあって、良質な名作映画を見たあとのような満腹感。
テレビ朝日のドラマの数倍は、川島芳子が「人間」として想像できた。そして、常に「役割」を演じ続ける道に自分を追い込んでいった彼女の孤独や哀しみ。時に「素直な心」を垣間見せた時の「ちょっとした瞬間に感じられる温かみ」のようなものがしっかりと演じられていたので、人物像が立体的に浮かび上がってきた。
なんといっても、「あの川島芳子」に親しみを感じられたというのが凄い。高飛車で近寄り難そうなキャラクター造形なのにも関わらず、逆に親しみが湧く。それはきっと綺麗な面だけでは無く、泥臭かったり醜い部分まで丁寧に描かれているからこそ。真の意味での「親しみ」というのは、綺麗事では感じられないものなのだ。
関根信一氏が演じていた「マリー」という役柄は、川島芳子と2ヶ月間だけ親密に過ごすことになる宦官である。すなわち性転換をした、現代でいうところの「MtFトランスジェンダー」。おそらく想像上の人物なのだが、まるで歴史の物語世界の中に関根氏自らが飛び込んで行って体験しているかのような錯覚に陥った。
他にも、登場人物に「ゲイ」を忍び込ませていたりと、フライングステージらしい仕掛けも仕込まれていたが、全体としてはやはり、自らの生き方を様々に「演出」しながら生きざるを得なかった川島芳子の苛立ちの中から浮かび上がる「弱さと強さ」が儚げで、そこに「色気」のようなものを感じて魅入ってしまった。惚れそうだった。
近年の関根信一氏。劇作家としても演出家としても、すごく面白くなってきていて目が離せない。描き出された世界観が繊細で、なおかつ深くて。2時間以上があっという間に過ぎ行く劇世界が創造されていた。→FC2 同性愛 Blog Ranking
「愛しのコンタキンテ」男たちに捧げるチンコンカ●PLAYレビュー


新宿二丁目郵便局の前を通りかかったとき。その通りの反対側にあるゲイ・ポルノショップの左隣に、半裸の男性の大きなポスターと、水着(競パン)姿の等身大の看板が、やたらと目立っているのに気付きました。

この人は、かつて江頭2:50さんとホモコントコンビ「男同志」として、1990年代に舞台に立ったり『タモリのボキャブラ天国』などのTVに出たりしていたそうです。僕はその当時、テレビを全然見ない生活をしていたので知らなかったのですが、最近になってYouTubeでは見たことがありました。そのコントは、「ノンケ目線から、ゲイを笑いものにしている」と捉えることも可能なわけですが・・・不思議なことに、僕はなぜだか「侮辱された」という気持ちを持たなかったことを憶えています。
そもそも江頭2:50さんといえば「夜中の2:50を過ぎるとホモになる」ということから付いた芸名らしいですし、本人が同性にも惹かれるセクシュアリティーをあちこちで広言していることは知られていますし。そもそも芸風がアナーキーですからね。その文脈で理解されているのかもしれませんが・・・僕はああいう表現、大好きなんです(笑)。既成の秩序を根底から「笑い」によってひっくり返すという意味では、ホンマもんの「お笑い」だと思ってます。
さて、そんな江頭2:50さんとコンビを組んでいたコンタキンテさん。そのライブ告知看板には、次のように書いてありました。

「女性もノーマルな方もご入場いただけます。」という表現が、いわゆる「活動家的な感性」を鋭くした場合には「キィ~ッ!ふざけんなっ!」と抗議すべきところではあるのですが・・・(だって、ノーマルの反対語はアブノーマルでしょ。これって「同性愛者はアブノーマルだ」と言ってしまってることになるんですよね。しかも新宿二丁目で堂々と。爆)その、あまりにもあっけらかんとした様子に「まぁ、しょうがないか」と、逆に面白みを感じてしまったりもして。(←人間の感情って複雑。爆)その夜19時からの回のチケットがまだ入手できたので、見てみることにしました。新宿2丁目についに飛び出した「男色の悪魔」
元男同志のコンタキンテ
もう我慢なんて出来ない
愛し合う男たちに贈る太くて長いスペシャルライブ
余計な言葉など要らない
いくもいかぬもあなた次第
飛ばします!かけます!飛来物にご注意!
女性もノーマルな方もご入場いただけます 。

