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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2020-07
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今泉浩一「初戀 Hatsu-Koi」●MOVIEレビュー

 この希薄感はなんだろう。

 11月3日までシネマアートン下北沢で上映されていた映画「初恋」の主人公は、まるで捨てられた子猫のようだ。軽くて薄くて飛ばされやすくて、いまにも消えてしまいそう。思春期に同性を好きになり、「性の不安」に向き合ったことで「生の不安」を意識した。その直後の心理描写が最も印象的。駅のプラットホームに独りで立ちすくみ、早回しで通り過ぎる電車や人々の中、ふわふわしたままで無表情のまま、立ち尽くす彼。

 この主人公のような「ふわふわ感」を醸し出す人って、どこかでたくさん見かける。そうだ。新宿二丁目の路上やコミュニティー活動の場などに出掛ければ、たくさん会えるのだ。なんともいえない所在無げな身体感覚を持つ、浮き足立った人々に。もしかしたら自分も、その一員なのかもしれないが。

 ふわふわしたままの主人公は、ひょんなことからゲイの仲間に出会う。そして「好きだよ」と言ってくれた人と付き合うようになり、アッという間に同性結婚式へとなだれ込む。なんという急展開。新宿二丁目のコミュニティーセンターaktaで撮影されたセレモニーの場面は、とても「この世のものとは思えない浮遊感」を漂わせていた。

 地に足が着いていない。天使のような幽霊のような。感情の「ある部分」が、欠落しているかのような生命力の希薄さばかりが印象に残る。見えるのに見えない。生きているのに死んでいる。そんな感じ。

 そんな「生のありよう」は、今なお制度上は「いないことにされている」、この国の同性愛者の寄る辺なさを象徴してはいないだろうか。そんなことを思ったとき、寒気が走った。シュガーコーティングされた笑顔を装いながら、実はとんでもなく恐ろしい映画なのではなかろうか。FC2 同性愛Blog Ranking

名執たいすけ「一緒ネ!」●MOVIEレビュー



 「青臭さ」という、かけがえのない宝物


 はじめて撮るドキュメンタリー映画。そこには作者の初期衝動が、いっぱい詰まっているものだ。どんな映画になるのかわからない。でもとにかく撮りたい、撮らずにはいられない。自分がどうしてそれを撮りたいのか、考えながら悩みながら迷いながらの試行錯誤。

 しかしそうしたピュアな情熱と言うものは、いつまでも続くものではない。もしかして、誰の人生にとってもそれは「一回きり」の情熱なのかもしれない。だから尊い。美しい。

 名執たいすけ監督の第一回作品である『一緒ネ!』は、そんな「青臭さ」に満ちていた。東京メトロポリタンゲイフォーラムの二人を見つめることで、自身の内面も見つめ、映画を作りながら、やがて自身を解放して行ったのだろう。彼はとにかく見つめている。たとえカメラの前で出演者が黙っていても、ただただジーッと見つめ続けている。沈黙が生まれても、あえて放っておく。すると出演者は自分から語り出す。カメラはただ、その魔法の瞬間を記録する。

 沈黙というものは時に雄弁だ。語られる言葉よりも多くの「思い」に満ちていたりする。彼はその可能性に気付き、恐らく意識的に記録したのだろう。

 そのことで見事に浮かび上がった出演者の真実。隠されていた思い。語られていなかった愛情。ずっと一緒に寄り添い続けなければ明かされなかった真の心。涙。そして笑顔。

 あっけらかんとしたユーモアの中から滲み出てくるのは、「そこに君がいればいい」という心からの思い。そんな素朴な愛情が交歓されていることを感じられる、豊かな人生の瞬間だった。

 「一緒ネ!」という言葉の孕んでいる軽さ、明るさ、深さ、重さ。それを信じたり感じたり考えたりしたかったのは、他ならぬ監督自身だったのだろう。FC2 同性愛Blog Ranking




●ドキュメンタリー映画「一緒ネ!」上映会
 2/25(日)18:30開場 19:00開始(43分) 中野ゼロ 視聴覚ホール/500円
★「一緒ネ!」公式ブログに詳細あり。

ヤウ・チン「LET'S LOVE香港」●MOVIEレビュー

 終わらない映画

 映画が芸術表現なのだとしたら、「わかる」のではなく「感じれば」いいのではないかとよく思う。音楽や絵に触れた時、それをわかりやすい言葉で解釈など出来るだろうか。そもそも人生や世の中って、ハリウッド娯楽大作映画のように「わかりやすく」語ってしまえるほどに単純なものなのだろうか。

 香港ではじめてレズビアンであることを公表した映画監督ヤウ・チン(Yau Ching)による「LET’S LOVE香港」は「わかりやすい言葉」による解釈を拒否し、「わかりやすい物語」で安易にこの世の中を語りきってしまおうとする傲慢を疑う感性を持った、真に謙虚な芸術家による表現だ。彼女は格闘している。21世紀の香港という街と、そこに生きる人々の真実を映像表現として定着させようと格闘している。

 空の見えない大都会。足早に淡々と通り過ぎる人々。根源的な孤独を抱え、心に何重もの武装を施しながらも、そのことを悟られないようにと強がりながら生きている「今を生きる我々の姿」が、たくさん映りこんでいる。

 この映画の真の主役は主役の3人だけではない。3人の日常風景を描くことで、大都会に暮らす人々に特有の「ある空気感」が丁寧に描写されていることに注目したい。映画全体から漂ってくる、なんともいえない倦怠感。ポッカリと空いた心の空洞を「わかりやすい物語」で焦って埋めてしまうことの更なる空虚。ネットで脳内娯楽に没頭したり、リアルなセックスに身を任せてみても…なぜだろう。「欠乏感」から逃れることが出来ないのは。

