ウム・フェミニスト・ビデオ・アクティヴィズム(WOM) 『OUT:ホモフォビアを叩きのめす!プロジェクト』●MOVIEレビュー

3月6日(土)、国際基督教大学で開催されたイベント『〈"女"同士の絆〉と生き抜くこと ―アジア圏の「レズビアン」のつながりを考える』にて、韓国のドキュメンタリー映画『OUT:ホモフォビアを叩きつぶす!プロジェクト』(2007年)の上映を初めて観て、監督トークを聴きました。
★同作品(OUT: Smashing Homophobia Project)は2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映、その後、東京で監督トークイベントなども開催されました。僕は当時トークイベントには参加したのですが、作品を観たのは初めてです。
まず驚いたのは韓国の学校空間においてレズビアンが置かれてきた状況の過酷さです。特に、キリスト教系の学校では「レズビアン狩り」というのが公然と行われてきたということ。韓国のクリスチャンは人口の30%は居るわけですから、日本のクリスチャン(2%)とは比較できない比率の高さです。

『OUT』が製作された2005年~07年頃までは「学校レズビアン検閲」を韓国の多くの学校が行っていて、「同性愛は簡単に変えられるもの」であるとして指導が行われていた。学校にレズビアンと疑われた生徒のブラックリストがあり、リストに載っている者同士で会うことが禁じられた。挨拶するだけでも罰した。
韓国の学校で「レズビアン検閲」の対象とされた生徒は、罰則としての清掃をさせられ反省文を書かされ、転校を命じられるなどして、いわば学校で過ごす時間の多くを勉強に割くのではなく、そうした「仕打ち」によって奪われてしまっていたとのことです。これは「重大な人権侵害である」と『OUT』の監督は話してました。
学校でいくら「レズビアン検閲」にさらされようが、自分では変えようのない状況に耐えるのは非常に困難。ドキュメンタリー映画に出演した彼女は、怒りの矛先を自分に向け、自傷行為を行ったとのことで、映画にもその傷跡を自らカメラに映す場面が出てきます。撮影当初、彼女は映画で自分のことを語りたいと望んでいましたが、監督はまず「彼女自身の安全を守ること」を優先したとのことです。
そして2005年にまず製作されたのが『学校のレズビアン検閲』という映画。韓国で社会的な反響を巻き起こしたそうで、「レズビアン検閲」の人権侵害について多くの人々に意識させるきっかけに繋がって行ったようです。その取り組みをさらに長編ドキュメンタリーに結実させようと作られたのが『OUT』。
『OUT』は、ドキュメンタリー映画の出演者自らも映画の撮影や編集、企画内容等に関与して一緒に製作していく「セルフディレクティング(自己演出)」の方法を採用し、監督は出演者にカメラを渡し、日記風に独白や日常風景を撮影してもらったそうです。そして週3日、それらの映像を監督と出演者で観ながらディスカッションを重ねて行ったとのこと。
そうすることで、出演者は映像によって記録された自己の姿を見つめ返して自己省察を深めて行くのです。映像の積み重ねによって、自己の変化にも気づいて行く過程そのものも映画に組み込んでいく手法。そして、いつの間にか、映画作りが出演者自らのエンパワーメントに繋がっていく。そういう手法で製作されたとのことです。
『OUT』製作時に監督が立てた方針としては、以下の6つを挙げていました。
①ホモフォビアとアウティングによるリスクの考察。
②出演者が社会的カミングアウトをする際の露出制限について考える。
③客観的ではなく主観的に。
④出演者たちをテーマにする。
⑤出演者が自らの人生に向き合うチャンスにする。
⑥映像言語を用いた表現を。