舞台では次々とショートコントが芝居形式で展開されるのですが、オープニングでは看板と同じ競パン姿でダンスを踊ったり、死んだゴキブリが付いているゴキブリホイホイを下に置き、片手や指先だけで腕立て伏せをして観客の「嫌悪感」を煽ったりと、無菌浄化されたテレビ表現などでは決して味わえない種類の感情がノッケから喚起されました。
ホモネタとしては、「男性専用車両」というコントがありました。アキバ系のオタクらしき人物が男性専用車両に迷い込み、どんどん車内の「ホモ度」がエスカレートして貞操を奪われそうになるという内容。車内の吊り広告が「バディ」ではなく「薔薇族」だったりするところが、「あぁ・・・この人のホモ知識は10年前でストップしているんだなぁ」と感じさせられましたが、(今の「薔薇族」に吊り広告を出す資金力などないのであ~る。爆)一般的なノンケ男性が「ゲイ」だとか「ホモ」を想像するとき、まず短絡的に想像してしまう世界というのはこういうものなのか、と学ぶことが出来たとも言えるでしょう。
だからと言って侮ってはいけません。ある意味では「真を衝いている」とも言えるわけですよ。もし本当に「男性専用車両」が出来たとしたら、まっさきに「ゲイのハッテン車両」と化すだろうことは想像に難くないわけで(爆)・・・表現方法としては毒々しいけれども、実は鋭い現実風刺だったりもするわけです。
ホモネタばかりではなく、いろんな「男性の人生の断片」がコントという形で表現される舞台だったのですが、コンタキンテさんの肉体から醸しだされる「ちょっと枯れている感じ」が悲哀という名のリアリティーを与え、基本的には愚かしい存在である「人間」というものを、喜劇として描き出す手腕。その表現世界に、いつの間にか惹き込まれている自分がいました。

ここまで見ていると、いわゆる世間で言うところの「父親」と「母親」の役割が入れ替わった形の夫婦を描いているのかと思えるのですが、電話でのやりとりをよく聞いていると、相手も男性だということがわかってくるのです。つまり、男性同士で子育てをしている家庭の光景を描いたコントだったのです。そのことに気付いたとき、ちょっとジーンとしてしまいました。(←演者の思う壺なわけですが。笑)

なぜ、この人が描き出す「ホモ」に僕はムカつかないのか。その理由はきっと、そこに「愛情」が感じられるからなんだと気付きました。→FC2 同性愛Blog Ranking
劇団フライングステージ「新・こころ」●PLAYレビュー

●劇団フライングステージ公式サイト
この劇団は「ゲイの劇団」と打ち出しているにもかかわらず(?笑)客席が程よく様々な人が混ざり合っている様子がなによりも「いいなぁ」と思います。劇団の歴史の厚みと、着実な活動が生み出す成果なんだと思います。
物語は、夏目漱石の「こころ」の台詞を、ほぼそのままにドラマ化した部分と現代の部分との入れ子構造になっているのですが、台詞には書かれていない「行間」の部分が俳優や演出の解釈によって舞台上に立ち上げられたとき、それはまさに好意を寄せ合う男と男同士の心理を描いた小説なんだということが、見事に浮かび上がっていました。
まるで映画「ブロークバック・マウンテン」を見ている時と同じような、もどかしさとかドキドキした感覚を味わいました。肝心の「言いたいこと」が相手に言えないからこそ、起きてしまう擦れ違い。恋愛状態にある時の悦びと苦しみ。しかも愛した相手が同性なんだということを、どう自分で解釈して受け入れたらいいのかを掴みかねている人の「宙ぶらりん」とした感覚が、ヒリヒリと伝わってくる台詞と演技。
でも、だからこそ、ほんのちょっとでもその気持ちが相手に伝えられたときの爽快感や解放感が、まるで至上の喜びに感じられたりする時もある。そんな感情の起伏が実に丁寧に繊細に演じられています。「この人ミスキャストだなぁ」と感じられる人が一人もいなくて、登場人物が生き生きと各々のリアリティを持って舞台に生きているので、最後まで飽きずに観ることが出来ました。上演時間は2時間以上あるのですが、1時間半ほどで終わったのではないかと思えるほど早く感じられました。終演後に時計を見た時に驚きましたもん。「えっ・・・そんなに経ってたの?」って。
どの人物も観ているうちに親近感が湧いて、おもわず好きになってきてしまう感じがあったのですが、特に女性の登場人物を演じていた、劇団員の関根信一さんと石関準さんの演技には笑いながらも魅せられました。「あぁ、いるいる、こういう人」っていう現実味がちゃんと出ていたし、男に好意を寄せる男に恋してしまった女性の側の切ない気持ちとか、家の存続や娘のことを思うばかりにしたたかな振る舞いをしてしまう母親のエゴや策略も、嫌味なく丁寧に描かれていました。
内面的にはドロドロしているにも関わらず、全体的には展開がコミカルでスピーディー。観客としては、気軽な気持ちで笑って観ているうちにいつの間にか心が深く動かされ、何度も意表を突く場面でジワッと来てしまいました。
きっと演出が全体的にクールで乾いていて緩急を付けられていたことと、本音をあまり語らないタイプの台詞が多いからなのでしょう。ジメジメとした押し付けがましい表現を排することが出来たからこそ、逆に登場人物たちの内面を観客が想像できる「隙間」がたくさん生まれたのだと思います。そのへんのバランスが絶妙で小気味いい舞台でした。
3月26日(水)まで上演されているので、観に行ける地域の方はぜひ、お見逃しなく!→FC2 同性愛Blog Ranking
劇団フライングステージ「Tea for two~二人でお茶を」●PLAYレビュー