 「満たされること」を求めているんだかいないんだか。「現状に満足」しているんだかいないんだか。そもそも「満足」とは何なのか。なぜに人は人を求めざるを得ないのか。いや、本当に「求めざるを得ない」のか?。常に移ろい行く捉えどころのない心。捉えどころのない存在。

 そんな人間たちを肯定するでもなく否定するでもなく、柔らかく包み込む映像表現。まるで羊水の中を漂っているかのような安らぎをも感じさせる湿度が心地よくもあり、暑苦しくもあり。快と不快を行きつ戻りつすることによって、やっと「生きている」ことが実感できる人生そのもののような映画体験。

 見終わった後に心に棲みつき、いつまでも反復し続ける「終わらない映画」だと思う。
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★以下のサイトでDVDが自主発売されています。
「つなカンパニー」
LOVE PIECE CLUB

★関連記事
「クイア」を学び切り拓く008●パフナイト・世界のビアンから~香港編~

イ・ジュンイク「王の男」●MOVIEレビュー① 底なしの孤独地獄

 王になることを運命付けられて生まれた者は不幸である。王になる「しか」生きる道が無いのだから。

 周りの人間は打算と政治的思惑を胸に、王という権力に寄生する。心にもない褒め言葉や虚飾に満ちた笑顔で崇め奉る。「嘘」に塗り固められた表面的な人間関係の中で生きること。それが王として生きるものに宿命付けられてしまう不幸な「日常」の正体なのだ。

 芸人になることしか道がなかった者は、幸か?不幸か?

 あちらの土地からこちらの土地へと渡り歩き、客や興行主に「求められる芸」を見せながら生計を立てる。客のニーズに合わなければ、すぐにでも食いっぱぐれる危険といつも隣り合わせ。「綱渡り」の曲芸師のように、自分のバランス感覚のみが命をつなげる生命線。しかし身軽である。自由である。自分の気持ちに正直であり続けることが出来る。

 まったく正反対の境遇を生きる「王」と「芸人」が、出会ってしまった所から、この物語の本題は始まる。目と目が合った瞬間。王は「芸人の男」の虜になった。

 人が人に惹かれる感情=愛に「理由」などは無い。そもそも理由がある愛なんて「愛」ではないだろう。気になって放っておけなくなって傍にいたくなる。いつも一緒にいたいと切実に願うようになる。それが「愛した者」の感じる初期衝動。ましてや王様だもの。望むものは何でも手に入れ、好き放題に振る舞ってきた王様だもの。いつものように簡単に手に入れられると思ったことだろう、「愛する者」の全存在を。

 王に「愛された者」は戸惑った。裸の心を見せられ戸惑った。そして、いつもそうしているように、とりあえず「求められる姿」を見せることで、王の冷え切った魂を暖めようとした。なぜなら彼は根っからの「芸人」だったから。自分を愛する者に対しては「芸」で応える。それこそが彼が長年身につけてきた、芸人としての保身術だった。

 王は、ますます「芸人の男」に魅了された。男の「芸」だけではなく「全存在」に魅了された。人を疑うことを知らない純朴な生き様と、何よりその人間的な輝きに魅了された。しかし王は、やがて知ることになる。自分にも「手に入れられないもの」があることを。

 「権力」は、人の心を本当の意味では惹き付けない。

 「愛する者」を囲い込むために「権力」を行使するしかなかった王は不幸である。王は裸になることが出来ない。「自分であること」が出来ない。常に王でなければならないのだ。
 この映画では、そんな不幸な一人の王の、底なしの孤独地獄の有様が、おそろしいほどリアルに描き出されている。FC2 同性愛Blog Ranking

フランソワ・オゾン「ぼくを葬る」●MOVIEレビュー2


どんどん息が楽になる。
死が迫るほどに日常が軽くなり、明るく軽くなって行く。

その代わり
若い頃からずっとがむしゃらに、
ひたすら仕事に追われることで費やされてきた時間に
真の達成感がなかったことに気付く。

「生きる」ということは、なんと残酷で滑稽で、限りあるものなのだろう。

ロマンは幸せだ。生きているうちにそのことに気が付いた。
他人に自分を受け入れてもらうことの
真の喜びを味わえた。
自分の本性への「罪悪感」と戦う齢は過ぎていたけど
邂逅できない両親との関係を、割り切ることで受け入れた。

同性と同棲していることを両親は知っている。
しかし「知っている」だけ。彼の精神の安息は家庭の中では見出せなかった。
「父性」の横暴さに嫌気がさしていた過去もある。
そんな父とも今では対等に言葉を交わせるのだが
だた、乾いた眼差しで突き放すことで受け入れた。

そしてロマンは、自分を受け入れてくれる人を自分で選んだ。
それは祖母だった。
一人で迫り来る死と向きあっている祖母こそが、
彼を受け入れる「器」のある人だった。

ロマンにとって祖母との邂逅はどんなに嬉しかっただろう。
二人きりで過ごした一夜は
年齢や性別などを超越した人間同士としての交感。
人目を気にする必要がないから、
ありのままの自分を曝け出せる喜びに浸った。
誰にも打ち明けられなかった秘密を共有することで
ロマンの「核」は、祖母と共鳴し合った。

それはロマンがずっと、追い求めていた瞬間だったのかもしれない。

彼の生きてきた生涯には「魂」がなかった。
「既成」の様々な道徳や戒律による「規制」は緩やかで
ホモフォビアをあまり感じなくて済む環境だったけれど
せっかくの自由を謳歌し、自己を真の意味で羽ばたかせることはなかった。