4か月に及ぶ『OUT』撮影の前に、出演者の一人は「すべて過去に起きたことだから大丈夫」と語っていたのですが、実際に撮影を重ねて自己省察を深めたことで、撮影後には「いかにそれまでの自分が、自分の傷を『無かったことにする』ことに慣れていたか」に気が付いたと語ったとのこと。
監督は、出演者が自己省察する際、セクシュアリティに関する基礎的情報の提供はしたけれども「あなたは○○なのではないか」といった類の誘導は行わず、あくまでも当人自らが考察するように促したそうです。その理由は、「セクシュアルアイデンティティとは、誰かから言われてわかるものではなく自らがわかるもの」だから。
「しかし、若いうちに他者の否定的な言葉にさらされると、物事を自ら考え見出す能力の発達が妨げられる。そして、自らが自らのセクシュアルアイデンティティを見出すことが出来なくなる」。そうした問題意識から取られた撮影方法だったようです。
ここからは僕が『OUT』を観た感想なのですが、主要登場人物3名の「顔」が一度も映し出されることがなく、首から下、後ろ姿、あるいは彼氏と喋ってる際に見える並木の光景等ばかり。彼女らと話す監督の顔以外は殆ど映らないという徹底ぶりに驚き、でもそれが重要なメッセージなのだと感じました。
「自分は何故学校でレズビアン検閲の対象とされたのか」がきっかけとなって始まった撮影において、「彼氏と付き合っている自分はレズビアンと言えるのか」「女の子を好きになるのと友情とどう違うのか」など、その時々にぶつかる疑問や気持ちの繊細な揺れが、「顔」を映さないからこそ語れているのです。
そして「なぜ私はドキュメンタリーを撮ることを引き受けたのか」「なぜ自分は顔を映せないのか」などの考察に繋がったりもしていました。素朴な疑問に繊細にこだわり、監督に対して自ら撮影した映像での「つぶやき」を見せ、一緒に語り合うことで、さらに自己省察が進んで行く。その変化の過程において映画が創り出されていく。見事でした。
映画の出演者である彼女たちは「劇中歌」として挿入されるラップ音楽の歌詞を作り歌い、そしてラストの場面では建物の屋上で青空に向かい、仮面を付けつつ未来に力強く向かっていこうとするイメージ映像を堂々と撮影するのです。制作者と出演者が同時代を生きる「人」として共に歩み続ける決意表明として僕は受け止めました。
質疑応答で印象的だったのは「韓国ではゲイの監督は大勢活躍していますが、レズビアン映画は少ないのか?」との質問への応答。なんと韓国ではレズビアンを取り上げたドキュメンタリーは『OUT』や『学校レズビアン検閲』そして、08年に政治家に立候補したレズビアンの記録映画しか出てないとのこと。
韓国ではゲイに関しては最近でもテレビドラマ『人生は美しい』でゲイカップルが描かれヒットしましたが、相変わらず主要メディアや商業映画界でのレズビアン描写は「無い」とのことです。「なぜレズビアンは出来ないのか。歯がゆい思い」だと監督は語っていました。
全部のトークを聴いての疑問。
韓国キリスト教系の学校では「レズビアン検閲」「レズビアン狩り」があったとのことですが、「ゲイ検閲」「ゲイ狩り」も同じように学校の指導要領に組み込まれるレベルで起きてなかったのだろうかということ。起きてなかったのだとしたら理由は?と聞けばよかったと、後から気付きました(残念)。
総じて、韓国社会における「レズビアンの状況の厳しさ」は予想以上でした。映画やドラマでの表現に限って言うならば「ゲイ」については最近、日本よりも先んじた表現が流通するようになってると言えそうです。つまりレズビアンとの格差が大きく開いてしまってるように感じられました。韓国のゲイたちはその状況をどう見ているのかも気になります。→FC2 同性愛 Blog Ranking
スポンサーサイト
レスター・ハムレット監督『カサ・ビエハ』(セルバンテス文化センター「キューバ映画上映会」にて)●MOVIEレビュー