たしかあの時。胸がグッと締め付けられて、おもわずホロリと来た瞬間があった。若い主人公が勢いにまかせて電話で親にカミングアウトを「まくしたてて」しまった時。「ごめんね、こんな大事な話、電話でしてしまって・・・」と受話器に向かって謝った時だった。
ゲイとしての自分の心の奥深くにある「核」の部分を、情け容赦なく引っ張り出された気がした。主人公2人が「ゲイだからこそ」ぶつかってしまう様々な出来事。それは僕にとっても「ぶつかってしまった出来事」であり、「これからぶつかるであろう出来事」でもある。主人公たちがズルさや我がまま、どうしようもなさ、一生懸命さ、だらしなさ、格好よさなど、陰と陽を隠さずに見せ合いながら舞台で生きている姿。たわいもない会話を通して伝わる彼らの喜びや悲しみ。その全てが僕にとっては切実であり他人事ではなかった。
このように「ゲイである自分」の根幹の部分を刺激されながら舞台を見る体験って、そうそう出来るものではない。そのことを押し隠す必要も無く安心して曝け出し、大声で笑ったり泣いたりしながら舞台を見れる環境も、なかなかあるものではない。そのこと自体が当時の僕にとって強い衝撃だったらしく、今でも鮮明に記憶に焼き付いている。
演劇を観終わった後に「お義理」で拍手をしなければならないことほど嫌なものはないのだが、あの時の僕は嘘いつわりの無い気持ちでおもいっきり拍手をし続けた。他の観客も同じような思いの人が多かったようで、拍手はしばらく鳴り止まなかった。演者やスタッフたちは泣いていた。客席と舞台の間で心がしっかりと通い合ったかのような、奇跡的な瞬間がいくつもあった。きっと後にも先にも無いことだろう。あそこまで心にフィットしてくるような舞台は。
あれから1年4ヶ月。
僕はさまざまに変化した。もう「コミュニティーの活動」に出掛けたからといって、ドキドキするようなピュアな僕は何処にも居ない。選挙の嵐が過ぎ去った昨年の夏以降、心の中で何かが急速に渇きはじめ、止められなくなったりもした。そのことに気付いたことで焦燥感に駆られた時期もある。しかしライフスタイルの変化と共に渇きはゆっくりと癒えて行った。無条件に受け止め続けてくれた人のおかげだ。
今回の『ふたりでお茶を』は二人で観に出かけた。物語は全て知っているはずなのに、いくつもの台詞やいくつもの場面が、また新しく僕の心をえぐり、新鮮な気持ちを味わった。そして、僕という個人は一人だけれど「独り」ではないことに気が付いた。隣で初めてこの劇を見るその人は、いったい何を感じているのだろう。僕がかつて泣いた場面を、どんな思いで受け止めるのだろう。そんな意識が常に拭えず有り続けたからだ。
今回の観劇は、これまでに無く僕に「ゲイ当事者であること」という事実を強く突き付けてきた。1年4ヶ月前にはフラフラしていて全く感じなかったであろう「軸」のようなものが、自らの内面に形作られてきていることを感じた。「舞台は鏡」であるという。そうか。僕はあそこに「僕」を観に行ったのか。→FC2 同性愛Blog Ranking
「VOICE 07 FINAL」●PLAYレビュー

