かご猫~

●『かご猫』
デブでボロくてふてぶてしい顔が・・・すべてのページにあふれかえってる~♪。
実はこれまで、数々の猫本を買ってるけど、今回がいちばんヒットしたかも。
やばい~。
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八柏龍紀『「感動」禁止!~「涙」を消費する人びと』●BOOKレビュー

映画『おくりびと』を観たからなのだろうと思うが(笑)、家の本棚の中で、まだ読んでいなかったこの本が、やたらと目に付くようになったので読んでみた。
『「感動」禁止!―「涙」を消費する人びと』
昨今のWBCでの一時的な大熱狂や『おくりびと』ブームなどでも顕著なことだけど、「感動をありがとう!」だの「勇気をもらいました!」だの「必ず泣けます!」だのといった文句が、時にはナショナリズムと結びついたりしてメディアから宣伝文句として垂れ流されることは、とても多い。そして、実際に多くの人々が「泣くため」「感動するため」、あるいは「勇気をもらうため」に、チャンネルを合わせたり映画館に足を運んでお金を払ったりしている。
しかし、そういう方法で得られる予定調和な「感動」とは、果たして本当に、自らの内面から感じているものなのか?。
本来、自らの内面が自発的に生み出すべき「感動」を、約束どおりの方法でおせっかいな位に「きっかけ」を与えられないと感じられないような受け身の態度を身につけてしまっていることに、大して疑問を感じなくなってしまったのはなぜなのか?。要するに「一時的な癒し」さえ得られればいいというのだろうか?つまり、自分が快楽を得たいだけであって、単なる「エゴ」なんじゃないのか?。
そんな問いかけが、戦後から現代に至る、この国の社会や時代の状況分析とともになされていて、時に暴論や毒舌がすぎるような箇所も多々あり、意見を異にする記述も多いけれども、全般的には面白く読むことができた。
僕が特に面白いなぁと思ったのが、そんな「感動病」が増加する時流に乗って次第に増えてきている(と著者の指摘する)「自らのエゴ」に無自覚な人=「イノセントな人」について言い表わされていた次の表現。
これは、アグネス論争について論じている箇所で書かれていたものであり、著者の言う「誰もがあたりまえのように感じていること」とは、いわゆる「善良な市民ならこう考えて当然でしょッ!」という物言いで、大多数の者が思っている(とされる)「モラル」のこと。ま、つまりは「あんたにいちいち言われなくてもわかってるよそんなこと」という種類のものを指しているのだが。「イノセント」であることほど、周りの者にとって不愉快なことはない。「イノセント」であるのは、誰もが思っていることを、自分のものであるかのように独占することであるからだ。
誰もがあたりまえのように感じていることを、あたかも自分だけが特権的に感じとったかのようにふるまう。そして、それを相手に押しつける。周りの者には不快でしかないが、本人だけは、その独占や特権にまったく無自覚なのである。
何かを主張する時に、そういう「錦の御旗」を持ち出されると、言われた方は、「ぐうの音」も出なくなり議論が成立しないことがあるものだ。しかし、この世の中に「絶対的な正義」など無いということを前提とするならば、「モラル」どおりにすべての事柄を整備すれば「すべてが上手くいく」わけではない。現実とはそれほどに、複雑で難しい諸問題を抱えているのが常であり、そこを「どう調整し合うのか」が常に問い返され続けるものなのだ。しかし「イノセント」な思考に心酔している者には、その「複雑さ」への想像力がなく、「流動性」への耐度も低い。
この指摘。少なからず、自分にも当てはまる場合があったかもしれないと思って「アイタタタ・・・」と思った。そして、周囲を見渡してみても、こういう「イノセントの罠」にはまりこんでしまっているのに気付かずになされている言動が、まかり通っていたりすることにも気付く。自分がなぜ、「ある種類の物言い」に対して嫌悪感を抱くのか。この言葉によって整理されたような感じがする。
自らの「エゴ」が肥大して無自覚のうちに、「ピュア」で「イノセント」な物言いを高みから行うことってきっと、油断すると、誰もがすぐに陥りやすい「罠」のようなものではないかと思う。なぜならそれって、とっても気持のいいことだから。

