『東電テレビ会議49時間の記録』(福島映像祭にて/ポレポレ東中野)

会話の端々で「ピー音」が入ったり、不自然に画面が時々暗転したりと、そもそも公開された映像が断片的だったということが再確認できたとともに、それでも伝わってくるのは、状況が悪化するにつれて指令者たちの疲労が募り、ろくに寝ることも出来ない極度に緊迫した状況に置かれた悲惨さだった。
その後の成り行きを全て知ってる現在の視点からすると、不謹慎ながらもユーモラスに感じられる場面もあり、場内では何度も笑い声が起きた。下手な創作喜劇よりも喜劇的。でも、喜劇というのは登場人物が悲劇的状況にあるからこそ喜劇になる。昔演劇をやってた時に演出家が言ってた言葉を思い出した。
福島第一原発の吉田所長が緊迫場面が続く中で「それでは落ち着くために、みなさん深呼吸をしましょう。ハイ、吸って~ぇ、吐いて~ぇ」と号令をかける音声とか、「ジジイで決死隊を作るか」と言った直後に東電本部が「ん?なにで決死隊を作るって?」と聞き返したり。喜劇に思えるくらいにシュール。
また、3月12日の1号機水素爆発の日の夜、福島第一原発の職員たちの被曝線量が限度を超えないように「帰宅させた方がいいのでは」と他から問いかけられたとき、第一原発側は「いや、既に20㎞に避難指示が出てるから帰れる場所が無い」と即答。そうしたふとした会話で場内では笑いが起きた。
映像は前半と後半1時間40分ずつにまとめられており、福島第一、第二、東電本部、柏崎刈羽、オフサイトセンターの5つの指令室の映像をずっと見続けることになるが、誰がしゃべっているか色で明示したり、専門用語の説明が入ったり、時間経過を示す画面で緩急が付けられ、飽きずに見ていられた。
各司令部が疲労で冷静な思考能力も奪われてるのではないかと思う映像の密度が増したところで、開示された映像の上映は終了する。そして気づく。実は、本当の深刻な放射能汚染は、開示された映像の「後」の時間に2号機から放出されたものであるらしいことに。本当に知りたい部分は観れてないことに。
つまり観終わった後からが本番なのだ。開示され、観ることが出来た場面だけでも絶望的な「破局の予感」が漂う場面が続いていたのである。その後は違ったレベルの混乱が生じたのだろう。だから開示されてないのだろう。そういった意味で、観終わった「後の場面」への想像力を強く喚起させられた。
まだ開示されてない場面にこそ、多くの人に避難を強い続け、食品や海洋汚染、地球環境の破壊をもたらした高濃度の放射能汚染をもたらすことになる「瞬間」が記録されている。恐らく正視に耐えないことになってるに違いない。でも、開示されるべきだ。二度と同じ轍を踏まぬよう目撃し、記憶すべきだ。
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大島渚『愛と希望の街』●MOVIEレビュー

『愛と希望の街』・・・ってタイトルだけだと、どんだけ崇高で清く正しく美しい映画かと思ってしまうが、これは大島渚の監督デビュー作。まったく真逆のショックを受けるだろう映画である。フィルムセンターで開催中の特集上映に行ってきた。
本当は『鳩を売る少年』というタイトルで発表したかったらしいのだが、1959年といえば国を挙げての「皇太子ご成婚パレード」が賑々しく行われるなど、戦後復興を「清く正しく美しく」テレビを通じて全国民に喧伝すべく国策が発動していた頃。「鳩」と言えば平和の象徴であり、神聖にして犯すべからずなのである。戦後的なイデオロギーが色濃かった時代であり、松竹映画においては刺激的なタイトルでのロードショー公開は敬遠されたらしい。そして、内容とは全く裏腹な、こんな陳腐なタイトルが付けられることになった。
でも、それがかえって「愛も希望も本当にあるの??」と呆然自失してしまいたくなるような、貧富の差が歴然と開いた格差社会を鋭く抉った作品の内容を際立たせており、つまりダブルミーニングになっているわけだから結果的には成功だったのかも。「愛」だの「希望」だのという言葉が、とても空疎で薄っぺらく安直な響きを帯びて感じられるのだ、この映画を観てしまったら。
それにしても、50年前の映画なのに、なんて「現在性」を帯びた作品なのだろう。人の世の根本的な構造は、何一つ変わっていないのではないかと慄然としてしまう。
持たざる者や、声の小さい者にも人としての尊厳はある。いくら生活に困っているからといって、そう易々と他人に助けを乞うたり金をせびることは、プライドが許さない。それは当たり前の感情だろう。ホームレスや貧困問題の根本には、そうした「人としての尊厳」の感情が密接に関係している。
しかし。
「持てる者、声の大きい者」たちには、その気持ちがわからない。強者の論理で、「困っているなら素直に助けを求めればいいじゃないの」と責め立てる。問題は、そこで「素直になれない」気持ちこそが人間を人間たらしめている根源的な感情だったりするわけなのに、鈍感な輩には想像も付かないところにあるのではなかろうか。つまり、そこには乗り越えがたい差別意識があるわけなのだ。
昨今の「勝ち組」「負け組」だの、勝間和代VS香山リカ論争だのといったものの背景にあるものが、見事に象徴されている鋭い緊迫感に溢れた62分の映像だった。

★『愛と希望の街』 [DVD]
(62分・35mm・白黒)
「鳩を売る少年」の題で書かれたシナリオを、当時新人だった大島渚が監督・脚本を手掛けて映画化。ある小都市の駅前。お金のために鳩を売る少年に出会った令嬢・京子は、同情から鳩を購入する。しかし、それは少年による巧みな罠だった。階級の断絶を象徴する有名なラスト・シーンとともに、旧来の「松竹大船調」の枠組みを踏み越えた記念碑的作品。→FC2 同性愛 Blog Ranking
滝田洋二郎「おくりびと」●MOVIEレビュー

「絶対に勝つ映画を作りたかった」という橋口亮輔監督の涙の理由を知りたかったからというだけではないけれど。映画の日ならば安く見れるからいっか、ということで4月1日に旧新宿コマ劇場横の映画館で観た。
これだけ注目を集めた映画なわけだから一般常識としても抑えておかなくちゃと「理由付け」をして自分を納得させなければ、自分から積極的には観に行かなかっただろうタイプの映画なのだが。
松竹系シネコン「新宿ピカデリー」で観るという手もあったのだが、どうもあの、「どこで観ても一緒」的な感覚しか残らないシネコンというシステムの、無個性・無菌化された空間というのが好きではない。やはり映画館にも独自の個性とか「その場所ならではの味わい」というものが、ちゃんとあって欲しいのだ。
その点、歌舞伎町界隈に林立している、ちょっと薄汚れた映画館群は、程よく場末感や「昭和の香り」を漂わせたままで、人間臭さが感じられるので好きだ。この界隈で見ると不思議と、映画の濃度も高められて感じられたりする。