●「VOICE 07 FINAL」公式サイト
●ぷれいす東京公式サイト(主催団体)
僕がLGBT絡みの活動に興味を持ち参加し始めたのは、ごく最近のことであり昨年5月の「Act Against Homophobia」以降です。ゲイ雑誌を買う習慣もなかったために、このイベントの存在を昨年までは全く知りませんでした。でも「今まで知らなかった」ということを後悔する位、素敵な時間を過ごすことが出来ました。
入場できるのは「男性のみ」というクローズドなイベントではありますが、近年特に人気が高いらしく、誘ってくださった合唱団に所属しているゲイの方によると「昨年は入場制限も出た」ほどだそうです。彼のアドバイスに従って早めに出かけて開演30分前には会場に着いたのですが、会場前のエレベーターホールは既にぎっしりと、見るからに「ゲイっぽい」人たちで埋め尽くされていました。僕はやっと最近そういう場に居ても緊張しなくなっては来たのですが・・・なんなんでしょうかね~あの独特の雰囲気はっ!(笑)。みんなどことなく華やいだ表情で、視線が挙動不審気味なんです(爆)。
これはパレードの時にも感じることなのですが、やはり僕らって日常生活ではまだまだ、感覚的に「孤立感」を抱え込みやすい環境で過ごしている人が多いので、多くの仲間が実際に目の前にたくさんいる環境っていうのは気持ちが高揚してしまうようなんです。もし、これが日常風景になったとしたら、何とも思わなくなるのでしょうけどね。

●sakuraさんのブログ「ヒゲとホルン」に、スタッフ目線からのレポートがあります。
→思い起こされる半年前の論争とか。
→ホールイベントへの想いと極私的なイベントとか。

1997年といえば東京でレズビアン&パレードの開催が数年間にわたって途切れてしまっていた頃。その間、多くのゲイたちに「毎冬恒例のお楽しみ」として親しまれて来た功績は多大なるものがあるでしょう。「HIV予防啓発イベント」というと堅苦しくて真面目なものを連想しがちですが、エンターテインメントとして楽しく見せながら、いつの間にか大事なメッセージも伝えることが出来る独自のスタイルが確立され、人気を博してきたようです。しかも驚いたことにこのイベント、出演者たちは皆さん「ボランティア」だそうですから、毎年開催し続けるのは本当に大変なことだったろうと思います。よくぞ10年も続いたもんだと思います。

左側に座っていたカップルは、どうやら毎年のように『VOICE』を観に来ているらしく、これまでの思い出話に花を咲かせていたり、客席にいる知人を見つけては、その人についての噂話を「いろいろと」繰り広げていました(爆)。右側に座っていたカップルは、一人がエスムラルダさんのファンらしく、これまでに何度もショーを見ているとのこと。その相方さんはどうやら「はじめて」見に来たらしいので、懇切丁寧に説明をしてあげていました。それにしてもゲイの皆さんって見た目は男っぽくキメていても、喋り始めると物腰柔らかで・・・そのギャップが僕にはまだ、衝撃的ではありますっ!(←お前もその一員だろっ!笑)。
では。Sakuraさんの記事構成を真似させていただき(笑)演目についての感想を少しずつ。
1)弦楽合奏団divertimento
・「四季」より「春」
・「トゥーランドット」より「誰も寝てはならぬ」