大切なのは、その事実を素直に見つめ、「エゴイスト」である自分を徹底的に自覚しておくこと。自覚さえしていれば、コントロールできるわけだから。
最もタチが悪いのは「無自覚なイノセント」。つまり、自分のことを「善」だと思いこみ、「悪」の側面が「自分だけにはない」と思い込んで疑わず、特権的な位置から発言しているのに気付かないような輩。それがこの世で最も恐ろしいものだと思う。
その罠に陥らないために。
まずは、自らの内面の声に素直に耳を傾ける癖を付けることが必要だ。お仕着せの「感動」に慣らされて、宣伝文句に踊らされて「皆が思う普遍的なこと」があるかのように錯覚し、流される自分ばかりを肥大化させると、繊細な感性は失われる。その鈍感さは、知らず知らずのうちに一見「善」的に思える「イノセント」な言葉に、簡単に共鳴しはじめてしまう。
そのことだけには、気をつけたいものだ。「きれい」なものほど「汚い」ものは、ないのかもしれないからね。→FC2 同性愛 Blog Ranking
梅田望夫「ウェブ進化論~本当の大変化はこれから始まる」●BOOKレビュー

ブログを書いている人や、ネットを駆使して何かを表現したり事業をしている人にとっては、最高にエネルギーを与えてくれる本ではないかと思われます。日常的にネット空間に付き合いながら漠然と感じていたこととか、気付いていながらもあまり深くは意識せずにいたことが見事に分析されていますし、そのことによってネットの潜在的な可能性について「前向きな視点から」いろんな示唆を与えてくれるんです。
なにしろ著者の感覚が若い!著者は、あの「9・11」が起こった2001年に41歳だったらしいのですが、あの事件を受けての日本のエスタブリッシュ(社会的な権威を持っている層)の有識者たちが示した反応に、深い失望感を味わったことで目覚めたのだとか。
そして著者は、それまで「年上の人=既存の権威を持っている人中心」だった付き合いを改め、そんな時間があるのならば次世代を担う若者たちと過ごす時間を優先するようになったのだとか。そして、インターネットというシステムを活用することで生まれる無限大だけど先行き不透明な可能性の大きさに強く惹かれ、ネットの普及によって今後様々な分野で引き起こされるであろう世界的な大変革の可能性にワクワクし、ついにはこのような本を書いたというわけです。あれだけの衝撃が世界をおそったときに、当事者意識を持っていれば必ず動くだろうはずの反射神経が全く働かない「古い日本」。そのことに愕然として力が抜けると同時に、知らず知らずのうちに自分の中にもしみついた「古い日本」を脱却して、「新しい自分」を構築しなければと強く思ったのである。
何事も新たな可能性を切り拓くにはオプティミズム(楽天主義)が必須条件!人は経験を積めば積むほど結果を先回りして予想できるかのような勘違いをし始めたり、やがては口先だけで他人を批判して自らは行動が伴わない隠居中年になってしまったりするものだけれども。
それって大抵は「過去の社会状況下」だからそう言えたまでのことなので、耳半分にして聞くくらいがちょうどいいのかもしれません・・・僕はそう思うようにしています(笑)。っていうか、自己の経験をひけらかして若者に対して偉ぶる大人になるよりも、そのことの恥ずかしさには敏感でいたいです。そして、いつまでも新たな可能性にワクワクする蒼い心を保っていたいし、歳を取ってもそれが実践できている人のことを「格好いい」と思います、生き方として。
誰も明日のことはわからない。そういう意味では誰にとっても「未来」は平等。だったらやりたきゃやりゃ~いいんだよ、自然に「やってしまうこと」なんだったらば。人が何を言おうが気にせず、とことん!!・・・と、熱くやわらかく背中を押してくれる素敵な先輩からのアドバイスを受けたような気持ちになる本でした。さて次は「ウェブ時代をゆく」を読も~っと。→FC2同性愛 Blog Ranking
●「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書) (新書) 」
●「ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687) (新書) 」
RYOJI+砂川秀樹 編 「カミングアウト・レターズ」●BOOKレビュー