■タイトル: Casa Vieja
■監督: Lester Hamlet
■制作年: 2012
■上映時間: largometraje - 95 min
■制作国 Cuba
主人公は30代中盤と思しきゲイ男性。都会であるバルセロナでゲイとして生きている日常から、「父が危篤」の知らせを受け、キューバの田舎にある実家に14年ぶりに帰郷します。家族や近所の人は皆が、「主人公がゲイであること」を知っているのに、まったくもって口にしません。だからといって居心地がいいわけではなく、「何かを言いたいのに言わずにいる雰囲気」が満ちていて、どことなく関係がギクシャクした感じの日々が続き、やがて父親が亡くなります。
主人公の母親は、夫のもとに嫁いでからずっと、母親であり妻であることによってアイデンティティを保ってきたわけですが、それによって心が満たされはしなかったようです。どこか不全感を抱えた佇まい。そう、この映画の登場人物たちは、主人公以外にもほぼ全ての人たちが、「どことなく不全感」を抱えている人物として造形されているのです。
言いたいことがあるのに言い合わない家族。いわゆる「家父長制に則った家族」を、それぞれが割り当てられた役を演じ合うことで維持しているかのような時空間。主人公はやがて息が詰まるようになり、「やはりここは自分の居場所ではない」ことを悟り、去ることを決意します。
主人公がそろそろ去ろうかという時、些細なことで兄と口論になります。その際、兄から「お前は、ホモだ」と言われる場面があります。その際の兄の人物描写が見事です。全身がプルプル震えつつ、振り絞るようにして口にするのです。その表現からは、「タブーを破る者の苦渋」が痛いほど深く滲み出ており、この田舎共同体で「家父長制」を維持することで生きている人たちにとって「ホモ」「同性愛者」というものが、いかに禁忌(タブー)として扱われてきたのかが、如実に現れている場面でした。
ついに家族の中で一番最初に「タブーを口にしてしまった」兄と弟は、ともに一線を越えあった者同士の「戦友のような感覚」が芽生えたのでしょうか。肩を抱き顔を寄せ合ってしばらく寄り添います。「家父長制を維持する異性愛者」と「家父長制から逸脱したものとして扱われる同性愛者」。その間には深い川が流れているのですが、それ以前に「兄弟」という絆が結ばれていることもたしか。しかし、もう既に両者は別々の生活環境で、別々の人生を歩んでいるもの同士。
しばしの邂逅の後、兄弟は別れていきます。
上映後の監督トークによると、主人公は既に都会で開放的な日常生活を知ってるので、兄の旧態依然とした「同性愛者をタブー視する態度」から、ますます「自分の居場所はここではない」と感じ、故郷を去ることになるとのこと。家族が、それぞれに「家族の構成員」であることを演じ合うような空間において、主人公のような同性愛者がいかに「居づらい」のか。そのことを受け入れたくとも受け入れられない周囲の家族の人物描写も含めて、コミュニケーション不全の苦さに満ちた映画ではありましたが、なぜか最後には、「人生には、分かり合えないこともある。」ということを、逆に肯定的に捉え返すことができるような、不思議なポジティブメッセージも発せられているように感じました。
深い味わいのある、忘れられなくなりそうな名画だと思いました。ぜひ、機会がありましたら観てみてください。
上映後のトークでは、質疑応答があったので最初に手を挙げ、映画で描かれた「ゲイの息子と父のディスコミュニケーション」は監督の自伝的要素が強いのか?、キューバのセクシュアル・マイノリティも日本と同じように、都会と地域コミュニティでは生き易さが違う傾向にあるのか、その2点を質問しました。
監督の応答によると、この物語の原作の主人公はゲイではなく、「身体に問題がある設定」だったのを、わざわざゲイの設定に変え、タブー視している家族の元に居づらくて14年も実家に帰らず、父が危篤の知らせを受けて帰郷する設定にしたのだとか。つまり監督の自伝的要素が色濃いようです。また、キューバでは家父長制が色濃い傾向が強く、監督の友人たちでも家族との関係に悩んでいるセクシュアル・マイノリティは多いとのこと。ただ、都会ではわりと伸び伸びと暮らしている人たちが増えてきているようです。
また、次のような印象的なことを言っていました。
「芸術家というのは自分の中の悪魔を解放しなければなりません。私にとって、主人公をゲイにしてこの映画を撮ることが、悪魔を解放することでした。」
この映画は、監督の予想をはるかに超え、キューバでヒットを記録したそうです。既にキューバ映画界には『苺とチョコレート』のヒットが開拓した「同性愛映画の場所」が確保されているとのことで、実はこの映画、主人公がゲイであることが後半にならないと明かされない描き方のため、いくつか出てくる「主人公のゲイ性をほのめかす表現」を感知できない人にとっては集中力を持続させるのが大変なのではないかと思われるのですが、説明を過剰に織り込まずとも、ちゃんと「ゲイの内面」を想像して観てくれる観客が、キューバでは育っているということなのかもしれないと感じました。
そういった意味でも、とてもうらやましい「キューバの映画・セクシュアルマイノリティ事情」がうかがえた上映会でした。
→FC2 同性愛 Blog Ranking
ジェイソン・ブッシュマン『ハリウッド・ジュテーム』(Hollywood, je t'aime)●MOVIEレビュー