年齢は高め。しかも、上映中にビニール袋の音をシャカシャカと立てて堂々と物を食いながら観ているような、「普段はあんまり映画館には足を運ばないタイプの人たち」が多かったようで、客席ではずっと何かしらの音がし続けていて騒がしかった。まぁ、それも映画館で映画を観る醍醐味の1つ(?)ではあるので、嫌いではないのだが。
映画は・・・これが本当にアカデミー賞?と首を傾げたくなるような出来だった。物語としては、世間で嫌となるほど語られているとおり「死」というものを見つめ返すことができるという意味では面白い内容ではあるのだが、いかんせん演出が乱雑に感じられる場面が多々ありすぎる。特に、役者の演技のスタイルがあざとくて、クドい。つまり心情的な内実が伴わずに、テキトーに表情を大げさに作って演じている瞬間が多すぎるのだ。演出の方針としては、「ファンタジー風味」の味付けを全体的に醸し出したかったのだろうが、肝心の場面ではことごとく、それが裏目に出てしまっていた。高度な要求を役者が総じて咀嚼しきれていないのだ。
こんな幼稚な演技の有様で、よくもまあ「主演○○賞」だの「助演○○賞」だのというものが取れたもんだよなぁと、日本の映画界も腐敗しきったものよと、橋口監督の心情が痛いほど理解できてしまった。(橋口氏の意見に影響を受けずとも、僕はそう思ったことだろう。)

映画の冒頭では主人公が「納棺師」としての初めての仕事をする場面が出てくるのだが、そこの演出には大きな疑問符を付けておきたい。
棺の傍で横たわり、家族に見守られながら納棺の儀を迎えようとしている死者は、練炭自殺をしたようなので、死体は綺麗なままだった。一見、「きれいな女性」に見えるのだが。
主人公の本木雅弘が儀式を執り行いながら、死者の衣服を着換えさせている際に、下半身に触れて「・・・ん?」と顔を歪めてみせる。そして、大げさな表情を作ったまま、上司役の山崎努に「・・・付いてるんですけど」と耳打ちする。要するに、女性だと思われていた死者は、MtFトランスジェンダーだったのだ。
ここまでだったらまぁ、テレビで「ニューハーフタレント」がブームになっているこの御時勢、性を自在に越境する人々の存在が一般に広く認知されつつある世相を入れたかったのだろうと納得もできるが、僕が腹立たしかったのが、その後に画面いっぱいに大写しにされた、山崎努のクローズアップ。「気持ち悪くおぞましいもの」を見て、驚いているかのような表情を、かなり大げさにしているのだ。遺族の前で、そりゃないだろう。その場のリアリティから完全に逸脱している、単なる「観客への感情の説明」でしかない、幼稚な演技と映像表現。ここで一気に興醒めした。
この演出は要するに、「ここは笑うべき場面ですよ」という指示が、スクリーンから観客に投げかけられているということなのだ。そして素直な観客たちは、ここで笑うことになる。この日、僕が観た回の観客の多くは、監督の狙い通り、ここで笑っていた。
「…クッ。」「ククッ。」という音で発せられたその笑いは、僕には「嘲笑」であるかのように感じられた。これはつまり「セクシュアル・マイノリティ」に関する嘲笑でもあるわけで、正直、腹立たしかった。
物語の中盤でこのエピソードの続きが描かれ、理論的には「フォロー」されるのだが、役者に、このあざとい表情をさせた演出の罪を拭い去るものでは全くない。僕の心に「トラウマ」のように突き刺さった、あの表情は脳裏から消え失せてはいない。もし、セクマイも観客として観るだろうという想定がなされていれば、このように「観客に嘲笑させる場面」を演出できただろうか?物語に観客を早々に引き込むための仕掛けとして、安易に「セクマイ・インパクト」を利用しないでもらいたい。

ましてやこの場面の場合、遺族(家族)が見守る厳粛な儀式の最中であるにも関わらず。あんな表情をあからさまに見せてしまう、このベテラン納棺師(山崎努)のどこが「プロ」なんだ?。
この場面に象徴されているように、単純であからさまで押し付けがましく説明過多な演技と演出スタイルは、130分も続く映画の上映時間中、ほぼ全篇にわたって貫かれていた。かくして僕は途中から、まるで幼稚園児になったかのような気持ちで、「すべてわかりやすく説明され続ける単純な表現」に付き合わされることになったのだ。
なるほど。たしかにこの種の表現方法は、いわゆる「ハリウッド映画的」なものではある。そういう意味で、アカデミー賞の受賞に関しては(負の意味で)納得した。ただし、これを「日本映画の良心」だとか安易に言いあらわす物言いには、断固反対する。これって、一見「日本映画」の意匠をまとってはいるものの、演出スタイルにおいては完全なる(悪い意味での)「ハリウッド映画」ではないのか?

AERAの取材で「絶対に勝つ映画を作りたかった」と、むせび泣いた橋口監督がなにに勝ちたかったのか。その答えが出た。もちろん、こんな幼稚な映像表現に満ちた『おくりびと』に勝ちたかったのだろう。
観客の「能動的な想像力」を信用しないような映画は、制作者たちの自己満足だ。130分もの間、自分が人間扱いされているようには到底思えない時間を味合わされてしまった。1000円「も」払ってしまったことを後悔した。→FC2 同性愛 Blog Ranking
橋口亮輔「ぐるりのこと。」●MOVIEレビュー

一度、まっさかさまに地の底まで落ち、人の世の闇や業を全て知り尽くし、疲れ果てたけれど、なおもあきらめず、ゆっくりと目の前にある雑草をつかみながら、一陣の光を目指して這い上がって蘇生したかのような。そんな映画体験だった。
→公式サイト
とにかく細かい。登場人物の交わす会話、交錯し合う視線、ちょっとした仕草。その全てが、網の目のように関連し合って進行する。繊細すぎるほど徹底して計算し尽くされた脚本と演出。
顔は笑っていても、心は泣いている登場人物たち。反対に、顔は泣いていても、心は笑っていたりもする。そんな矛盾した人間存在の複雑さを描きながらも、エンターテインメントとしての吸引力は失わず、娯楽作品として成立している。その絶妙なバランス感覚は驚異的だ。
●YouTubeより~「ぐるりのこと。」予告編
主人公の男(リリーフランキー)のボーっとした佇まいと対照的な、妻(木村多江)の完璧主義で神経質な性格。互いに「自分には足りない部分」に惹かれ合って一緒になったけれど、ありがちなラブストーリーのセオリーどおりに2人の日常は進まない。
完璧主義はいつか破綻する。そして妻の鬱病が、映画に大きな影を落とす。
影?