僕のような同性愛者が近親者にカミングアウトをためらう時って、「拒絶されて自分が傷つきたくない」のと同じくらい、「相手を傷つけたくない」という気持ちが働くのではないかと思う。同性しか好きになれないという自分の本性から、逃げ続けた思春期の経験がそうさせる。自分ですら大変だった思いを、なんで年老いた親に背負わせなければならないのか。そういう思いがあることは否定できない事実だ。もともとは社会に蔓延するホモフォビア(同性愛嫌悪)が原因なのだけど。
カミングアウトってものは、する相手との関係が近ければ近いほど、もしも壊れてしまった場合のリスクが大きい。だから失敗した場合にフォローが出来るかどうか自信が持てない限り、躊躇するのは仕方のない事だと思う。それを「だらしない」とか「意気地なし」とか強者の論理で責めたてるのは勝手だけど、世の中強い人ばかりではないことを、僕は自分を通して知っている。強くなってしまうと見えなくなってしまうことも、あるのではないかと思ったりする。同性愛者に生まれついたということだけでも結構シンドイのに、なぜ「カミングアウト」という行為をせねばならないという重圧まで背負い込まされなければならないのかと、本音では思ったりすることもある。
RYOJIさんと砂川秀樹さんの編著として出版された「カミングアウト・レターズ~子どもと親、生徒と教師の往復書簡」
僕はこの本を読んで不謹慎にも、こんなことを思ったりした。「カミングアウト」という通過儀礼のようなものがあり、「しなければならないこと」だという強迫観念に苛まれ続けることって正直ウザったいけれど、同時にそのハラハラ・ドキドキを通していろんなことを考えられたり感じられたりするわけだから、同性愛者に生まれたこともまんざら悪くはないのかなぁと。
それが能天気な考えなのかどうかは、これからの僕の歩みが実証するわけだけれども。出来れば失敗したくはないから、まだしばらくは、このハラハラ・ドキドキを瑞々しく感じながら、ゆっくり焦らずに、僕は僕をより深く受け入れていこうと思う。→FC2 同性愛Blog Ranking
●砂川秀樹・RYOJI編著「カミングアウト・レターズ」
伏見憲明「欲望問題」●BOOKレビュー 一章を読んで

選び抜かれた言葉たち。著者の血の滲むような精神の戦いの日々の青臭さを、そっと包み込んだり突き放したり。現在の視点から過去の轍を振り返り、未来を見据えようとするその態度は過去への距離感が常に流動的で、なおかつ意識的であり繊細でもある。闇をまさぐりながら新たに解放されるべき地平を求め、必死に一条の光を見つけ出そうとする強靭な意志に圧倒され、読み始めたら止まらなかった。
●伏見憲明著「欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない」
僕は今まで伏見憲明氏の著書を意識的に敬遠してきた。持ってはいるけど、あえて読もうとはしなかった。ゲイである自分を受け入れつつある過程において、「答え」のようなものが提示されてしまうのではないかと勝手に思い込んで怖れていた。自分は自分で自分のことや社会のことを考えてみたい。伏見氏の著書に触れると、その面白さを奪われるのではないかと思い込んでいた。
でもそれは杞憂だった。
伏見憲明氏は対話者だった。僕にとっても対話者だった。決して手の届かない「カリスマ」なんかではなく、震える裸の魂をもって僕という個人の魂に共振してくる音楽を奏でられる対話者だった。第一章「欲望問題」を読み終えた今、残り二章を読み進めるにあたって、久々に純粋な心で「読書の悦び」の渦中にある幸せを感じている。→FC2 同性愛Blog Ranking
川西玲子著「歴史を知ればもっと面白い韓国映画」●BOOKレビュー

「カッコいい」とか「流行ってる」とか、そういう「感覚」によってもたらされた(あるいは仕掛けられた)ブームではありますが、確実に人として「親しみ」を持つことにはつながったように思います。見えないから相手に勝手な妄想を抱いて敵対視してしまう。見えてしまえば実はなんでもない。同じ人間としての想像力を持つために、「映像」の果たした役割は本当に大きかったと思います。このことは未だにテレビ映像として「日常が見えない」存在である北朝鮮の人々を語る際にも、念頭に置くべきなのではないでしょうか。テレビは「映し出す」ものには親しみを呼び起こさせますが、「映し出さないもの」には妄想をもたらしやすいメディアですから。

耳慣れない韓国語に戸惑いながらも見てみたら本当に面白かったし、地味だけど骨太で志が高く質の高い韓国映画の数々は、忘れられない記憶として残っています。「ペパーミント・キャンディー」「われらの歪んだ英雄」「豚が井戸に落ちた日」など。共通するのは、どれも皆「鋭い社会風刺」という牙を秘めているということ。その頃は今よりも韓国社会が緊張状態にあったためか、映画作家たちが「表現者としての魂」を鋭く持っていたように思います。
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DVD
●「ペパーミント・キャンディー」