●第19回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映→作品紹介
きらびやかなイメージの象徴であり、多くの人々を引き付ける「ハリウッド」。そこに行けば希望と夢に満ち溢れたステキなセレブ生活が待っていると信じて疑わない人たちが、この映画の主人公のように「とにかくハリウッドに」行ってみたりする。
しかし、イメージはやはりイメージでしかなく、現実の厳しさに直面する主人公。そこに暮らすトランスジェンダーやゲイたちを始めとする、市井に暮らす様々な人々との交流を通して、ままならない現実の中で夢に折り合いをつけることには、一定の覚悟と強さが必要だということを知って行く。
ゲイサウナに行って若者と肉体をむさぼり合う直前で、ふと意識が醒めてサウナを出て行ってしまう場面に象徴されているように、何処へ行っても何をしても無気力だった主人公の「瞳」は、夢の実態を知ったことで、逆に気力を取り戻していく。夢は夢であり実態など無いのだ。根拠のない夢の呪縛から醒めた時から、真の人生は始まるのかもしれない。→FC2 同性愛 Blog Ranking
●2010年7月15日、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で行われた監督とプロデューサーのトーク動画はこちら。
トム・フォード『シングルマン』(A Single Man)●MOVIEレビュー

●第19回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映→作品紹介
平々凡々とした何気ない穏やかな日常が突然、不慮の事故によって断ち切られた。その不条理に直面した主人公は、生きる希望をどのように見出しえるのか?あるいは、見出し得ないのか?
現実と回想の場面が交錯し、主人公の脳内世界と現実世界の境目が、時に曖昧なまま入り混じったものとして描き出される。あまりにも咀嚼不能な重大事に直面した時、人の意識というものはフィクションとノンフィクションの境目を往還することで、なんとか現実の厳しさを咀嚼しようと懸命に、もがくものなのかもしれない。生きるために。
人が人を愛するということ。人が生きるということの意味を、逆説的な語り方でこんなにも深く描ききった映画が、これまでにあっただろうか?。決して明るい結末ではないのだけれど・・・何故だろう?この映画の場面を「イメージ」として思い返すたび、いまだに心がジワーッと温かくなるのだ。今秋ロードショー公開も決まっているとのことで、きっと何度も観にいくことになるのだろう。→FC2 同性愛 Blog Ranking
●2010年7月15日、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で行われた監督とプロデューサーのQ&Aセッション動画はこちら。
エフゲニー・アフィネフスキー『大変!息子がゲイなんて!』(Oy Vey! My Son Is Gay!)●MOVIEレビュー