そしていつの間にか、希望は「創り出す過程そのものなんだ」と気付いて行く。
人間とは、かくも逞しいものなのだと信じたい。そんな切実な思いがスクリーンから溢れ出していた。
この映画を楽しめる年齢になるまで、生きてきたことが嬉しくなった。→FC2 同性愛Blog Ranking
岩井俊二「市川崑物語」●MOVIEレビュー

すでに90歳を越えながらも現役でバリバリと新作を発表している市川崑監督。数々の作品が映画史上の伝説となっているのにも関わらず、新たな伝説が生み出され続けているというのが驚異的。この映画では、市川監督よりも半世紀分(!)年下の岩井俊二監督が、尊敬の気持ちを何の衒いもなく真っ正直に表現した文字通りの「リスペクト映画」そのものである。昨年末に新宿3丁目に開館した新宿ガーデンシネマのオープニング記念作品として現在上映中。
●市川崑物語」公式サイト
このように現役の人物を描く場合、「本人のインタビュー」を中心に構成するのがドキュメンタリー映画としての定番だろう。しかし岩井監督はそこに独自のこだわりを貫いた。なんと、取材をしておきながらも市川監督の喋る映像を全く使わず、過去の回想場面を字幕テロップと写真と、アーカイブ映像のみで構成したのである。
もしも定番どおりに市川監督本人が語る映像を使用した場合、観客の印象は「90歳の現役監督」が「今も元気にカメラの前で語っている姿」のインパクトの強さに引っ張られてしまい、語られている内容に関心が向かいにくくなってしまう恐れがある。そこを巧妙に避けたかったのだろう。ナレーターを使わず、言葉はすべて黒味の中に浮かび上がる字幕のみ。インタビュー取材したであろう市川監督の「思い出語り」も全て字幕で語るという、徹底して禁欲的なスタイルを貫いた。
その結果、市川監督の若いときのエピソードの時には、僕も「当時の若者のような軽やかな気持ちで」タイムスリップしたような感覚で見ることが出来た。もしも「90歳のおじいさん」の顔と声で若い時の話を語っていたとしたら、このような効果をもたらすことは難しかったことだろう。

「客観性を装ったインタビュー映画」の中に、映画の作り手の「主観」を明示することはなかなか難しいものである。しかしこのスタイルならば、すべての言葉が「文字情報」として等価なものとなるため、市川監督の発言に対して岩井監督が「対等な立場からツッコミを入れる」ことも可能になる。実際に、岩井監督は何度も市川監督に対して「字幕の中で」突っ込んでいる。そこがこの映画独自の文法として異彩を放ち、魅力ともなっているのだ。しかもその言葉は選びぬかれた端的なものであり、観客としては想像力の翼を羽ばたかせることが出来る。映画では言葉が少ない方が、実は観客の介入する余地が広がるのである。
女性に囲まれて育った監督と、理論家のパートナーとの絶妙な関係
映画の前半では「若き映画監督の市川崑」と「伴侶であり脚本家の和田夏十(なっと)」という、日本映画史上の伝説のパートナーの恋物語や仕事に打ち込む日々の様子が、研ぎ澄まされた繊細な表現で説明されて行く。

しかし60年代になると娯楽メディアの中心は映画からテレビへと移行し、市川監督と言えども従来のように作品を量産できる立場ではなくなってしまった。この時代の映画監督は皆、苦境に立たされたのだ。その流れの中で市川監督が1965年に記録映画『東京オリンピック』を手掛けたことを機に、和田夏十さんとの「映画監督」「脚本家」としてのパートナーシップは終焉を迎えてしまう。
その後、市川監督にとっては長い「迷走期」がやってくる。テレビで時代劇を手がけたり、高校野球の記録映画を手掛けたり。いわゆる「食うための仕事」に時間を割かれてしまうのだ。やがて、角川春樹事務所とのコラボレーションで金田一春彦シリーズがヒットして映画界の第一線に返り咲くのだが、表現者として苦しい時代があったことは否めない。その同じ時期、脚本家としての第一線を退いた和田夏十さんは、ガンに侵されていた。83年に死去。
とかく「男っぽい女」であると言われることの多かった和田夏十さんと、「女っぽい感性」を持つと言われることの多い市川崑さんとの関係は、この時代の社会における「ジェンダーのあり方」を見つめ直す視点から語ってみても面白いのかもしれない。

この二人を中心に描いた前半部分では禁欲的に挿入されていただけの「当時の映像」は、後半になると解禁されたかのように怒涛の波状攻撃となって観客に迫り来る。この60年間、市川崑監督が生み出してきた豪華絢爛な映画絵巻の膨大さと幅広さには舌を巻く。
市川監督はジャンルを越境し、失敗作も含め、ありとあらゆるタイプの作品を生み出してきた。特に、女優を美しく撮ることにかけては定評があり、美しさの裏に滲み出てくる人間本来の哀しみや毒気を、嫌味なく丁寧に映像として定着させられるセンスは独特の凄みがある。真の美しさとは「清濁併せ呑んだ人間」から発せられるものなんだということを、理屈を越えた部分で感じさせてくれるのだ。
「理詰めで計算し尽くされていて啓蒙的で強圧的な映画」ほど詰まらないものはない。どこかしら隙間があって「ふわふわしたところ」にこそ、映画的な豊かさが宿っていたりするものだ。そんな独特の持ち味は、どうやら市川監督本人のキャラクターとも通じるものであるようだ。岩井監督はそこに最も惹かれたようであり、市川監督の日常的で些細な「ちょっと笑えるエピソード」に絡ませながら、お茶目な人柄を紹介している。
今回の映画制作で大監督と向き合うことになった岩井俊二監督は、自分が感じた「つかみ所の無さ」を正直に映像として定着させることに集中したようだ。だから、この映画も全体的に「ふわふわ」していて「つかみ所」がない。きっと、「どうつかんだらいいのか」がわからなかったんだと思う。そんな岩井監督の格闘ぶりが伝わってくる映画だった。
そもそも人の生涯なんて、そう簡単に「つかんで」単純化できるものではない。しかし、あたかも「つかんだ」気持ちにさせる強引で浅はかな表現に終始する「似非映画」の、なんと溢れ返っていることか。「わからない」ものを「わからない」と提示することも、一つの勇気なのである。
●市川崑監督のDVD化作品その他一覧
●岩井俊二監督のDVD化作品その他一覧
僕が観たことのある「めくるめく市川崑監督作品」を思い出してみた。