いざ「歴史」を学ぼうと意気込むと、難しい知識を習得しなければならない気がして敷居が高く感じられてしまうのですが、映画で親しんだ「映像イメージの記憶」と共に読み進めてみると、とても頭に「入って来やすい」感覚を味わいました。知れば知るほど現実世界の複雑さにワクワクしますし、知りたくなることが芋づる式に増えていくこと請け合いです。そして、日本の歴史とも密接に関わりあっていることをもっと意識せねばと思いますし、韓国の人たちと知り合う上で「知っていなければ失礼にあたること」の多さにも気が付くことでしょう。
●歴史を知ればもっと面白い韓国映画 「キューポラのある街」から「王の男」まで
「二極化」が進行する社会
ところで。この本の中で、シンポジウム「これからの多様な性&家族&ライフ・スタイル」で語られたことにも共通する、 とても気になる記述を見つけました。
多様性を尊び受容する人々と、それを恐れて拒否する人々。両者が拮抗しながらも「対話」が成立しにくい状況に、日本社会はますますなってきているような気がします。こうした風潮がさらに強まってしまうのだとすれば互いに疑心暗鬼が増すばかり。キナ臭さが漂う由々しき事態を打開する方策を、本気で考えて行かなければ危険です。→FC2 同性愛Blog Ranking社会の分裂や世論の二極化は、民主主義社会で世界的に起きている傾向である。アメリカの大統領選挙は、二回続けて僅差の結果。世論が真っ二つに割れていることを示した。実際、ブッシュ支持派と反対派と、家族観からファッション、聴く音楽まで違う。同じ国の市民とは思えない分裂ぶりだ。
日本も今、そういう傾向を強めている。政治問題に関しての世論調査は、毎回ほとんど拮抗している。韓国もそうなってきた。多様性は民主社会の基本だが、二つに分かれて対話が成立しないような状況はあまり良くない。
芦原伸「西部劇を見て男を学んだ」●BOOKレビュー