●第19回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映→作品紹介
コメディタッチに仕上げたかったようだが、そうした「カッチリ感」が災いしたのか演技や演出のテンポが重たく感じられる場面が多く、映画全体のリズムが悪かったのが残念に思えた。内容的にも、描かれる一家がユダヤ系であるという「信仰の問題」と、息子がゲイであるということの「心理的葛藤」を両方描き出すという点では、中途半端ではないかと感じた。
宗教的な信仰心を全く持たない僕のような者には、制作者が(明らかに)観客を笑わせようとして制作している場面なのにも関わらず、「なにが面白いのかわからない」と感じることが多かった。2009年ニューヨーク・インディペンデント映画祭観客賞、2010年トリノGLBT映画祭観客賞を受賞したりしているようなのだが、ローカルなセンスには訴えかけるものがあるのだろう。ただ、国境や文化の違いを超えていたのかと言うと、ちょっと疑問符。→FC2 同性愛 Blog Ranking
●2010年7月9日、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で行われた監督とプロデューサーのトーク動画はこちら。
大木裕之監督『ウム/オム1』●MOVIEレビュー

ゲイは(あるいは「男」は)子どもを産むことは出来ない。ならば未来に対して何を生み出せるのか。映像の可能性を信じて思索し、生み続ける大木監督の「今」を観た。
★5月3日イメージフォーラムフェスティバル2010にて上映。
こうして大木裕之監督の作品を文章化する時ほど、「映像を言語化する」ことの限界に付き当たることはない。解釈の単純化とは真逆のベクトル=複雑化を促すイメージの断片が、脳髄にダイレクトに流れ込んでくる。
流れ行くイメージが、僕の中に新たなるイメージを喚起し、スクリーンと二重写しになって展開される。この感覚には中毒性があるようで、一瞬たりとも目を離したくない。まばたきをするのが惜しい。スクリーンを観ているようでいて、同時に自分を観ているかのような・・・。いくつもの感覚が同時並行で湧きあがる。
かつて僕は、まだ自分が自分の「ゲイ」である側面に素直に向き合っていない頃に大木監督の『ターチ・トリップ』を観た。そして「なぜ、このイメージ群に心惹かれるのだろう」と驚くほどの衝撃を受けた。当時の僕にとって、ものすごくエロティックだったし根源的な何かを揺さぶられた。

会場に監督が居たが、憧れの人すぎて近寄れず。直視できず。→FC2 同性愛 Blog Ranking
関連記事
大木裕之「木(ム)623MIX」●MOVIEレビュー(2005-08-09)
大木裕之「メイ2004-2005ナイフMIX」●MOVIEレビュー(2005-08-13)
馮小剛「狙った恋の落とし方。:非誠勿擾」●MOVIEレビュー

★公式サイト
フォン・シャオガン監督は中国No.1ヒットメーカーで、なんとこの映画は2009年に中国映画史上最大級の興収50億円を記録したのだとか。お金と時間ならば有り余っている中年男が、人生における心の伴侶を求めて「婚活」する様子を描いているのですが、劇中、主人公とヒロインが旅をすることになる北海道は「一大ブーム」になり、社会現象化したそうです。
そんな超メジャーヒット映画の冒頭に、宣伝文句通りゲイ(トランス?)描写が出てきました。主人公がインターネットの出会い系サイトを駆使して「婚活」を始めた当初に、まず面会する相手として登場するのです。
しかも2人は旧知の仲。なんと主人公の前の職場で「後輩男性」として振る舞ってた人が、いわゆる女性的な「おネエ系キャラ」となって目の前に現れたのです。なんでも、ネットのプロフィールに「同性は不可」と書いていなかったため、以前から好きだった先輩の結婚相手として名乗り出て来たというのです。
結婚相手として現れるということはMtFトランスジェンダーなのかもしれません。中国では同性婚は法律では認められていませんから、「結婚相手」として相手を想定できるのは異性に限られます。つまり、現れた後輩は「女性」でなければ婚姻は成り立ちません。そうするとこの映画の新聞広告に記されていた「同性愛」というのは嘘になります。二人の関係は「同性」ではなく「異性」になるわけですからね。(そのへん、日本の配給会社のアバウトさを感じますが。笑)
台詞のやりとりでは、後輩が「女性」としての意識を持っているトランスジェンダーなのか、それとも「男性」としての意識を持ってこの場に臨んでいるゲイなのかは読み取れませんでした。まぁそれはいいんです。それよりも最も僕の印象に残ったのは、この場面における俳優の演技の自然さと、演出のナチュラル加減。つまり、ぜんぜん奇を衒って作られていなかったのです。
かつての後輩が「女性っぽく」なって目の前に現れるわけですから主人公としては当然驚くわけですが、演じている役者さん(葛優さん)が名優だということもあるのでしょう。観客としては、この場面が「異常なもの」だとはあまり感じられないのです。後輩役の役者さんも、よくありがちな「おネエ演技」を誇張することなく自然な振る舞い。口調がちょっとおネエっぽいかな?という加減で節度を持って演じているのです。あまりにも奇を衒わないため、「こういうことは現代の中国では、ありふれたことになっているのか?」と思ってしまうほど。
●YouTubeより~狙った恋の落とし方。 予告編
このように、物語設定を説明するために冒頭に「セクマイ」を登場させてインパクトをつけ、観客を一気に引き込む手法は日本映画『おくりびと』などでも使用されているわけですが、『おくりびと』の場合は役者の演技も演出もシナリオの台詞も全てが「大げさ」であるように僕には感じられ、観ていて不快になりました。しかしこの映画のこの場面では、まったく不快な感情が湧かなかったのです。セクマイを「奇異な存在だ」と扱っているか、いないかによって、こうも印象に差が出るのだということを感じました。
この場面にも象徴されているとおり、『狙った恋の落とし方。』はとにかく、全篇にわたって人間描写が丁寧で、創り手が観客の感受性を信用していることが伝わってくる、本当に素敵な映画でした。