●「炎上」
●「野火」
●「おとうと」

●「東京オリンピック」
●「犬神家の一族 」
●「悪魔の手毬唄」

●「ビルマの竪琴」
●「どら平太」
「観なくちゃ」 と思いつつ先延ばしにしている市川崑監督作品

●「穴」
●「雪之丞変化」
●「古都」

●「天河伝説殺人事件」
●「かあちゃん」
直井里予「Yesterday Today Tomorrow ~昨日 今日 そして明日へ・・・」●MOVIEレビュー

この映画の登場人物たちは「HIV感染者」である。
「HIV感染者」
・・・この言葉に接したとき多くの人は、ただそれだけで「自分との距離」を感じやすい。旧来の固定観念やメディアから与えられただけのイメージに当てはめ容易に「差別」し、彼らを「一人の人」として想像しなくなったりする。
こうした他者への想像力の貧困・正しい知識に基づく思考能力の欠如は、やがて人と人との間に壁を作る。これまで数多くの悲劇を人類にもたらしてきた原因は、その壁だ。為政者たちは僕らがいつの間にか設けてしまう壁の機能に付けこみ、言葉を巧みに操り相互不信を煽ることで数々の争いを扇動したりもしてきた。映画も、その歴史においてプロパガンダの「道具」として積極的に利用され、争いを煽ってきた苦い歴史がある。そして今でも・・・多くの映画が、そんな「道具」の一つに堕してしまっていると言っていい。
しかしこの映画は違う。真の「映画の魅力」に満ちている。「言葉」では到達出来ない、映像ならではの豊かな魅力で溢れている。その違いはなんなのか。
生きるのが上手な人たち

その男女はタイに住むHIV感染者。免疫力が低下し薬を飲み続けながらの生活なのだが、この映画ではそうした側面をことさらに強調することはない。彼らが明るく過ごす日常に寄り添いながら、一刻一刻を一緒に感じ、生活の実感を丁寧に静かに切り取って行く。
畑で農作業に精を出したり、魚や蛙を売って歩いたり。木の実を取って食べたり。生業の中にある文化の深みに敬意を示しながら、日本人である女性監督は撮影を通して彼らと親交を深めて行く。彼らの暮らしを見つめる透明な眼差しは、どこまでも素直だ。素直に見つめるからこそ、何でもない瞬間の中に潜む、たおやかな生の輝きをそのままに、映像表現として昇華することが出来たのだ。
互いへの思いやり。決して争わずに調和する精神。
彼らは「生きる」ということの本当の楽しみ方を知っているかのようだ。タイの田舎町独特のゆるやかな時間の流れ。生きていることの悦びをゆったりと感じている彼らの日常は、ただそれだけで「詩」なのである。
力強く告発するよりも。観客を安っぽい言葉で啓蒙するよりも。
もっと深い部分で共振し共鳴できる映画のあり方。
押し付けない表現。
押し付けないということの「本当の強さ」。

「 Yesterday Today Tomorrow ~昨日 今日 そして明日へ・・・」
(日本・タイ/2005/90分/カラー)
監督・撮影・編集:直井里予
製作:アジアプレス・インターナショナル
主催:シネマトリックス
●公式サイト
● 「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー山形in東京2006」にて上映。
(すでに、この作品の上映は終了)
→質疑応答での監督の発言はこちら。
●自主上映会申し込み受付中。
→FC2 同性愛Blog Ranking
NEWS!大阪で9/29に上映あり。
◆大阪 吹田市勤労者会館
吹田市昭和町12-1 TEL:06-6382-9121
入場料金:500円(一般可・申込不要)
【上映日程】
9/29 (金) 1回目 14:00-15:30(監督トーク 15:40-16:10)
2回目 19:00-20:30(監督トーク 18:30-19:00)
【主催/お問い合わせ先】
記録映画「昨 日今日そして明日へ…」上映実行委員会
(代表 尾浦芙久子)E-mail:fukukooura@sutv.zaq.ne.jp
加藤治代「チーズとうじ虫」●MOVIEレビュー

冷徹に見つめる「日常」の輝き
デジタルビデオカメラで撮られた「ホーム・ムービー」的な映像から、こんなにも豊かな映画が登場するようになったことが本当に嬉しい。しかも、どこにでもありふれた「日常生活」を、気負わずに優しく映し続けることによって、こんなにも奇跡的な「深み」を持った作品が誕生したのだ。
昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では小川伸介賞と国際映画批評家連盟賞をダブル受賞。ナント三大陸映画祭ドキュメンタリー部門では最高賞を受賞するなど、国際的にも高く評価されたこの映画。「小さなこと」を真摯に、あたりまえの視線で見つめた作品が、多くの人々の心に染み入る普遍的な価値を持ったというその事実。
まだまだ世界は捨てたもんじゃない。
映画はまだまだ進化と深化の途上にあるのだ。

母親がガンを告知された。
東京暮らしを中断し、群馬県の実家に帰り母と祖母との「女三人」での生活をはじめた加藤さん。やがて「母の姿を少しでも映像に残しておきたい」という思いでカメラを購入し、なんとなく撮影をはじめた。
突然ぶしつけに日常をビデオで撮りはじめた娘に対し、最初は戸惑う母。ビクビクしながらも、あくまでも「撮れる時に」撮影を繰り返す娘。娘のそんな気持ちがやがて通じて行く中で、母は娘のカメラを優しく受け入れる。そして娘も撮影しながら母と対話を楽しめるようになる。そんな関係の変化が画面の隅々から滲み出ているところが面白い。そしてなにより、すべての瞬間に「撮りたくて撮った」という加藤さんの衝動が詰まっているから映像が澄んでいる。すなわち、この映画の全ては純粋な瞬間の集積なのだ。