2)Barエスム
突然、嵐のSEが入り、客席後方からフリートークをしながら「ママ役」のエスムラルダさんと「従業員役」のべーすけさんが登場します。舞台にセッティングされたゲイバーのカウンターで二人が接客するという設定なのですが、フォーマルなドレス姿のエスムラルダさんと、タキシードでキメたべーすけさんの、期待通りの毒舌トークが「クイアな感じ」を醸し出します。
●エスムラルダさんはGAKU-gay-Kai2006で尾辻さんと一緒にテコンドー演武をしていたドラァグクイーンです。
3)マルガリータ
客席から「お目当てのゲイ」をピックアップして、いじりながらの進行を予定していたらしいのですが・・・最前列に座っていた人が「お相手」として自ら立候補し、場慣れした様子でホイホイと喜び勇んでステージに上がったもんだから大変な展開に(笑)。動揺しながらもマルガリータさんは機転を利かせて笑いに繋げます。「この人、仕込んでいたわけじゃないのよっ!」と客席に説明し、本気で焦っている様子がスリリング。ついに「お相手さん」はマルガリータさんに向かって「来て。」と言いながら股をおっぴろげたり、かなり際どい挑発を行います。スリル満点の危険な大爆笑場面となりました。

続いてバーに現れたのは、アフロ・ヘアーの大きなかつらをかぶったG.O.Revolutionさん。カウンターでクイーンのボーカル「フレディ・マーキュリー」についてのトークを繰り広げた後、自身がマーキュリーになってパフォーマンス。かつらを脱ぎ去り、派手なコスチュームを脱ぎ捨てて全身白タイツ姿になり、男根を象った小道具を持ち出したりして笑いを取りながら、ゲイでありエイズで亡くなったマーキュリーへのオマージュを捧げます。表現者としての尖り具合や、内面から湧き出るマグマの噴出度合いにおいては「ピカ一」の毒気に満ちたパフォーマンスだと思いました。彼は「Junchan」というペンネームで現在、AllAbout同性愛で「かるナビ」を執筆したりもしています。 内容が充実していて読み応え充分で、僕は彼の文章のファンです。
●All About同性愛「Junchanのかるなび」より関連記事
→第15回 二丁目から世界に発信する「Living Together」
→第18回 HIVと共に生きるあたたかなコミュニティ
→「かるなび」記事一覧ページ・・・ほかにも関西レインボーパレードやGAKU-gay-kai、「VOICE」について等、ゲイ・カルチャーに関する詳しい情報が満載ですよ。
5)NONOCHIC
G.O.Revolutionの流れを引き継いで、クイーンへのオマージュをダンス・パフォーマンスとして繰り広げていました。とにかくみんな格好いいし表現力が本当にスゴイ。しかもパワフルでエネルギッシュで、一人ひとりのダンサーたちが、ちゃんと輝きを放っている。プロフェッショナルなダンス・チームでした。
●NONOCHIC公式サイト

・「クィーンメドレー」
・「思い出すために」より「種子」
・中島みゆき「誕生」
休憩を挟んで最初に登場したのは男声合唱団「スキンエコー」。今回、僕が最も心を惹きつけられて感動したのは、彼らの純朴な合唱でした。みんな思い思いの服装で、はにかんだ表情で歌っています。その等身大で素朴な「素人っぽさ」が最大の魅力なのではないかと思いました。マイクを通さず肉声だからか、歌声からストレートに彼らの「体温」のようなものが感じられるのです。選曲もこの日の流れにぴったり。歌詞の言葉を丁寧に、一つ一つ語りかけるように歌っているので、聴き手の心に真っ直ぐに伝わって来る感じです。聴きながら何粒か涙が零れました。
7)エスムラルダ
金子ゆかり「再会」に乗せて繰り広げられた、エスムラルダさん独特の「怨念に満ちた」ドラァグ・ショー(笑)。別れた男への恨み節を、グロテスクに表現していました。その土着的な日本的な精神世界を感じさせるドラァグぶりは、独自の境地を切り拓いていると思います。ちなみにエスムラルダさんは、ショーを含めて何度もめまぐるしく衣裳を着替えて登場し、まるで紅白歌合戦の紅組司会者のようにゴージャスに、我々の目を楽しませてくれました。