「男臭くてギラギラしているもの」に本能的な嫌悪感を抱いてしまうため、僕は今まで西部劇を見た記憶がほとんどない。かつて淀川長治氏がテレビで「名作だから『駅馬車』を見なさいネ」と言っていたので見たことはあるものの、「つまんね~」と感じてしまい、ますます遠ざかって今日に至っている。
映画史上の名作とされる『駅馬車』を面白がれるかどうかは、世代によっても違いがあるようだ。そもそも僕の同世代で「西部劇ファン」だという人に、今まで出会ったことがない。しかし父親の世代になると結構いるらしい。年配の方から『駅馬車』のすばらしさを滔滔と語られたことがあるが、やっぱり僕にはわからなかった。
それは僕の気質も影響しているのだろうと思う。僕は西部劇の銃撃戦や乗馬シーンに限らず時代劇のチャンバラ場面などの「血湧き肉躍る」活劇シーンを見ても、血も湧かなければ肉も躍ることがない。テレビのスポーツ中継も見ないし、サッカーを見ながら雄叫びを上げることもない。スポーツやアクションを見て興奮することを「男性的な感性」というのなら、僕にはその感性は、まったくもって欠如している。
しかし本屋でこの本が気になったのは間違いなく「ブロークバックマウンテン」の影響だろう。あの映画は「伝統的な西部劇へのアンチテーゼ」としても語られることが多い。あの映画が何に対して噛み付いたのかを、ちゃんと知ってみたい。そんな欲求に応えてくれそうだから、読んでみたくなったのだ。
この本の著者はどうやら「男らしい男」にシンパシーを感じ、自らを「男として」強く意識しながら生きてきたようだ。それは書き出しの文章から伝わってくる。
西部劇があふれていた頃戦後のベビーブームに生まれた「団塊の世代」は、そろそろ定年を迎える。
<中略>
男としては、淋しくもあるが、「一所懸命働いてきたのだから・・・」という満足感もある。「そろそろ自分を自由にさせてくれないか」という願望もある。
男は引き際が大切である。
思えば仕事は戦争で、職場は戦場だった。男たちは昭和二十年代の前半に生まれ、物資のない戦後復興時代に少年期を過ごし、そのまま高度経済成長期に育っている。就職の頃は、すでに経済戦争に突入しており、「先進国に追いつけ、追い越せ」がスローガンであった。<中略>
団塊のオヤジたちの果敢でエネルギッシュな行動力は、ハングリーな時代に育ち、絶えず競争社会の中でライバルと戦ってきたからだろう。
それは、西部劇のヒーローたちの「人生哲学」にも似ている。
振り返れば、団塊の世代は、少年時代に西部劇を見ながら育ったのだ。
なるほど。
日本社会をこれまで引っ張ってきた「団塊の世代」が子どもだった時代は、ちょうどテレビが普及し始めた頃。草創期の日本のテレビ局は番組制作能力が低く、アメリカのテレビドラマや映画を大量に購入し、放送時間を埋めていた。だから「西部劇」がたくさん放送されていたのだ。やがて皇太子成婚パレードをきっかけにテレビが爆発的に普及して大衆化するにつれ、そうしたアメリカの映像は大量に庶民の日常生活に溢れ出して行く。現在のアメリカナイズされた生活環境は、テレビから流される「イメージとしてのアメリカ」への憧れがもたらしたのだ。
人々の思想にも、テレビから流れる「アメリカ的な価値観」は少なからず影響を与えてきたことだろう。特に少年時代に西部劇のヒーローに憧れ夢中になった世代の男性が「男は強く逞しく生きて、女・子どもを守ってやらなければならない」という人生哲学を持ったとしても、なんら不思議はない。むしろ、とても素直な反応だ。
西部劇に代表されるような男たちの「ダンディズム」は、日本という国が高度経済成長を遂げる際には「企業戦士が戦うために機能的な家庭」を作り上げる原動力となった。そして、日本が経済的な覇者として世界に君臨する力ともなったのだが、やがてはバブル崩壊によって「経済至上主義」が人々の精神にもたらした「ひずみ」に直面し、現在ではそうした「高度経済成長型」の生活スタイルは見直されて来ている。男女雇用機会均等法も施行され、少しずつ「男が男であること」の必然性は失われつつある。
そんな現代という時代は「ダンディズム」信奉者たちにとって、ますます肩身の狭い社会になっている。だからこそノスタルジーを感じるのだろう。それが「素晴らしいもの」として称えられていた過去を見直したくもなるのだろう。
こういう父親とゲイは相性が悪いのだ。
この本の全篇から漂う「失われた西部劇的価値観」にノスタルジーを感じるセンスは、70年代に生まれた僕にとっては過去の遺物。これは完全に「父親たちの世代の」価値観である。しかし父親というものは、自らの世代の価値観を息子にあてはめたがるものらしい。それは我が家も例外ではなかった。
しかし残念ながら、僕にとってそれは無理な注文だった。父親のセンスには、どうしても馴染めなかった。今から思えばそれは当たり前。なにしろ僕はゲイであり、男にも女にも距離を感じるセンスを持って生きているのだから。
かつての僕は、男らしくて暴君のように振舞う父が大嫌いだった。しかし今はもう、頑固だった父を恨んではいない。父と衝突することによって「自分はいったい何者なのか」を考える機会を与えられたんだと思うし、どのみち父と息子というものは衝突するものだ。それはきっと、息子が自己を確立するために必要なことでもあるのだ。
「ブロークバックマウンテン」のジャックも、実の父親や義理の父親の要求する「ダンディズム」に、どうしても馴染めなかったようである。やはり彼もゲイとしての感覚を持って生きていたからだろう。ゲイに「男の中の男になれ」と要求されたって、それは無理な注文なのである。ジャックは、実家が農場であるにも関わらず家を継がずに、あの農場に働きに出た。それは父親との軋轢が原因であるらしい。そして結婚後イニスに再会しに出かけたのも、妻の父親と相性が合わなかったことが大きく影響しているのだと思う。
ジャックが何に馴染めなかったのか。その「壁」の姿を知るには格好の本である。ちなみにこの本の中身は、目次を見れば一目瞭然である↓
<目次>
第一部 男の引き際
1 男は去りゆくものである・・・「シェーン」の場合
2 あの世であおう!・・・「昼下がりの決闘」の場合
3 老兵は去らず・・・「黄色いリボン」の場合
[西部ひとくち話] 友好から、追放、虐殺へ~先住民族の歴史
第二部 男の矜持
4 男は逃げてはならない・・・「真昼の決闘」の場合
5 男だって疲れる時がある・・・「拳銃王」の場合
6 男はプライドを忘れない・・・「荒野の七人」の場合
7 馬鹿息子ほどかわいい・・・「大いなる西部」の場合
[西部ひとくち話] 西部を征服した「コルト45」と「ウィンチェスター73」
第三部 男の友情
8 孤独は背中が物語る・・・「ガンヒルの決闘」の場合
9 相棒への侮辱は許せない・・・「許されざる者」の場合
10 旅は道連れ、世は無常・・・「明日に向かって撃て!」の場合
[西部ひとくち話] カントリーミュージックを歌おう
第四部 男の決断
11 男が酒をやめる時・・・「リオ・ブラボー」の場合
12 後輩に地位(ポスト)を譲る時・・・「ワーロック」の場合
13 死に場所を探す旅もある・・・「ワイルドパンチ」の場合
[西部ひとくち話] 酒はストレートで、キュッと飲む
第五部 男の優しさ
14 男はいつも女に優しい・・・「駅馬車」の場合
15 不倫にも年齢制限がある・・・「ウィル・ペニー」の場合
16 男と女、つれづれの愛もあった・・・「OK牧場の決闘」の場合
[西部ひとくち話] アメリカ西部開拓史~コロンブスの発見からフロンティアの消滅まで