病状が進み入退院を繰り返す母。娘は病室にもカメラを持って入るが、母が苦しんでいる姿は描かれない。そんな瞬間には、家族としては「撮影どころではない」からだ。従来の映画界的常識からしたらそれは「大事な場面を撮り逃した臆病者っ!」と糾弾されかねない行為なのだが、この映画はあくまでも常識的な「生活者」としての感覚の中で撮影されている。映画に命を賭けるのではなく、生活と共に映画がある。
この映画で描かれるのはあくまでも、病院食を食べながらの「ほのぼのとした」母娘の会話だったり、いわゆるドラマティックとは程遠い「なんでもない時間」の積み重ねだ。しかし本当の意味では、そうした瞬間こそが実はドラマティックだったりすることに、この映画は気付かせてくれる。
ガンが進行するにつれ、薬の副作用で母の髪が抜け始めても二人は冗談を言って笑い合いながら、一つ一つの現実を受け止めて行く。直接的には写されない分、カメラが廻されなかった時間の壮絶さが、かえって観客の脳裏に浮かび上がる。
一緒に料理をしながら
一緒に食事をしながら
一緒にテレビを見ながら
一緒にふざけあい、笑いあいながら
一緒の時を過ごして、その瞬間が永遠に続くようにと願いながらも同時に「終わり」を受け入れて行く日常。その一つ一つは、二度と訪れることのない一回限りの生の瞬間。

でも、人は逞しい。過去の出来事を「思い出」という養分に変えて食べながら、「新たなる瞬間」を刻一刻と味わいながら生きて行く。娘が撮り溜めた完成途上のビデオ映像が、祖母の日常を彩ることの華やぎと残酷。
この映画を見てからというもの僕は、場面の一つ一つを不意に思い出すだけで何度でも鳥肌が立つような感覚を味わっている。そして、心があたたかくなっている。思い出されるのはささやかな「なんでもない」瞬間ばかりだというのに。
この映画、実はものすごく力を持った映画なのかもしれない。人を「生」に繋ぎとめる魅力を放つ、本当の意味での「強い」映画なのかもしれない。
芸術の始原の姿は、この映画の中にある。

監督:加藤治代→公式サイト
●8月4日までポレポレ東中野でモーニング&レイト公開中(10:30~/21:10~)
●大阪・ 第七藝術劇場/ 広島・横川シネマ/金沢・シネモンド等で順次公開予定
●監督インタビュー掲載Webサイト
→intro
→ MOVIE WALKER
→週刊がん もっといい日
●作品紹介サイト
→movie net
→日刊スポーツ6月5日
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園子温「奇妙なサーカス」●MOVIEレビュー

タイトルに惹かれて見に行った。新宿歌舞伎町のド真ん中にある、ちょっとうら寂れた映画館(新宿トーア)は、この映画にぴったりの舞台設定だった。観客は全員が男性・・・。ドロドロと血なまぐさく甘美で濃厚かつエロティックで倒錯したこの映画は、なるほど男性が一人でこっそりと見に行くのにふさわしいのかもしれない。
そして僕にとっても・・・かなり好きな世界かも(笑)。通常の映画では味わえない濃厚な興奮を味わいながら、視覚的にも内容的にもグロテスクな世界にどっぷりと浸かってしまった。
★東京での上映は本日で終了。
地方での公開がはじまります。(公式サイト)
宮崎ますみ復帰作
女優・宮崎ますみにとって、この映画は久しぶりのカムバック作だという。その力の入れようは半端じゃなく、「だ・・・大丈夫?」と心配してしまうほどに壊れまくってくれているから素敵だ。これから「中年」と呼ばれる年代にさしかかろうとしている彼女だけれど、ちょっと疲れてきている感じがかえって色っぽい。「熟女」とはこうした美しさを持つ人にこそ、ふさわしい言葉だろう。

この映画の彼女は本当に美しい。どんどん汚れて壊れて行く所が最高に美しい。本能や欲望の剥き出しになった所ではじめて見えてくる、人間の本当の美しさというものに気付かせてくれるのだ。
いしだ壱成の狂気と浮遊感
かつてアイドルとして名を馳せた、いしだ壱成の姿を久々に見た。映画の後半をかき回す重要な役どころだ。彼の中性的でふわふわしているけれど鋭いナイフを秘めているかのような独特な存在感が、とても生かされる役どころだった。
浮ついた「ブームとしての人気」から解放されて自由な立場を獲得した人が、俳優としてすばらしい成果をあげることがある。彼にとってこの映画は、そういうものになったのだと思う。
近親相姦・憎悪の渦巻く多次元ワールド

母親とのセックスを目撃させられ、自分と父親とのセックスも母親に見られる。すべては父親の性的興奮を満たすため。しかも、なんとその父親は小学校の校長であり、普段は偉そうに生徒達に「道徳」を諭しているという皮肉めいた設定が最高(笑)。
父親という「一人の男」をめぐる母と娘の愛憎。
やがて娘は自分と母親を同一視しはじめ・・・母も同じく倒錯しはじめる。皆がだんだんと狂って行く様子が、独特の映像・美術・音楽センスで彩られ、ギリギリの所で「品」を保ちながらエンターテインメントとしても成立しているからすごい。
時空間の移動が自由であり、次の展開が全く読めないのでどんどん引き込まれる。そしてなにより映像として感覚的に楽しませる術に長けている。しかも内容は哲学的。何拍子もそろった贅沢な映画だ。
地上波テレビのゴールデンタイムではまず間違いなく放送できないだろうし、そんなことをしたら表面的な偽善ばかりを繕いたがる「PTAのご婦人方」から抗議が殺到することは必至(笑)。
しかし人間なんてものは一皮剥けばグロテスクな肉が露呈し真っ赤な血が流れるのが本性。そうしたダークな部分と向き合うには、かなり「心臓の強さ」が要求されるし、精神的な鍛錬が必要なのだ。むしろこうした映画が広く受け入れられることこそが本物の「文化的成熟」。そんなことも考えてしまったりなんかして。