「ぷれいす東京」代表の池上千寿子さん、音響スタッフのしんやさん、陽性者団体ジャンププラス代表の長谷川博史さんが次々とバーを訪れ、エイズ陽性者の手記をリーディングしました。カウンターに座ってリラックスした軽いトーンでのフリートークの後に、きっちとしたリーディングが行われる。BGMはべーすけさんの、本格的なピアノ生演奏。その構成・演出のさじ加減が絶妙で、飽きずに聴き入ることが出来ました。特に長谷川博史さんの独特の語り口によるリーディングと「シャボン玉」の歌は、彼にしか醸し出せない渋くコクのある味わいだと思いました。存在そのもので、舞台の時空間を「持たせる」ことが出来る人。すごい表現者をまた一人、知った喜びを感じました。
9)メロウディアス
リーディングで高まった感情的な濃度を引継ぎながら行われたドラァグのパフォーマンスは、ビジュアル的な「見せ方」が実に巧みで洗練されていて、エデンの園に迷い込んだかのような夢見心地と共に、そこに至るまでの哀しみや苦しみが「浄化」されるまでの過程を想起させられる、突き抜けた表現世界でした。こうした構成・演出を組み立てられるステージングの素晴らしさに、正直驚きました。
10)コラボレーションショー「Seasons of Love」
出演者全員によるメドレー形式のパフォーマンスが、フィナーレを飾りました。「RENT」の主題曲をベースに歌・演奏・ダンス・照明・音響が融合して「VOICE FINAL」のメッセージ性を際立たせます。客席からも手拍子が起こり、「ステージ世界と気持ちを一つにすることの出来る」ショーでした。
めくるめくショーが終演し、観客席が明るくなった時。右隣に座っていたカップルが交わしていた会話が印象的でした。
「すごかったねぇ~。これは東京でしか味わえない世界だねぇ~」
「そうだねぇ・・・誘ってくれてありがとね。」
彼らは地方出身の学生か、働き始めの会社員か。きっと単身で上京し、たまに新宿二丁目に通いながら「自分の中のゲイ」を解放して楽しんでいる渦中にあるようです。それまでは雑誌の中でしか見ることが出来ず、まぶしく感じていたであろう「東京のLGBTカルチャー」に触れて存分に楽しんでいるのでしょう。

現在は「男性オンリー」に限定されている観客を、幅広く開かれたものにするのも一つの方法かもしれませんし、「ゲイ」だけではなく「LGBT」に枠を広げたパフォーマーが交流し合える場として発展する道もあるかもしれません。せっかく積み上げてきた経験の蓄積を生かし、新たな世代が加わりながら、人と人とが「表現する」という志を持って出会い、交流し合える場として今後も存在し続けて欲しいと思いました。→FC2 同性愛Blog Ranking
KIRA'S CABARET「カルテット」●PLAYレビュー

映画『メゾン・ド・ヒミコ』で柴咲コウ演じる沙織と一緒に楽しそうに女装をしながらはしゃいでいた「あの方」。女装でディスコに出かけ、かつての会社の後輩に見つかって失神して倒れる演技をしていた「あの方」。
「あの」青山吉良さんが立ち上げた演劇プロデュース企画「KIRA’S CABARET」の第一回公演は、ハイナー・ミュラーの『カルテット』を果敢にも取り上げた。

僕はかつて、ミュラーの『ハムレットマシーン』に衝撃を受け、彼の自伝を読み漁ったことがある。大国に翻弄される小国の運命や、権力者に翻弄される国民の運命を、男性に陵辱される女性に置き換えて表現することの多いミュラーの演劇作品は、「東ベルリン」という特異な環境で冷戦時代を生きざるを得なかった作家の、屈折した冷ややかな視点に満ち、とにかく尖っていて刺激的だ。
●ハイナー・ミュラー著「闘いなき戦い―ドイツにおける二つの独裁下での早すぎる自伝」
●ハイナー・ミュラー著「悪こそは未来」

なにより青山氏の演技は、とかく難解だとされがちであるミュラーのテクストをきちんと肉体化し、シュークスピアのように「格言の数珠つながり」のような台詞に「魂」を吹き込むことに成功していた。彼の俳優としての経験の蓄積の分厚さが、如実に滲み出ていて圧倒される演技だった。ただ、もう少し演者二人の間での演技上のコミュニケートが上手く成立していれば、さらに魅力の増す舞台に昇華したことだろうと思う。
これだけ「文学的」で暗喩と隠喩に満ちたテキストを90分間の二人芝居で見せるのには、相当な覚悟と集中力が必要だ。しかし演出も手掛けた青山氏は、派手な演出的な技巧には走らず「演者の存在の魅力」で勝負するという賭けに出た。