ロマンは死の直前に悟った。
「自分の全てが求めること」を、虚心に受け入れる喜びを。
ロマンは死の直前に悟った。
「自分の存在」を、ただ純粋に受けとめてくれる人と分かち合える喜びを。

それは奇跡的な悟りだった。
悟った途端、ロマンは素直になった。
「喜び」の追求に、彼は残りの時間を費やすことにした。
新しい生命の誕生を手助けし、仲たがいしていた姉とも邂逅した。

そして自分にとっての「真」を見つけた。

死が迫るにつれ
どんどん解放されてゆくような
ロマンの爽やかな風を感じながら僕は
まだまだ自分には時間がたっぷり残されているだろうことの
幸運に思いを馳せた。

そして思った。
僕も悟った後のロマンのように、凛として死と向き合う人生を送りたいと。


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フランソワ・オゾン「ぼくを葬る」●MOVIEレビュー1

フランソワ・オゾン監督・ゲイ関連作品DVD
「ぼくを葬る」
「ふたりの5つの分かれ路」(ゲイ・カップルが主役を翻弄)
「ホームドラマ」(ゲイの息子が登場)
「クリミナル・ラヴァーズ」(主人公の少年はゲイ)
フランソワ・オゾンDVD-BOX「海を見る」「サマードレス」「ベッドタイム・ストーリーズ」「クリミナル・ラヴァーズ」他9作品収録
フランソワ・オゾン監督フィルモグラフィー
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アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー


どんどん息苦しくなる。
歳をとるほどに日常が硬くなり、暗く重々しくなって行く。

その代わり
若い頃ほんの一時でも
自分を解き放つことのできた素晴らしき日々の記憶が、
ますます輝きを増して胸を締めつける。

「生きる」ということは、なんと残酷で滑稽なことなのだろう。

エニスは不幸だ。素直な自分を愛せない。
他人に自分を受け入れてもらうことが
本能的に出来ないのだ。
自分の本性に「罪悪感」を感じてしまうような
育ち方をしてしまった。

厳格な保守思想の持ち主である父親との確執。
愛されるべき人に「恐怖」を抱きながら育った不幸。
「父性」に親しむことが出来なかった分、
ぽっかりと空いた精神的な欠落を封じ込め
見ないように、触れないようにして生きてきた。

彼は受け入れられることが怖いのだ。
拒絶されることに慣れていたから。
しかし怖いからこそ、なおさら人は、そのことを求めてしまうものなのだ。

エニスにとってジャックとの出会いはどんなに嬉しかっただろう。
二人きりで過ごす山中での生活は、
彼の心の裡の鋼鉄のような氷山をゆっくり優しく溶かしはじめた。
人目を気にする必要がないから、
ありのままの自分でいることを覚えはじめた。
子どものように無邪気に笑い合ううちに、
エニスの「核」が、ジャックと共鳴し合うようになった。

それが意識化されるのは時間の問題だった。

彼らのいた山の中は「社会」ではなかった。
「既成」の様々な道徳や戒律による「規制」が張り巡らされ、
常に他人の目を気にしながら自分を「規定」し続けなければ生きられない
ホモフォビアの蔓延する「社会」ではなかった。

エニスは知った。
「自分の全てが求めること」を、自分の全てで受け入れる悦びを。
エニスは知った。
「自分の全てが求めること」を、全身で受けとめてくれる人と出会えた悦びを。

それは奇跡的な出会いだった。
しかし奇跡に気付いていながらも結局、エニスは素直になれなかった。
「悦び」をもとに人生を設計できなかった。
ジャックと別れ、人知れず流した涙から素直に学ぶことが出来なかった。

そして自分だけでなく、多くの人を裏切り傷つけることになってしまった。

時を重ねるにつれ
どんどん息苦しくなるかのような
映画の空気圧に押し潰されそうになりながら僕は
あの時代、あのようにしか生きざるを得なかった数多くのゲイたちの
語られなかった人生に思いを馳せた。

そして思った。
僕は決して、エニスにはならない。

 
連載記事
ブロークバック・マウンテンで見る世界

公式サイト
Brokeback Mountain ブロークバック・マウンテン

DVD「ブロークバック・マウンテン」
オリジナル・サウンドトラック
Annie Proulx「Brokeback Mountain:Story to Screenplay」
アニー・プルー「ブロークバック・マウンテン」

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キム・キョンムク「顔のないものたち」●MOVIEレビュー②

 第一のパートのラスト。部屋に一人取り残された若い男は、しばしの沈黙の後、ビデオカメラをおもむろに取り出す。そして窓の外らしき場所にカメラを向け、覗き込む。

 覗き込んだ「先」という設定にされているらしい部屋の中にも、どうやらゲイの男同士がいる。一人は袋を頭からすっぽりと被っている。もう一人は普段着のまま。なにが始まるというのだろう。

 ベッドに寝転んだ袋の男。その袋の口の部分には穴が開けてある。袋の男は普段着の男に、さかんに「あること」をおねだりしている。普段着の男は「そんなこと出来ないよ」と拒絶しながらも、次第に「やってみようかな」という気持ちになったらしく、ズボンを脱いで要求されるがままに袋の男の顔にまたがって座る。まるで便器の上に座るかのような体勢で。