僕が園子温監督の映画を見たのはこれがはじめてなのだが、その映画的センスには本当に驚いた。感覚的には江戸川乱歩の倒錯世界に通じていると思う。
そういえば乱歩ファンにも圧倒的に男性が多い。乱歩の特集上映が開催されると客席のほぼ大多数は男性が占め、ある意味異様な雰囲気で満たされるのが常。男性的な感覚とはけっこう、グロテスクなものを求めるものなのかもしれない。では女性的な感覚の持ち主がこうした世界を見た時に何を感じるのか。ちょっと気になるところではある。
この監督の代表作には映画 『自殺サークル』
●DVD発売中
●関連記事・・・乳癌で療養中の宮崎ますみさんを応援します。
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北野武「TAKESHIS'」●MOVIEレビュー
闇の自覚者が引き受けてしまったもの
自分を分析したくなったのだろう。
しかも徹底的に。
現在公開中の北野武監督最新作「TAKESHIS'」は、一見難解に思えるスタイルをとってはいるが、実はとても単純かつ明快な作品である(と、僕には感じられた。)監督自らが手にしてしまった「スターという権力」と、それを引き受けている自己について、彼自身が主体になったり客体になったりしながら思考を巡らせ、あの手この手で茶化して分析することが中心になっている。その観点から見てみると、けっこうわかりやすい。
物語としての整合性もスタイルとしては壊してあるのだが、実は一貫している。様々に繰り出される映像としてのイメージやシュールな展開の場面も、監督が自己を分析するために脳内に浮かんだ観念を映像化することに忠実である。彼の自己から逸脱して飛躍する領域には達していない。真に革新的な映画というものは、監督(作者)の内面世界すら超越して「別の生き物」として自立して生き始めるもののことを指すと思う。コンセプトや編集方針から行って、監督はその領域を目指したかったのだろうと推察されるが、達しきれていない。
僕としては、もう少し「異物」としてゴツゴツと突き刺さってくるものを期待していたのだが、その期待は裏切られた。それはきっと論理としても感覚としても、この映画がわかった(ような気分にさせられた)からかもしれない。僕の内面とこの映画は、なぜだか知らないけど共鳴することが多かった。僕が普段関心を持っていることと共通する部分が、この映画からかなり見出せたからなのかもしれない。だから物足りない。なぜなら僕は映画に「他者」を期待するからだ。それだけ、この映画に高い期待を持ちすぎていたということなのかもしれないが。
もっと非情になって再編集を。
公開に先立って監督自らが積極的にメディアに出演し「ジグソーパズルのような映画」だと公言して「難解だ」というイメージを払拭しようと奔走していたが、それほどのものでもない。むしろ観客に媚びた編集になってしまっている部分が多く、興醒めした。松竹全国ロードショーという公開規模に合わせたサービス精神なのかもしれないが、単なる説明のためにしかすぎない不要なフラッシュバックの多用は、映画のリズムを壊すだけである。意味世界からの飛躍を目指して壊したはずなのに、中途半端なのだ。飛躍しきれていない。結果として、どっちつかずになってしまった。要するに「商売」のために飛躍できなかったという感じ。もったいないと思う。
その「飛躍しきれなかった」要因としては、この作品で彼が描き出している、彼を取り巻く様々なしがらみへの愛情が関係しているのだろう。作品で描いた世界と、彼の日常とがあまりにも密着しすぎているため、結局は自らの足を掬われてしまったのではないだろうか。監督として作品を編集する上での精神的な「暴力」が足りない。映像素材や役者達に愛情を持ちすぎなのだ。もっと時間をおいて映像素材から距離を置き、じっくりと編集をやりなおせば、この作品はもっと飛躍できるはずである。
スター論=権力論→暴力論
彼のような「スター」が揺るぎない地位を手に入れるためには、たくさんの敵と戦って勝ち残ることが必要なのだろう。「スター」に憧れる人間は多い。しかし本当にその座を手にするためには、光の強さと同じ分だけの深い闇とも付き合える度胸と覚悟がなければならない。
彼も現在の地位を築き上げるためには様々な権謀術策を弄して戦い続けて来たにちがいない。魑魅魍魎が跋扈する芸能界という環境は基本的には「水もの」であり、毎日博打をしているようなものだ。「金の生る木」には亡者どもが群がり、生き血をすすりにやってくる。
しかもその地位は「人気」という曖昧なものによって保障されているにすぎない。「人気」とは、ちょっとしたきっかけで移り変わる気まぐれなものである。長年そうした環境でスターとしての地位を維持するには、並大抵の心臓では持ちこたえられないだろう。
しかしこの十数年、ビートたけしはテレビ界で「スター」として存在し続けてきた。北野武としても今や「日本映画界の第一人者」としての地位を確立してしまった。今彼は、まさに権勢の頂点にいる。山の頂に辿りついた者にしか見ることの出来ない下界の景色があるのだろう。そこでしか味わえない栄光と、その裏返しとしての闇。犯罪すれすれの罪も犯してきただろう。殺さなければならない感情もあっただろう。そんな自分への贖罪という意味でも、こうした形で吐き出しておかなければ耐えられないのだろう、きっと。
一将功成りて万骨枯る
この映画は、まるで美術館で絵画展を鑑賞する時のような気持ちで気楽に楽しめばいい。絵画展で一つ一つの絵が独立した世界を持っているように、この映画の各場面は独立して感じられるような構成になっているからだ。しかし、そのどれもが「スターの栄光と孤独」という一つのテーマで関連付けられてはいるのだが。
特にわかりやすかったのは、たけしがタクシーの運転手になって夜道を走る場面。「その先には行ってはいけないよ」と言われたにも関わらずタクシーを走らせるたけし。夜道では客として、次から次へと魑魅魍魎が乗って来る。彼らはまるで「ビートたけし」という権力を頼って寄生してくるタレント達を象徴しているかのよう。全編を通して松村邦洋氏・内山信二氏の「デブタレント」コンビが頻繁に登場するのだが、彼らはおそらく「たけし軍団」を象徴しているのだろう。寄生してくる「小者たち」を背負った責任による重みで、たけしというタクシーは左右にフラフラしながら息も絶え絶えに進んで行く。
道の先には夥しい量の死体が横たわっている。しかしたけしは構わずタクシーを前進させ、死体を無情にも踏みつけながら進み続ける。「一将功成りて万骨枯る」という、ことわざそのものの光景。「スター」という存在が成功を収め続けるためには、その裏でたくさんの人々の夢が散り、犠牲が払われている。その痛みをも引き受けながら進み続けられる者こそが、最後に勝ち残れるのだ。・・・彼はきっと、このような夢をよく見るのだろう。
不毛地帯の乾き
強烈な自己顕示欲と、その裏返しとしての強烈な不安がもたらす逃避願望、孤独、破壊衝動。
歌手として長らくスターの地位に君臨し続けている浜崎あゆみも、その孤独や不安を楽曲に込め、たまに吐き出して解消している。それと同じような棘や痛々しさ、空虚感がこの映画からは滲み出ている。なんとかユーモアを忍ばせて笑いに転嫁しようとはしているのだが、そのどれもが乾いている。乾いた笑いを意図的に成功させることが出来るのは、彼ならではの才能だろう。
オレ以外はみんな敵!・・・でも綺麗なネーちゃんには傍にいてほしい。
そんな自分のあり様を自虐的なまでに開示して見せ、自己否定を極めるようでありながら、実は結果的に辿りつくのはそこまでの自己洞察力があることを観客に見せ付けることで成り立つ自己肯定。
やはり彼は並みの心臓の持ち主ではない。
戦い続けるためにはオアシスも必要だ。終盤の海辺の場面。京野ことみ演じる「綺麗なネエちゃん」をちゃっかりと傍らにはべらせ、ラストの大殺戮でも彼女を傷つけることはしない・・・単なるエロ親父としての正体を見せている(笑)。
強烈なまでのエゴに満ち満ちた、おそろしいまでに自分勝手に徹した映画である。でもそこが評価できる。彼の凄いところは、罪な存在としての自己の悪から逃げず、あえて露呈することで向き合い、徹底的に分析しようとする姿勢。それは辛いことである。でも、やらなければ生きては行かれない性質の人間なのだろう、北野武という人は。
それは真摯に生きている人間にしか出来ない芸当である。
彼は逃げていない。全てと戦っているのだ。他者とだけではなく、自分自身とも。
しかしやはり残念なのは、どうしてもエゴに徹し切れなかった説明カットの多用。この映画がイマイチ作品としての評価を勝ち得ていない理由は、そこにあると思う。どうせなら開き直って単館ロードショー向けに低予算で製作したほうが自由に作れて、作品としてさらに飛躍できたのではなかろうか。彼の映画的感性は、メジャーな市場には似合わないのではないだろうか。彼独特の優しさが、この作品では仇となってしまったようだ。
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しかも徹底的に。
現在公開中の北野武監督最新作「TAKESHIS'」は、一見難解に思えるスタイルをとってはいるが、実はとても単純かつ明快な作品である(と、僕には感じられた。)監督自らが手にしてしまった「スターという権力」と、それを引き受けている自己について、彼自身が主体になったり客体になったりしながら思考を巡らせ、あの手この手で茶化して分析することが中心になっている。その観点から見てみると、けっこうわかりやすい。
物語としての整合性もスタイルとしては壊してあるのだが、実は一貫している。様々に繰り出される映像としてのイメージやシュールな展開の場面も、監督が自己を分析するために脳内に浮かんだ観念を映像化することに忠実である。彼の自己から逸脱して飛躍する領域には達していない。真に革新的な映画というものは、監督(作者)の内面世界すら超越して「別の生き物」として自立して生き始めるもののことを指すと思う。コンセプトや編集方針から行って、監督はその領域を目指したかったのだろうと推察されるが、達しきれていない。
僕としては、もう少し「異物」としてゴツゴツと突き刺さってくるものを期待していたのだが、その期待は裏切られた。それはきっと論理としても感覚としても、この映画がわかった(ような気分にさせられた)からかもしれない。僕の内面とこの映画は、なぜだか知らないけど共鳴することが多かった。僕が普段関心を持っていることと共通する部分が、この映画からかなり見出せたからなのかもしれない。だから物足りない。なぜなら僕は映画に「他者」を期待するからだ。それだけ、この映画に高い期待を持ちすぎていたということなのかもしれないが。
もっと非情になって再編集を。
公開に先立って監督自らが積極的にメディアに出演し「ジグソーパズルのような映画」だと公言して「難解だ」というイメージを払拭しようと奔走していたが、それほどのものでもない。むしろ観客に媚びた編集になってしまっている部分が多く、興醒めした。松竹全国ロードショーという公開規模に合わせたサービス精神なのかもしれないが、単なる説明のためにしかすぎない不要なフラッシュバックの多用は、映画のリズムを壊すだけである。意味世界からの飛躍を目指して壊したはずなのに、中途半端なのだ。飛躍しきれていない。結果として、どっちつかずになってしまった。要するに「商売」のために飛躍できなかったという感じ。もったいないと思う。
その「飛躍しきれなかった」要因としては、この作品で彼が描き出している、彼を取り巻く様々なしがらみへの愛情が関係しているのだろう。作品で描いた世界と、彼の日常とがあまりにも密着しすぎているため、結局は自らの足を掬われてしまったのではないだろうか。監督として作品を編集する上での精神的な「暴力」が足りない。映像素材や役者達に愛情を持ちすぎなのだ。もっと時間をおいて映像素材から距離を置き、じっくりと編集をやりなおせば、この作品はもっと飛躍できるはずである。
ここからは内容に具体的に触れます。ネタバレ注意!!