実は自己陶酔型のナルシスト!?
この本には、著者が「男であることに酔いしれている」かのような記述もあり、正直言って最初は寒気がしたし抵抗感が強かった。
しかし「こういう人ってよくいるよなぁ~」と受け入れて読み進めるうちに、著者の並々ならぬ西部劇への思い入れと、自らを支えてきた人生哲学への自信に引き込まれて行く。共感はできないけれども、なんとなく気持ちがわかる部分も出てくる。
よく考えてみたらこの本は貴重である。なぜなら「男らしい男」というのは普段、自分の内面をあまり言語化したりはしない。それが男だと思い込んでいる節がある。従って、表立ってこのような本心が語られる機会は、極端に少ないのである。
「男」がどうして「ダンディズム」という鎧を身に纏い、ちょっとナルシスト気味になってしまうのか。その理由や理屈が、西部劇の中の男たちを説明することで非常にわかりやすく見えてくる。
次第に、苦手だった西部劇を、たまには見てみようかなぁとも思えてくる。「ダンディズムを分析してやろう」と思えば、なかなか面白そうではある。まずは「ブロークバックマウンテン」と同じワイオミング州を舞台にした「シェーン」あたりから見てみようかな。→FC2 同性愛Blog Ranking
●芦原伸「西部劇を見て男を学んだ」(祥伝社新書)
●ジョージ・スティーブンス監督「シェーン」(1953年)
川本三郎「アカデミー賞~オスカーをめぐるエピソード~」●BOOKレビュー① 欠席ばかりのキャサリン・ヘップバーン

しかし今年は「ブロークバック・マウンテン」のおかげで、生まれてはじめて興味を持つことになりました。知ってみると、なかなか面白いものですね。
特に僕はこの本を読んだことで余計に興味を持ちました。川本三郎さんという名文家の気取りのない文章で、アカデミー賞創設当時の歴史や、華やかで大規模になった授賞式での様々なエピソードを、わくわくしながら一気に読むことが出来ます。
●川本三郎著「アカデミー賞~オスカーをめぐるエピソード~」(中央公論新社)
アカデミー賞とどう付き合うのか。
その態度からは俳優や監督たちの人生哲学を知ることが出来ます。授賞式で失敗して人間的な醜さを露呈してしまう人もいれば、名スピーチで一気に株を上げる人もいるようです。
これから数回に渡り、僕が特に面白いと思った話をいくつか紹介しようと思います。

大女優キャサリン・ヘプバーンは、驚くべきことに12回もアカデミー賞にノミネートされています。そしてさらに驚くべきことには、彼女はそのうちの1回たりとも、授賞式に出席していないというのです。
ちなみに「12回のノミネート」はすべての俳優の中で最多記録。その作品を列挙してみると・・・その理由はただ「大勢の人間の集まるところに行くのは嫌いだから」。
アカデミーが彼女を何度ノミネートしても授賞式には欠席してしまう。そのうちキャサリン・ヘプバーンの「欠席」は彼女のトレードマークになってしまった。(P32より)
ひえ~。1933年度「勝利の朝」(ローウェル・シャーマン)→主演女優賞を受賞
1935年度「乙女よ嘆くな」(ジョージ・スティーヴンス監督)
1940年度「フィラデルフィア物語」(ジョージ・キューカー監督)
1942年度「女性No.1」(ジョージ・スティーヴンス監督)
1951年度「アフリカの女王」(ジョン・ヒューストン監督)
1955年度「旅情」(デビッド・リーン監督)
1956年度「雨を降らす男」(ジョセフ・アンソニー監督)
1959年度「去年の夏突然に」(ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督)
1962年度「夜への長い旅路」(シドニー・ルメット監督)
1967年度「招かれざる客」(スタンリー・クレイマー監督)→主演女優賞を受賞
1968年度「冬のライオン」(アンソニー・ハーヴェイ監督)→主演女優賞を受賞
1981年度「黄昏」(マーク・ライデル監督)→主演女優賞を受賞
最初の主演女優賞受賞作「勝利の朝」の時、彼女はデビュー3作目で24歳。
そして「招かれざる客」以後の受賞はすべて60歳を過ぎてからだそうですから、これを快挙と言わずしてなにを快挙と呼ぶべきか。しかも主演女優賞を合計4回も獲得してるし。(なんなんだ、この人は・・・)。
普通、授賞式に出席しないような人は最初からノミネートすらしなくなってしまいそうなものですが、彼女はノミネートされ続けた。それほど演技が人々から愛され、高く評価され続けたということなのでしょう。・・・本物の大女優だ~。