 つまり袋の男が普段着の男に要求していたことというのは、「自分の口に向かって放尿してくれ」ということだったのだ。明かりが煌々と点されたなんの変哲もない一室で、突然繰り広げられようとしている放尿の光景・・・。普段着の男は監督自身なのだろうか・・・三脚に据えたカメラを、自分たちの行為がもっともリアルに移る場所への動かし調整しながら、自らの放尿場面を執拗に撮影しようとする。しかし、さすがにベッドの上では勝手が悪く、なかなか事が実行出来ない。

 「こんな体勢だと無理だよ。」
 普段着の男が言うと、袋の男はベッドの下の床に寝転がる。そして、普段着の男はベッドの上で力みながら、下にいる袋の男の口にめがけて脱糞することになるのだ。次第に興奮し、裸になる袋の男。カメラはその一部始終を至近距離から撮影し続け、ボカシが入ることもない。「えっ、マジで見ることになってしまうの・・・!?」というスリルと好奇心を喚起されながら、観客は目の前に提示される映像を「見る」しかない。

 時折、袋の男の膝が立ち上がって放尿場面をカメラから隠すのだが、その瞬間のなんと「ホッ」とすることか・・・。しかし無慈悲にもすぐに膝は倒れ、普段着の男の尻から、あと少しで糞が放たれるかというその時、画面には奇妙なアニメーションが挿入される。

 放尿シーンをうっすらと画面上に残しながら展開されるそのアニメは、とても暴力的で過激な内容。漫画でよく描かれる通称「巻きグソ」があちこちに落とされる光景だ。生きているものの上だったり、日本やアメリカの上だったり・・・。さらにはエイズ感染の広がりを髣髴とさせるイメージなどが、強烈なスピードで次から次へと展開される。密室で行われている放尿という行為が、アニメーションの挿入によって一気に「広がり」を持ち「別次元のもの」として立ち上がり、観客のイメージや思考を刺激する。そしてアニメが終わったと思いきや、ついに観客は放尿の場面を見てしまうことになるのだ・・・!

 放たれたものを口に含む袋の男。興奮している。自らの身体や性器の周りに糞を塗りたくり、さらに興奮して自らの性器を弄び始める。放尿の終わった普段着の男はカメラを持ち、その姿をアップでカメラに記録する。つい先刻まで自分の身体の中にあった糞。それが今、目の前で袋を被った男の肉体に塗りたくられ、性的興奮の道具と化している。

 あまりにも衒いがなくストレートにアップで映される「糞」の映像。最初はやはり嫌悪感を抱いた。「なんでこんなのアップで見せられるんだ・・・。頼むからズームのスイッチを押さないでくれ。」
しかし願いは空しくカメラは容赦なく、この世で最も「汚物」とされがちなものの姿をリアルに目の前に映像化する。

 長い間見ていたら、不思議な感覚と思考が呼び覚まされた。「そういえば、どうして僕はこれを気持ち悪いと思うんだろう。」

 糞といっても、この世の中に当たり前に存在している物質であり、生々流転の一段階に過ぎない。人が口に入れた食べ物が、体内で消化された結果できるただの物体じゃないか。僕はなぜ、これを「汚物」として嫌悪し、「見つめる」ことすら拒否してしまうのだろう。

 袋の男は「汚物」にまみれながらも興奮し、ついに射精する。カメラは、射精された男の白い液体までをも丁寧にアップで映し出す。その頃にはすでに観客は「汚物」を見慣れている。もう、なにが起こっても受け入れられるような感覚世界を漂っている。自らの判断する「清濁」の基準がグラグラと揺さぶられるような大地震が僕の内面世界で続いていた。その揺れは激しく、あちこちに傷をつけながら破壊を続け、いろんなものを粉砕してくれた。

 第三のパートは、もう一度「第一のパート」のホテルの一室に戻る。ビデオカメラを覗き込んでいる男のが映し出される。つまり、今見た光景は、このビデオの男も見ていたものであるかのように思わされるカットつなぎである。

 そこへ突然、字幕が入る。
 「この映画の最初のパートは、監視カメラにより撮影された映像である。」
 ・・・「えっ!?、まさか・・・」と驚かされるが、租借する暇もなく次の衝撃が。

 ビデオカメラを覗き込んでいた男がファインダーから目を外すと、そこにいるのは他でもない「監督自身=キム・キョンムク」なのだ。第一のパートで中年男に身体を売っていた男娼の男とは、まったくの別人。つまり、全てが実写映像であるかのような捉えどころのなさとリアリティーを作品の柱にしておきながら、最後の最後に「作者が顔を出す」ことできっちりと映画全体を「フィクション化」して、この作品は終わるのだ。

 キム・キョンムク・・・。どこまで人を翻弄すれば気が済むのか。
 どこまで人として、ゲイとして、映画としての新たな領域を開拓しようとしているのか。
 彼がこの作品に込めた社会風刺は、映画風刺、芸術風刺でもある。
 つまり、自分も含めた「全てのもの」に対して、ナイフを突きつけてしまっているのだ。
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「顔のないものたち」
(FACELESS THINGS)
2005/video/65min
監督・製作・脚本・編集・録音
:キム・キョンムク
(KIM Kyong-Mook)
音楽:イ・ミンヒ
出演:キム・ジンフ キム・ジョンチョル
配給:キム・キョンムク

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★次回は、同時上映されたキム・キョンムク監督の「僕と人形遊び」について。

キム・キョンムク「顔のないものたち」●MOVIEレビュー①


 おそるべき鋭利なナイフを持ち、隠すことなく堂々と表現者として駆使しているゲイの映像作家が韓国にいる。知性にあふれ、度胸もあり、ゲイである自分を開示することに躊躇せず、傷つくことを厭わない。世間の様々な既成概念に対して「映像」という道具で挑戦状を叩きつけ、観る者を揺さぶり翻弄し挑発している本物の芸術家。