まずはプロジェクトの船出を祝福したい。今回の公演での経験を生かし、今後はさらにエキサイティングに「エンターテインメント性」も加味しながら、他ジャンルのクリエイターとも融合し、さらなる発展と積極的な活動が展開されることを期待する。
<公演は14日(日)まで>
→KIRA'S CABARET公式ホームページ
●青山吉良氏のプロフィール(HPより)
21世紀に入り50代を迎え、ゲイとして表現を発信していきたいとカミングアウト。ドラァグショーへの出演、ゲイのアクティビストとして活躍している大塚隆史と演劇ユニット「D.O.G.」(Dangerous Old Gays)の旗揚げ、映画「メゾン・ド・ヒミコ」(監督:犬童一心、2005年公開)への出演等、新しい挑戦が始まっている。主な出演作品としては岩波ホール「トロイアの女」、冥の会「メディア」、横浜ボートシアター「マハーバーラタ・王サルヨの誓約」、t.p.t.「あわれ彼女は娼婦」、シアターX「女中たち」、新国立劇場「野望と夏草」、空中庭園「悲劇フェードル」、フライング・ステージ「トリック」、D.O.G.「違う太鼓」など。
●菅原顕一氏プロフィール (HPより)
幼児期に結核を患い、小学校は養護学級で過ごす。アングラ劇にあこがれ上京脳腫瘍が判明し、家族のいる仙台に戻る。回復後、NHKの仙台放送劇団に入り、数々のラジオやテレビドラマに出演。代表作に芸術最優秀賞受賞の『塚本次郎の夏』(1977)がある。また、当時の仙台で新風を吹き込んだ劇団「演劇工房」に参加。舞台でも活躍するが、またも体調不良で入退院を繰り返し、さらに交通事故で左の手足に麻痺が出るようになり、演劇を断念する。50代になり演出家・笛田宇一郎の「障害のある身体だからできる演劇もある」との言葉に刺激を受け、ベケットの一人芝居の上演を始め演劇活動を再開する。
●青山吉良氏のメッセージ(パンフレットより)
「多様性のある社会。それを支えていくのは想像力です。自分と違う存在とどう向き合うか・・・。今ほど想像力の危機を感じる時はありません。ささやかな場ですが、KIRA’S PROJECTが演じる側、観る側双方の想像力が出会い、よりしなやかに力強く生まれ変わる磁場となることを願ってやみません。よろしくご支援のほどを!→FC2 同性愛Blog Ranking
Happy Hunting Ground「冬のサボテン」●PLAYレビュー

ゲイを描いたこんな脚本があるなんて知らなかった。劇団文学座の若手による「Happy Hunting Ground」公演『冬のサボテン』は、ゲイ4人が主人公。高校時代に同じ野球部仲間として青春時代を過ごし、ゲイであるという悩みも共有しながら生きてきた彼らが、20代・30代・40代になった時に再会し合う「同窓会」を時系列で追いながら、カップル2人の恋愛関係が軸として描かれている。
1995年に初演された作品。描かれる場面が主に「80年代」であるため、現代のゲイ事情とはだいぶ違う描写が目に付いて面白かった。まず本人達が自分のことを「おかま」と呼んでいる。そして、インターネットの「イ」の字も出てこない。出会いを求めて雑誌の文通欄でパートナーを探す描写もある。ハッテン場のことを「淫乱旅館」と呼んでいる・・・などなど。
新宿2丁目に飲みに出かける「ゲイライフ」も謳歌している彼らだが、この時代は今よりももっと「ゲイとして生活するライフスタイル」が見出しにくかった時代。7年も付き合ったカップルは浮気が元で別れてしまい、その1人は偽装結婚だとわかったうえで結婚してしまったりもする。家業を継ぎ、家族を安心させるには仕方のない選択なのだ。こうした「80年代のゲイ」に多かった生き方とか苦悩が「ドラマ」としてしっかりと記録されている。