しかもそれは自分のノミネートの時ではなく、長年の友人であるプロデューサーのローレンス・ワインガーデン氏が「アーヴィング・タールバーグ賞」を受賞した時の「プレゼンター」役を引き受けての出席だそうです。
この賞は、映画界に長年功績を残した人に贈られるものであり、ワインガーデン氏は、彼女が1949年に「アダム氏とマダム」(ジョージ・キューカー監督)に出演した時のプロデューサー。この映画は、彼女にとって最愛のパートナーであるスペンサー・トレイシーとの共演作であり、よほど愛着があったのでしょうか。スペンサーへの愛情もあって、プレゼンターを引き受けたみたいです。
か・・・かっこい~!!これぞ本物の「大物」。はじめて授賞式に姿を見せたケイトに会場を埋めつくしたスターたちは総立ちのスタンディング・オベイションで敬意を表した。
例によってスカートをはかず黒のパンツ・スーツのキャサリン・ヘプバーンは鳴りやまぬ拍手のなかで短くスピーチした。
「よかったわ。『いまごろのこのこやってきて!』といわれなくて」。
そして旧友のワインガーデンにタールバーグ賞を渡すとすぐに舞台から消えた。
彼女は会場にリムジンでやってきてそれを裏口に待たせていた。そしてプレゼンターの役割が終わるとさっさと裏口から姿を消し、リムジンに乗り込んだ。会場での”滞在時間“はわずか15分だった。
そして彼女は8年後、なんと74歳にして『黄昏』で主演女優賞を受賞するもののやっぱり欠席。態度が徹底してますね~。
こちらのサイトに彼女の簡単な経歴が載っていましたが、スペンサー・トレイシーとの関係について面白い記述がありました。結婚は出来なかったけれども、公私ともに最愛のパートナーだったようです。
自分の意思を敢然と貫き通す真っ直ぐな人柄だったのですね。生き方にポリシーがあるところが格好いい。僕は正直、彼女のノミネート作12作のうち「旅情」しか観た記憶がないのですが(笑)今後キャサリン・ヘップバーンの出演作は意識して観てみようと思いました。カトリック教徒のトレイシーは宗教上の理由から前妻と離婚しようとしなかったので、始めの頃は密かに会わなければならなかったが、2人は「終生の伴侶」として息の合った名パートナーぶりを披露。67年に心臓発作で倒れたトレイシーの臨終を見取ったのもヘプバーンだった。2人の関係はマスコミの耳にも届き、ハリウッドでは「公然の秘密」だったが、2人とも俳優として尊敬されていたうえに、その愛が美しかったので、マスコミは2人に敬意を払い、後にライフ誌がとりあげるまでこのスキャンダルを報道しなかった。
スターとしての華麗な生活やファン・サービスを嫌ってスタジオを悩ませる事も少なくなかった。しかし、スクリーンや舞台では、社交的でエネルギッシュながら女性独特の繊細さを併せ持った個性的なキャラクターを的確に演じ、「知的で鋭角的な女優」と呼ばれて世界中の映画ファンに愛され続けた。
~ 「素晴らしき哉、クラシック映画!」 Katharine Hepburnより
こんな面白いエピソードを知らなかったなんて・・・。知識の「食わず嫌い」は良くないですね。
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織田作之助「夫婦善哉」●読書レビュー