 『韓国インディペンデント映画2006』で上映された「顔のないものたち」の監督キム・キョンムクは、20代前半の無鉄砲さとそれを統制する知性を併せ持った・・・つまり若さと老成を併せ持った稀有な人物だ。これから彼は何に反旗を翻し何に挑戦し続けるのだろう。彼のような「鬼っ子」がいる韓国のゲイ・シーンは真の意味で幸運だ。

<注:このレビューの中には、性に関する直截な描写があります。>

 カラダの関係。心の在り処。

 「顔のないものたち」は、3つのパートに別れている。そのどれもが衝撃的かつ挑発的な内容なのだが、一つ目のパートは撮影方法も挑発的。「ワンカット撮影」なのだ。しかもカメラを部屋の片隅に固定し、まったく動かすことなく廻し続けてカットも区切らない。まるで監視カメラで「隠し撮り」した映像を覗き見しているかのような感覚に、観客を陥らせる撮影方法。

 ありふれたホテルの一室に、小太り気味の中年男性がやってくる。煙草をくゆらし、何かを待っている様子。やがてその部屋に制服を着た若い男が入ってくる。二人は旧知の仲であるらしく親しげに会話を交わす。やがて若い男が中年男の背後から抱きつき、二人はこれから「そういう行為」をする関係なのだということがわかる。

 肉体の接近から衝動的に始まるソファの上での性戯。しかし潔癖な中年男は若い男にシャワーを浴びさせる。その間、これから行う行為を思い浮かべてベッドの上で一人、自らをもてあそぶ中年男。

 シャワーが済んだ若い男は少し落ち着きたい。いろんな話をしてから、やることをやりたい。しかし中年男のボルテージは既に高まり抑えきれずに爆発する。嫌がる若い男を無理やり愛撫し、行為へといざなう。若い男は拒否しながらも従うしかない。意志とは関係なく肉体を刺激されれば、あっという間に興奮の渦中に誘われる。

 いよいよという時。いきなり黒いマスクを取り出して被る中年男。
「なにそれ、おかしいよ。」と突っ込む若い男。
「いいだろ、レイプしてるみたいで。」
 顔を隠して行う「犯罪性」を演出し、自分の性的幻想を一方的に追求して興奮しようとする中年男。ただ従いながら全身を捧げ、好きなように弄ばれるしかない若い男。意志は肉体に従属する。でも、あながち嫌というわけでもなさそうだ。強引に奪われながらも若者の肉体は悦んでいる。そして精神も悦びの渦中にあるようだ。すべての意識は行為に集中され、2人で奏でる協奏曲は激しく昇り詰めて行く。ベッドを飛び出し様々な体位で、興奮の絶頂を迎える。

 中年男は果てた。終息に向かう彼の興奮。しかし若い男は欲求不満。「自分も入れたい」と要求するのだが、「だめだ。受けは嫌いだって言っただろ」と中年男に拒絶される。むくれてしまう若い男。なだめようとして、中年男は甘い言葉を安っぽくささやく。

「君のこと全て好きだよ。」
「・・・どうでもいいってことか。」
 若い男がつぶやく。
 彼はなかなかクールに、自己と他者の心理を分析できる人物のようだ。

 「今後も会いたい」と言いながら中年男は服を着始め、行為の代償である金銭を支払う。そう、これは売春の光景だったのだ。中年男には家庭があり、中学生の息子がいるらしい。つまり若い男とほぼ同年代の息子がいるのだ。

 そのことに若い男が意地悪く突っかかる。
「息子さんもゲイかもね。性的嗜好は遺伝するらしいから。」
「ばか言うな。うちの息子は普通だ。」
「普通って何?。じゃあ僕は普通じゃないの?。」
「・・・。」
「奥さんもレズビアンかもよ。」
「何を言う。妻がどれだけ私のことを愛してくれているか・・・。」
むなしくなるだけの若い男。

 やがて制服を着せられ、「制服姿がとってもセクシーだよ。」と抱きつかれて甘い言葉をかけられても、若い男の空しさは修復することはない。中年男はここでも一方的に束の間の逢引を終了させ、「父親」「夫」「サラリーマン」である日常に帰って行く。

 一人、部屋に残された若い男はベッドにうつぶせになり、死んだように凝固する。そんな彼の姿まですべて、残酷なまでに冷徹にカメラは撮影し続けているものだから、観客もただ、映画館の暗闇から凝視し続けているしかない。

 どの瞬間が真実なのか/嘘なのか。
 どの言葉が真実なのか/嘘なのか。
 どの行動が真実なのか/嘘なのか。
 どの快楽が真実なのか/嘘なのか。

 ノーカット映像から零れ落ちる様々な「隙間」から真実と嘘は混ざり合い、混淆し続けながら解釈不可能な時間として提示され続ける。それにしても、なんて豊かな感覚刺激なんだろう。

 ちなみに、彼ら二人の「演技」を収録するためにキム・キョンムク監督は2週間かけて、綿密なリハーサルを行ったそうだ。プロの役者ではない素人の彼らを使い、30分以上のノーカット場面を完璧な演出で実現してしまう力量は、只者ではない。

 次回はいよいよ2番目のパートについて。
・・・これがまた、さらにエキサイティングかつ、ショッキングなのだ。彼の映画について一気に語れてしまうほどの精神的体力を、僕は持ち合わせていない。

注:文中に「性的嗜好」という言葉が出てきますが、映画の字幕で使われていた表記をそのまま使用しました。セクシュアリティーのことを語る時に使用される正しい表記は「性的指向」です。FC2 同性愛Blog Ranking


「顔のないものたち」
(FACELESS THINGS)
2005/video/65min
監督・製作・脚本・編集・録音
:キム・キョンモク
(KIM Kyong-Mook)
音楽:イ・ミンヒ
出演:キム・ジンフ キム・ジョンチョル
配給:キム・キョンムク

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ぺ・ジヨン「ダンシング・ボーイ」●MOVIEレビュー

嫌がられたって好きなんだからっ!
 