彼のような「スター」が揺るぎない地位を手に入れるためには、たくさんの敵と戦って勝ち残ることが必要なのだろう。「スター」に憧れる人間は多い。しかし本当にその座を手にするためには、光の強さと同じ分だけの深い闇とも付き合える度胸と覚悟がなければならない。
彼も現在の地位を築き上げるためには様々な権謀術策を弄して戦い続けて来たにちがいない。魑魅魍魎が跋扈する芸能界という環境は基本的には「水もの」であり、毎日博打をしているようなものだ。「金の生る木」には亡者どもが群がり、生き血をすすりにやってくる。
しかもその地位は「人気」という曖昧なものによって保障されているにすぎない。「人気」とは、ちょっとしたきっかけで移り変わる気まぐれなものである。長年そうした環境でスターとしての地位を維持するには、並大抵の心臓では持ちこたえられないだろう。
しかしこの十数年、ビートたけしはテレビ界で「スター」として存在し続けてきた。北野武としても今や「日本映画界の第一人者」としての地位を確立してしまった。今彼は、まさに権勢の頂点にいる。山の頂に辿りついた者にしか見ることの出来ない下界の景色があるのだろう。そこでしか味わえない栄光と、その裏返しとしての闇。犯罪すれすれの罪も犯してきただろう。殺さなければならない感情もあっただろう。そんな自分への贖罪という意味でも、こうした形で吐き出しておかなければ耐えられないのだろう、きっと。
一将功成りて万骨枯る

特にわかりやすかったのは、たけしがタクシーの運転手になって夜道を走る場面。「その先には行ってはいけないよ」と言われたにも関わらずタクシーを走らせるたけし。夜道では客として、次から次へと魑魅魍魎が乗って来る。彼らはまるで「ビートたけし」という権力を頼って寄生してくるタレント達を象徴しているかのよう。全編を通して松村邦洋氏・内山信二氏の「デブタレント」コンビが頻繁に登場するのだが、彼らはおそらく「たけし軍団」を象徴しているのだろう。寄生してくる「小者たち」を背負った責任による重みで、たけしというタクシーは左右にフラフラしながら息も絶え絶えに進んで行く。
道の先には夥しい量の死体が横たわっている。しかしたけしは構わずタクシーを前進させ、死体を無情にも踏みつけながら進み続ける。「一将功成りて万骨枯る」という、ことわざそのものの光景。「スター」という存在が成功を収め続けるためには、その裏でたくさんの人々の夢が散り、犠牲が払われている。その痛みをも引き受けながら進み続けられる者こそが、最後に勝ち残れるのだ。・・・彼はきっと、このような夢をよく見るのだろう。
不毛地帯の乾き
強烈な自己顕示欲と、その裏返しとしての強烈な不安がもたらす逃避願望、孤独、破壊衝動。
歌手として長らくスターの地位に君臨し続けている浜崎あゆみも、その孤独や不安を楽曲に込め、たまに吐き出して解消している。それと同じような棘や痛々しさ、空虚感がこの映画からは滲み出ている。なんとかユーモアを忍ばせて笑いに転嫁しようとはしているのだが、そのどれもが乾いている。乾いた笑いを意図的に成功させることが出来るのは、彼ならではの才能だろう。
オレ以外はみんな敵!・・・でも綺麗なネーちゃんには傍にいてほしい。