ネットの「青空文庫」で公開されているのを知り、さっそくプリントアウト。いわゆる短編小説なので一時間もあれば読めてしまう手軽さが嬉しい。
「青空文庫版」では、難しい漢字や知らない言葉に読み仮名が記されていて、非常に読みやすかった。
映画では森繁久弥さんと淡島千景さんが演じた
あの愛すべきキャラクター、柳吉と蝶子が
より一層生き生きと感じられる名文だった。
男性作家による、女性へのファンタジー
先に映画を見た分、どうしても比較しながら読んでしまうのだが、小説ではより生活に密着した描写の細やかさが印象に残る。特にお金の記述が具体的で詳しく、生活感に満ちあふれている(笑)。
いくら愛があっても先立つものがなければ続かぬのが実際の生活。特に芸者と旦那との駆け落ち道中なのだから、自分たちで逞しく稼がなくては食ってはいけない。
しかし柳吉は金持ちのボンボン育ちですぐに散財してしまう。そのたびに派遣芸者(ヤトナ)として稼ぎに出なければならない蝶子。かなり散々な目に合わされ苦労の連続。夫のでたらめな行状の尻拭いを結局は蝶子がしなければならないのだ。

でも、蝶子はけっして柳吉を捨てようともしなければ別れようともしない。普通だったらこんなひどい仕打ちを受けていたらとっくに別れるだろう。ところが、貧乏育ちで一介の芸者である自分と柳吉が一緒にいることは特別なことなのだという謙虚な姿勢を一貫して持ち続ける。
とても自制心のある女性だなぁと感心するとともに、自分が決めたことを貫き通す意志の強さを感じる。
蝶子というのはある意味では、男性作家から見た理想の女性像の象徴であり、「こんな女がいたらいいなぁ」というファンタジーなのかもしれない。
甘え上手な男は得をする
柳吉という男性も、女性をそこまで惚れさせるほど、母性本能をくすぐる魅力にあふれた人なのだろう。
蝶子にしてみれば、どんな逆境でもそれが好きな人と一緒に過ごすためならば逆境とは感じないものなのかもしれない。柳吉と一緒にいるという、ただそれだけのことが蝶子を生き生きと輝かせる原動力になっているのだ。
よく聞く話だが、長年連れ添うと夫婦というものはお互いの嫌な面ばかり目に付くようになり、愛情表現もしなくなるらしい。しかしそれでも夫婦関係が続くのは、日本社会の場合たいていは「女性が辛抱するから」なのだろう。経済的に自立していないため、夫の収入がなければ生きて行かれない場合も多いので辛抱を当然と受けとめている人も多いだろう。「女性というものはそういうもの」という社会的な役割分担を疑わずに受け入れているから、辛抱を辛抱とは感じないのかもしれない。
しかし蝶子の場合、経済的には自立している。
芸者としての専門的技能も身につけている彼女は、たとえ一人でもバリバリ稼いで生きて行かれるはず。でも彼女は柳吉と別れない。なぜ、こんなどうしようもない情けない男と別れないのかといえば・・・柳吉が愛すべきキャラクターだからなのだろう。変に威張った所はないし、自分の情けなさを隠さないし、女性への甘え方も心得ている。

(↑注:僕の独断と偏見ですっ!)
甘えられるということは、女性のプライドを満たすことにもつながる。
ということは・・・
もしかしたら、女性に愛される術を心得ている柳吉の方が、実はしたたかなのかもしれない。
SとMの駆け引きが夫婦の妙!?
一方の蝶子もなかなかどうしてしたたか。柳吉がフラフラといなくなっても、結局は自分の所に帰って来るしかないことを心の奥では確信しているかのような強さを感じさせる。
感情表現がストレートな蝶子は、柳吉が遊んで散財して帰って来た時には容赦なく折檻する。儀式のように行われる折檻は、まるで夫婦の絆を確かめ合っているかのよう(笑)。
折檻というものは、相手に愛情があるからするものだ。
される側も、信頼しているから折檻されることを受け入れる。
軽いSMのようだが、そうした関係に実はお互いが快楽を感じているから、繰り返されるのではなかろうか。
S同士、M同士の夫婦というのは上手く行きそうもない。
SとMが駆け引きし合うバランス関係こそ、夫婦を成り立たせる絶対条件であり、快楽なのかもしれない。
・・・こうしてこの二人のことを思い描くと、なんだかんだ言って「自分が帰るべき人」を見つけた者の持つ強さを感じる。
まだそうした経験のない僕には想像の中の出来事。
そして、いつか誰かとこうした確信に満ちた関係が気付けたら・・・と思う自分を発見する。
なんでそう思うのか。
やっぱり人は、基本的にさびしがりやなんだと思う。
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