 教室の後ろの席から。グラウンドの片隅から。この映画の主人公は、クラスメートの格好いい男子を見るとつい「ポーッと」なってしまい、熱い視線を送り続ける。周囲から好奇の視線を浴びながらも隠すことなく「好きだよ」という態度を示し続ける。怖い位に純粋に。

 そんな恋愛渦中の盲目状態にある主人公を、誰も止めることは出来ない。その徹底したアタックぶりは、「この子、ちょっと鈍いのか?」と疑いたくなるほどの無鉄砲さとエネルギーで実行される。しかも、どうやら主人公は自分がゲイであることにはまったく悩んでいないようだ。要するに「大好きな彼が振り向いてくれないという事実」のみに悩んでいるのである。

 悩まぬ強さ

 ゲイを描いた映画ならば苦悩は付き物・・・そんなステレオタイプを軽々しく突き抜けてしまっている爽快感は、台湾映画「僕の恋、彼の秘密」の世界と共通。しかも、主人公がちょっと「ボーっとした感じ」のホンワカ・キャラであるところも一緒。さらにこの映画の場合は、主人公の意志の強さは半端じゃない。愛情表現の押しが強すぎて相手が明らかに引いているのに全く動じないし、周囲が気持ち悪がっていても、そんな外野の雑音は「眼中にない」のだ。「♪若さゆえ~」のストレートな直球勝負で、とにかくぶつかり続ける率直さ。

 主人公に愛された格好いい男子君にしてみたら、どうしていいのかわからない。戸惑いながら、周囲の視線を気にしながら、とりあえず冷たい態度で拒絶する。自分のことをこんなにまで愛してくれるなんて・・・実は内心では嬉しいのかもしれないが、皆の前ではそんな素振りを見せるわけには行かない。それをしたら「男がすたる」と思ってしまう人なのだろう。

 だけど、こんな素敵な場面もあった。
 ある日。美術の授業中に絵を描きながら、主人公は居眠りをしてしまう。格好いい男子君としては、いつも浴びせられる「熱い視線」が途切れていることを不審に思い、主人公を視線で探す。そして机でスヤスヤと寝息を立てている主人公を発見する。その時。格好いい男子君が主人公を見つめる表情が、最高に素敵なのだ。優しく柔らかく愛らしさに溢れた澄み切った視線で、眠る主人公を虚心に見つめる男子君の、普段は出せない「純」で「素直」な部分。相手に面と向かっては表現出来ないやさしく素直な心も、寝顔に対してだったら表現できるのだ。

 こうした素敵な表情を捉えることが出来るのはまさに映画ならではの技。主演の2人の、生き生きとした素敵な表情が20分の中にたくさん凝縮して詰まっている、とっても魅力的で可愛らしい短編ゲイ映画に万歳!

 「悩まぬゲイ」を明るく描くのって、実はとっても政治的かつ能動的なメッセージなのかもしれないね。FC2 同性愛Blog Ranking



「ダンシング・ボーイ」
(DANCING BOY)
2006/video/20min
監督:ぺ・ジヨン(BAE Ji-Yeong)
配給:韓国芸術綜合学校

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ダンカン・タッカー「トランスアメリカ」●MOVIEレビュー

 「人工的」

 やっと日本公開された「トランスアメリカ」を観てから数日経った今。この映画を思い返した時にまず浮かぶのは主人公ブリーのキャラクターの特異性。「かわいい」とも言えるけれど、むしろその「女性性の濃さ」がグロテスクにも感じられる奇妙な存在感が気になってしょうがない。

 背筋を常にピンと伸ばし、清楚で清潔感あふれる実直な振る舞いを心がけ、意識的に「模範的な女性」としての身体感覚を意識し続ける彼女。堅苦しいまでに誠実に「女性」であろうとする彼女の振る舞いは、どこか「人口的」であるために可愛らしくも滑稽にも思えるのだ。 常に意識が張っている危うさと儚さを感じさせる存在の仕方。すごく疲れるのではないだろうか。

 この印象は、生前の三島由紀夫が登場する映像を見た時に彼を見て感じる「意識的に誇張された男らしさ」とか過剰なエネルギーのもたらす「コテコテ感」と似ている。

 三島の場合は幼少時、祖母に囲われて女性的に育てられたため、学校に通う年齢になってから自分の異質性に気が付き、通学の車内で見かける男子を観察しては必死に「男らしさ」を研究して身に付けたそうだ。内面は女性として育ったのに、そんな自分を嫌って日常生活では「女性性」を必死で殺し、文学作品の中で発散した。そして社会的には過剰なまでに「男」であることを意識し続け、肉体的にも精神的にも必死で「男性性」を追求した生涯だったと言えるだろう。

 「トランスアメリカ」の主人公ブリーは三島とは違って、肉体のあり方を内面(女性性)に合わせて行くことを選んだ。しかし本人が意識的にジェンダーを選び取っているという点では三島と同じ。したがって濃度の濃い「女性らしさ」を全身から過剰なまでに醸し出している人物として造形されている。男性から女性へのトランスジェンダー(MtF Transgender)の人が皆そうであるわけではないようだし、それぞれ個人差はあるようだ。ブリーほど極端に「女性性」を追及する人ばかりではない。すなわちこの映画では、いわば「典型例」として、わかりやすく演じられているということは言えるだろう。