つまりその人物はまず「在日」として差別され、「おかま」としても差別され、さらに「おかまたちからは女装(おネエ)」で差別される役柄として設定してあるのだ。ウィットに富んだ毒舌を吐きながら場を明るくし、ハイテンションで動き回る愛くるしい「女装おかま」役を演じた櫻井章喜さんは、大柄な体格を生かして見事に役を造形し、おもいっきり笑わせてくれた。そして、笑いの中から滲み出る哀しみとか、人としての本当の強さを感じさせてくれた。本当に名演技だったと思う。
彼以外のゲイを演じる役者達も必要以上にナヨナヨせずに自然体であり、当事者として見ていても不自然に感じたり不快に思うような描写が全くなかった。時代は違えどもゲイが生きる上で直面しなければならない問題は共通であり、程度の差はあれど同じような悩みを通過する。それを高みから評価するでもなく「そのままに」描き出し、観客に提示することに成功した脚本家の手腕に驚かされる作品だった。こちらの記事でも触れたが、やはりLGBTと「在日」は差別に対しての感受性が非常に似通っているのだと思う。

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●公演情報はこちら。
作:鄭 義信
演出:高橋 正徳
出演:石橋 徹郎・浅野 雅博・沢田 冬樹・櫻井 章喜
●上演脚本「COUPLES 冬のサボテン」
●鄭 義信脚本映画「血と骨」
●鄭 義信脚本映画「月はどっちに出ている」
PARCO劇場「トーチソングトリロジー」●PLAYレビュー観劇直後・興奮篇

本当に名作だった。
両目から涙がこぼれてきているのに、かまわず流し続けながら見続けた。
僕にとっては始めての観劇だったPARCO劇場での「トーチソングトリロジー」。演劇を見ながら泣いたのは本当に久しぶりのこと。ここ数年忘れかけていた感覚を思い出させてくれた名舞台だった。

「ゲイ」は同性を好きになった自分に気づいた時に、「ゲイ」であることでの人生を組み立てなおす。僕はまだ、その過渡期にある。自分へのカミングアウトはなんとか出来たし大好きなパートナーとも出会うことが出来た。しかし僕を生み育ててくれた両親に対して、本当の自分として対峙することは出来ていない。年齢は30代に突入し、そのことが日々、重たくのしかかり始めている。やらなければならない宿題を抱えたまま放置し続けているかのような感覚。焦燥感もつきまとっている。
この演劇を見ながら、改めてそんな自分の現状に気付かされた。なぜなら主人公が、カミングアウトを受け入れない母親と対峙し、互いの心情を吐露しあう場面に最も強く感情移入して観ていたからだ。「ゲイ」である自分を、自分が誇りに思っていればわかってくれるかもしれない。しかし、親には親の価値観もあり、夢もあり、期待もある。積み上げてきた人生によって形作られてきた思いがある。そこに僕が「ゲイ」であるということは、まったくの想定外の事態に違いない。動揺するに決まっている。ショックを受けるに決まっている。そのとき、僕は何が出来るのだろう。

途中休憩を2度も挟み、3時間も上演され続けた長い舞台だったけど、まったく気持ちが弛緩することなく観続けることが出来た。本当によく練られた台詞だし、趣向を凝らした演出と真摯な演技が緊張感を持続させてくれた。「自分の切実な問題」として僕の心に直接突き刺さってくる、本当に強烈な観劇体験だった。

今の僕は、逃げるどころか過剰なくらいに自分を見つめようと思っている。何かを取り戻そうとしているのか、それとも何かを新たに得たいのか。その意味はわからない。でも自然と、こういう振る舞いを僕の奥深くにある「何か」が導き行動に移させている。今はそれに素直に従いたい。
意味なんてわからなくていい。結果や解釈は後から付いてくる。とにかく僕は自分の内から聴こえる声に忠実に、残りの人生を生きて行きたい。
舞台の上で悪戦苦闘しながら、泣いたり笑ったり、くっついたり離れたりしている登場人物たちの人生模様を見ていたら、そう思った。→FC2 同性愛Blog Ranking

「トーチソングトリロジー」
2006/11/20(月)~12/7(木)
作 ハーヴェイ・ファイアステイン
上演台本・演出 鈴木勝秀
出演 篠井英介 橋本さとし 長谷川博己 奥貫薫 黒田勇樹 木内みどり エミ・エレオノーラ(VOCAL&PIANO)
全国巡演
12月9日(土)-10日(日)梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ
12月12日(火)広島アステールプラザ大ホール
12月14日(木)愛知厚生年金会館
12月21日(木)仙台市民会館・大ホール
●映画「トーチソング・トリロジー」