すでに中国の都市部では、セクマイの存在は「奇を衒って描く」ことが時代遅れのナンセンスと捉えられる位に「当たり前のもの」になりつつあるのかもしれません。あ、そうそう。昨年の5月には天安門広場の前で中国のレズビアンたちが、2人でウェディングドレスを着て同性結婚式のパフォーマンスをする様子が、日本テレビ『バンキシャ!』で報じられたりもしました。
この映画から最もよく読み取れるのは、かなり自由で多様な生き方を享受している、中国の都市部に暮らす人々の「今」の空気でした。
男と女のロードムービーとしても最上級の出来。北海道の自然や人々の温かな暮らしを「すでに失われた心の故郷」と感じてしまうくらい、今の中国は高度経済成長一直線。その裏にある心の孤独が鋭く描き出されてもいる名作です。東京での上映は終わりましたが、機会がありましたらぜひ御覧になってみてください。→FC2 同性愛 Blog Ranking
グレン・フィカーラ、ジョン・レクア『フィリップ、きみを愛してる!』●MOVIEレビュー

宣伝イメージ写真が、ジム・キャリーとユアン・マクレガーによる「男同士のキス」だからといって、安易にゲイのラブロマンスを期待して観に行くと大火傷!これは怖い。非常に怖~いホラー映画をコメディタッチに無理やりしましたって感じの映画です。
世間ではなにかと「生きる意味」だとか「自分らしさ」とか、自己啓発本を筆頭に自らの「アイデンティティ」を確固たるものにして有意義に生きるべきだと喧伝して儲けている輩がおりますが。それらの強迫観念に苛まれると、きっとこの映画の主人公のようなモンスターになってしまうんだろうなぁと思わされました。くわばらくわばら。
要するに主人公は「フィリップを愛している自分」でいることを最も愛したんだと思います。つまり、自分の精神が安定しさせすれば、相手は誰でも良かった。そういう意味では、「アイデンティティ」を固着させなければ精神の安定を保てない人間というものの弱さや滑稽さを痛烈に批判し、笑い飛ばしている映画でもあります。人間って一皮剥けば「エゴ」の塊ですから、それがグロテスクに露出するとこういうことになるわけで。

稀代の詐欺師であり、実在の人物だという主人公が巻き起こした波乱万丈を全て映画に取り込むことが優先されてしまい、人間としての「日常」が描き切れていないところが残念な映画ではありました。→FC2 同性愛 Blog Ranking
ユ・ハ「霜花店(サンファジョム)~運命、その愛」●ついった~コピペMOVIEレビュー