 「嘘」

 生まれつきの性別に「違和」を感じ、性転換手術をしようとしていたブリー。その矢先に、かつて自分が男として付き合っていた女性との間に出来た「息子」と再会することになる。息子の生活のあまりにも荒廃した様子を見て放ってはおけなくなったブリーは、自分が父親であることを隠しながら、性転換手術の地へ向かって息子と二人でアメリカ横断の旅を続ける。

 この映画の一つのポイントは、「嘘」という行為(概念)なのかもしれない。ブリーは自分が男の身体で生まれたことを「嘘」だと感じ、女性の身体を自分にとっての「真」だと感じて手に入れようと手術までする。すなわち彼にとって「男」とは「嘘」と同義。だから、かつて自分が「男性として」女性と愛し合った過去も「嘘」だから葬り去りたい。無かったことにしたいのだ。したがって息子にも、自分が本当は父であるということを告げない。

 しかし息子はまだ若い。真っ正直に生きている。年齢を重ねた人間に特有の「嘘」との折り合いの付け方を知らない息子と、「嘘」を抱えたままの父親の関係がスリリング。いつ息子に「嘘」がバレるのか。いつかバレるに違いない。そんな危うさが、この映画の物語を引っ張る強力な「サスペンス」になっている。

 「真」

 ブリーは家族と再会し、トランスジェンダーとして生きている「真」の自分の姿を初披露する。父・母・妹はそれぞれに衝撃を受け、ブリーに対して無神経な言動を浴びせる。しかしブリーはそういう種類の無神経さには傷つき慣れているようだ。「女であること」には誇りを持ち、何を言われても動じない強さを身に付けている彼女。アメリカの典型的な保守思想の権化のような堅物の母親との対決も、ブリーを本質的には揺さぶらない。そんなことは覚悟の上だから。

 しかし、そんな彼女を唯一、根底から揺さぶったものがある。それはやはり、息子の「まっすぐな」真の心だった。なんと息子は目の前のブリーが実の父親だということに気づかずに、恋心を抱いてしまうのだ。

 息子から色っぽく告白され、ベッドに誘われた時。ブリーは自分の「嘘」から逃げていたことを知る。
 過去を捨て去ることは出来ない。男の身体で生まれ、そのことで苦しんだという過去を「無かったこと」にすることなど、出来ないことなのだ。

 「綺麗」

 捨て去ろうとしていたものを受け入れることが出来たとき。それまで肩を怒らせて虚勢を張っていたブリーの「何か」が変わりはじめた。分厚く塗りたくっていた化粧が剥がれ落ち、人工的ではなく真に安らいだ笑顔を、はじめて浮かべることが出来たように感じた。それは美しい笑顔だった。主演のフェリシティ・ハフマンを僕はその時はじめて「綺麗だ」と感じた。

 人というのは、無駄な自意識に捉われているうちは、真の笑顔で笑うことなど出来ないものなのかもしれない。FC2 同性愛Blog Ranking

ニール・ジョーダン「プルートで朝食を」●MOVIEレビュー

 「ほんの少し」どころではない試練

 彼はすごい。本当にすごい。人を疑わない。まっすぐなまなざしで親しげに他者に微笑みかけ、打算も下心も全くない。・・・ところでこんな人、本当にいるの?

 ニール・ジョーダン監督が最新作『プルートで朝食を』で描き出したトランスジェンダーの主人公キトゥンは、まるで「天使」なのではないかと疑いたくなるほどに清らかな精神の持ち主として描かれている。

 ちなみに、この映画の日本公開時のキャッチコピーは「神様は彼に、ほんの少しだけ試練を与えた」なのだが・・・と~んでもない(笑)。実際には「ほんの少し」どころではない数々の過酷な試練が次から次へと襲いかかり、常人ならば気が狂って廃人になってしまうだろうと呆気にとられるほどである。

 そう。
 つまり監督は主人公を「常人」としては描かなかったのだ。まるでファンタジーに出てくるような「聖人」として、意図的に主人公を「美化」して描ききったのだ。途中からそのことに気付き、なぜわざわざ「ファンタジー」として映画全体をコーティングしたのか、監督の意図を汲み取ってみようとは思ったものの・・・残念ながら、伝わらなかった。映画的表現として、成功しているようには感じられなかった。

 やろうとしたコンセプトの意味は「頭では」理解できる。しかし実際に提示された映画からは、なんの感慨も湧いて来ない。コンセプトが空回りして「机上の空論」に終始してしまったという感じ。その原因はきっと、映画の中にあまりにも多くの要素を詰め込みすぎて散漫になり、芝居の「見せ場」を作れなかったからなのではないかと思う。名画の条件とは「印象に残る強力な場面」を作れるかどうかだと思うのだが、この映画には残念ながら、それがない。

 神父の強姦から生まれた彼

 たしかに主人公の人生は数奇なものであり、描くべきことはたくさんある。まずは生まれ方自体が悲劇的だ。

 キリスト教における神父というのは、女人と交わりを持ってはならない。しかし人間なんだからその禁忌を犯すことだってある。ごく真面目な神父が出来心で美しい家政婦を犯したことから生まれた主人公。しかし家政婦は出産後、神父の家の玄関先に主人公を捨てたまま、大都会ロンドンへと旅立ってしまう。

 自分に子どもがあることを知られてはならない神父は、主人公を近所のおばさんに預けて育ててもらう。つまり主人公は「自分の親を知らずに」育ったのだ。

 物心がつくにつれ、まだ見ぬ母に強烈な憧れを抱くようになった主人公。やがて自分の美しさに気付いて女装に興味を持ちはじめ、内面が「女っぽい」自分にも気付いて行く。そのことが原因で周囲との軋轢が生まれるようになってからは、自分の出自についての「空想」や「妄想」を抱くことで現実の辛さから逃避するようになる。

 主人公の周りには同じように、一般社会には馴染めない「はみだし者」たちが集り、刺激的でエキサイティングな出会いと別れを繰り返す。ロック・バンドのヴォーカリストと恋に落ちたり、彼がIRAの活動家であることから事件に巻き込まれたり。挙句の果てにはテロリストの容疑を掛けられ警察に収監されたりもする主人公。
 しかし主人公はどんな状況においても人を疑わず、与えられた境遇を素直に受け入れる。たまに「妄想」に現実逃避しながらも結構うまくやって行く。やがて父親である神父とは邂逅し、実の母親を探し出し再会すべく訪ねて行く彼。しかしその名場面すらも描写はあっさり。

 芝居が散漫。要素詰め込みすぎ

 この映画は結局のところ「主人公の半生記」を描き出すことに振り回され、肝心の「主人公の内面」が見えにくくなっている。主人公の「美しさ」で説得力を持たせるにしても、この主演俳優がそれほど「絶世のオーラを放った美男/美女」であるとも思えない。彼の演技力の限界も、この映画をよそよそしいものにしてしまっている要因だ。彼が役柄を肉体化できているようには思えなかった。

 「キャンディード」を理論として見せられても・・・

 監督が映画を「ファンタジー」としてコーティングした理由を述べた発言が、パンフレットに書いてあった。

 「これほどまでに攻撃的な世の中で自分らしさを保ちながら生き抜いていくにはどうすればいいのだろう?本作を撮るにあたって私はその点をおとぎ話風に描いてみたいと思いました。主人公であるパトリックが自分の置かれた状況から創造していく物語の世界です。パトリック・マッケーブと脚本を推敲していく過程で、常に私の脳裏にあったのはキャンディードでした。世界を美しい場所として捉えることを非常識なまでに強要する中で、パトリックは全てを失っても決して自分自身を見失うことはないのです。」

 ちなみに「キャンディード」とは、フランスの哲学者ヴォルテール原作のミュージカルのことであり、岩波文庫の解説では、次のように説明されています。

「人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは…。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の過酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694‐1778)の代表作。」

ヴォルテール「カンディード 他五篇」(岩波文庫)

水林 章「『カンディード』<戦争>を前にした青年」

 
 たしかに、ヴォルテールのこの哲学的思索は素晴らしいものかもしれないが、それは逆説的に、「聖人でなければこんな世の中生きていけるわけがない」という悲観論でもあるわけで。

 こうした非現実的な人物に現実味を持たせるには、文学や演劇のように観客の想像力で登場人物を造形できる表現様式だったら成立するのかもしれない。しかしこの種の「物語映画」というものは、演じる俳優の肉体の現実性がリアリティーを持ってスクリーンに映し出される。それ自体がものすごく現実的であるにもかかわらず、その主人公の内面に対しての現実感を持てないのならば、観客としては「あの人はいったい何?」と呆気にとられるしかなくなってしまう。最新の映像技術を駆使して主人公の姿が非常にリアルに即物的に映し出されている分、その内面が非現実的であることが逆に際立ってしまうのだ。

 モノクロ映画やアニメ、あるいは実験的なスタイルを選択して「物語映画」であることを拒否すれば、よりリアリティーのある形で「カンディード」の思想が表現出来たのかもしれない。すなわちこの映画はコンセプトに縛られたまま、興行的なバランスを取ることも要求されたためにどっちつかずに終わってしまったのではなかろうか。

 劇中に当時のポップ・ミュージックがたくさん挿入され映画を盛り立ててはいるけれど、そういう安易な方法でスタイリッシュな「気分」を作ることに逃げないで欲しかった。充実した「芝居」の名場面が一つでも撮れていれば、そんな小細工などする必要はなかったはずなのだから。

 どうやら原作小説の主人公は、映画とは違ってもっと生々しく「怒りっぽく」「受身」の人物として造形されていたらしい。しかし映画化にあたって「優しくおもいやりのあるキャラクター」に変えられた。さらに父親である神父のキャラクターも、より善良なものに改変され、物語全体もハッピーエンドに変更された。 (パンフレットの情報より)

 二ール・ジョーダンが映画化にあたって切り捨てた部分にこそ、もしかしたら主人公の人間としての「まっとうな部分」が含まれていたのかもしれない。この改変がもし「興行的な計算」によって行われたのだとしたら、結果としては裏目に出てしまったのではないかと思う。原作をぜひ読んでみたいのだが日本語訳での出版はされていないようなのが残念だ。

Patrick McCabe 「Breakfast on Pluto」

 人は、他者の中に自分と共通する「汚い部分」や「情けない部分」「醜い部分」を発見したときに、より人間的な親しみを持つものだと思う。この映画が描き出した「聖人」に共感する感性が僕にはない。そして、ここまで世の中のことを突き放して捉えたくはない。そのことだけは確認できた映画だった。

「プルートで朝食を」 
(Breakfast on Pluto)
2005年 イギリス
監督:二ール・ジョーダン
出演:キリアン・マーフィー ほか
公式サイト
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