■ついった~からのコピペのまんまでスイマセン。
→FC2 同性愛 Blog Ranking
大島渚「戦場のメリークリスマス」●MOVIEレビュー

そ~いえばウチの実姉も昔、アイドル的人気を誇っていた頃の坂本龍一のファンでキャ~キャ~言ってたことを思い出す。あの魅惑的な瞳はメイクなのか素顔なのか?がまず気になった(爆)。
映画は「組織と個人」の葛藤が表向きのテーマっぽいが、間接的に「男同士のセックス」を描いているかのような場面が多かった。そのものズバリを描くより、こうして観客に自らエロスを想像させてくれる方が、よっぽどエロティック。エロス表現とは、かくあるべし。この気概を、ホモAVメーカーに学んでもらいたいっ!
★『戦場のメリークリスマス』[DVD]
なお、このブログではMOVIEレビューを書くときに「邦画」「洋画」「LGBT関連」で分類しているのだけど、この映画は文句なく「LGBT関連」に決まり!。なぜなら・・・坂本龍一の「あんな場面」が2回も出てくるんだもん。あ~エロかった(笑)。そういえば80年代前半の坂本龍一氏は、ちょっとした「ゲイ(的表現の)アイコン」になっていたわけで。
●YouTubeより~忌野清志郎 & 坂本龍一 い・け・な・い ルージュマジック
当時は「腐女子」って言葉は無かったけれども、坂本龍一氏のユニセックスな雰囲気は妄想を掻き立てていたのではないかと。ゲイたちの妄想は・・・どうだったのだろう。時代ごとにゲイたちに人気を博した「ゲイ・アイコン」や「俳優」の情報など、風俗的な面からまとめた本って、そういえばまだ出版されてないなぁ。欲しいっ!→FC2 同性愛 Blog Ranking
サイモン・チュン「この愛の果てに」●MOVIEレビュー

家に男を連れ込み、男同士でセックスをしていたら、帰宅した母親に目撃される。「なんと汚らわしことを!」と嘆いた母親は、窓から飛び降り自殺する。そんな凄まじく劇的な場面から始まるこの映画は、ひたすら主人公が「堕ちて行く様」を描き出す。セックス依存、ドラッグ依存…。
人生への不安をかき消すかのように、刹那的で享楽的な「ゲイ・ライフ」を謳歌する主人公。「一緒に幸せな家庭を築こう」と新居まで用意してくれる相手がいるにもかかわらず、なかなか夜の快楽から抜け出せない。やがて相手の通報により警察に補導され、更生施設に収容される。●第18回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて上映。
→作品紹介ページ・・・7月20日(月)にも上映あり。
更生施設では「ゲイ」であることは封印せざるを得ない中、ヘロイン中毒だったという優しいノンケ男と仲良くなる。やがて施設を出た二人は、ノンケ男の彼女と3人での共同生活を始める。しかし現実の社会生活は、なかなか思うようには進まない・・・。

「ヒューマニズム」のような綺麗ごとでは人間存在は捉え切れない。「上がる」ためには時間もかかれば様々な積み重ねが必要になる。しかし「堕ちる」時には一瞬でまっさかさま。誰もがその恐怖や不安と隣り合わせであるにも関わらず、とりあえずは臭いものには蓋をしながら気を紛らせて日常を過ごしている。それが人間存在というものの宿命なのだということを、描き出したかったようだ。
中盤から後半の展開があまりにも重く暗く、観終わった後にはとてつもない疲労感に襲われた。ずっしりと心の中に、鋼鉄の錘を入れ込まれた気分。「休日に映画祭で明るく楽しい映画を見よう」というニーズには応えないだろうが、地獄の底の闇の中からこの世を瞠るかしてみたいという欲望には、ある程度は呼応してくれる映画。堕ちるとこまで堕ち、漆黒の闇を経験した「心」には、もう怖いものなどない。→FC2 同性愛 Blog Ranking