やはり彼は並みの心臓の持ち主ではない。
戦い続けるためにはオアシスも必要だ。終盤の海辺の場面。京野ことみ演じる「綺麗なネエちゃん」をちゃっかりと傍らにはべらせ、ラストの大殺戮でも彼女を傷つけることはしない・・・単なるエロ親父としての正体を見せている(笑)。
強烈なまでのエゴに満ち満ちた、おそろしいまでに自分勝手に徹した映画である。でもそこが評価できる。彼の凄いところは、罪な存在としての自己の悪から逃げず、あえて露呈することで向き合い、徹底的に分析しようとする姿勢。それは辛いことである。でも、やらなければ生きては行かれない性質の人間なのだろう、北野武という人は。
それは真摯に生きている人間にしか出来ない芸当である。
彼は逃げていない。全てと戦っているのだ。他者とだけではなく、自分自身とも。
しかしやはり残念なのは、どうしてもエゴに徹し切れなかった説明カットの多用。この映画がイマイチ作品としての評価を勝ち得ていない理由は、そこにあると思う。どうせなら開き直って単館ロードショー向けに低予算で製作したほうが自由に作れて、作品としてさらに飛躍できたのではなかろうか。彼の映画的感性は、メジャーな市場には似合わないのではないだろうか。彼独特の優しさが、この作品では仇となってしまったようだ。
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増村保造「曽根崎心中」●MOVIEレビュー(ATG)

・・・そんな情熱に身を焦がしてみたい。
これって、古今東西に渡る人間としての夢、あるいはファンタジーなのかもしれない。
現実には、情熱なんて長続きはしないものだし、人って結局はエゴイスト。
他人を死ぬほど愛するだなんて疲れるし、そんなことは、ほぼあり得ない。
だからこそ、それを実現してしまった二人をうらやみ、伝説化するのだ。
数々の芝居や映画で繰り返し描かれてきたお初と徳兵衛の心中行。
この二人は、時代を越えて人々に夢を託され続けてきた「スター」であると言えるだろう。
心中とは快楽である
前回紹介したATG映画「音楽」と同じ増村保造監督による、これまた濃厚な情熱の世界。
梶芽衣子と宇崎竜童が「死ぬしかない運命」にある恋人同士を体当たりで演じている。
表現としてこの二人の心中を描く時には、封建制の悲劇や金の亡者に成り下がった人間の悪など、社会批判的な視点の当て方は様々に考えられる。しかしこの映画は、社会批判にはあまり興味がないようである。登場人物たちは鬼気迫るテンションで物事を進め、ほとんど全力疾走である。
強固な逆境の中にあればあるほど、人としての「ロック魂」は燃え盛るものだ。
この映画は、心中というものを安易に、「不幸で可愛そうな出来事」としては描かない。
「社会の不条理」を啓蒙主義的に観客に教え諭そうともしない。
心中というものの持つ「快楽」としての側面を描き、観客に放り投げてくる。そんな映画だ。
役者・宇崎竜童の変貌に注目
この映画でいちばん気になったのが、徳兵衛を演じる宇崎竜童氏の演技の不安定感(失礼。)当時、「ダウンタウン・ブギウギバンド」がブレイクし、いわゆる「アイドル・スター」として名を馳せていた上での起用なのだろうが、増村保造監督の要求する演出に、彼がなかなか・・・ハマラない(率直に言ってしまえば、「下手」なのである)。

そんな中で彼にとっては2本目の映画出演。荷が重かったのだろう。
特に前半部分では無理やりに「芝居がかった」台詞を言っているため、目が死んでいる。内実が伴っていないために「演技をやらされている」不安定な心情がそのままフィルムに定着されてしまっているのだ。
この映画ではテンポ良く台詞を言う事が求められるし、次から次へと「修羅場」が設定されているので高度な演技的技術が要求される。明らかに彼は、こなしきれていない。
そんな宇崎氏も撮影が進むにつれて役を「我が物」とし始める。池に落っことされたり友の裏切りに対して怒りを露わにする場面などで、だんだん目が輝きはじめるのだ。最後の心中場面では完全に彼本人と役がシンクロして見えそうな所まで、なんとか到達する。
上手い役者の中にいると、下手な役者は成長できる。この映画は、宇崎竜童氏が「役者」として開眼する貴重な瞬間まで収められた「ドキュメンタリー」として観る事も可能である。彼のその後の活躍は、言うまでもない。
左幸子の強欲ババアっぷりに感動っ!
深作欣二監督の「軍旗はためく下に」での名演技を見てから大好きになった女優・左幸子さんがこの映画にも登場していて嬉しかった。しかも徳兵衛(宇崎竜童)の母親役だ。
継母として、女手一人で徳兵衛を育て上げたのだが、徳兵衛にとっては不本意な結婚の契約金を受け取ってしまう。それを返して欲しいと徳兵衛が頼み込むのだが、なかなか返そうとしない。
愛する息子よりも、目の前の金。
そんな強欲ババアの存在感を、これほどリアルに感じさせる演技もめずらしい。本当の悪役に徹しているのだ。
宇崎竜童の不安定でオドオドした演技と、左幸子のどっしりとした貫禄いっぱいの演技。
その対決は、役の人物の性格とうまくマッチして見えるからスリル満点。残酷なまでに両者の実力の違いを浮かび上がらせてもいるが、観客としては逆に、宇崎氏の不安定だけれども一生懸命な演技を、ハラハラしながら応援したくもなってきてしまうから不思議である(笑)。
彼女の登場でやっと、この映画は「生き物」として動き始める。
女優・左幸子の実力に乾杯っ!

製作:行動社・木村プロ・ATG
1978.04.29公開 112分 カラー
監督 : 増村保造
製作 : 藤井浩明/ 木村元保/ 西村隆平
原作 : 近松門左衛門
脚本 : 白坂依志夫/ 増村保造
撮影 : 小林節雄
音楽 : 宇崎竜童
美術 : 間野重雄
編集 : 中静達治
出演 : 梶芽衣子、宇崎竜童、井川比佐志、左幸子、橋本功 他
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増村保造「音楽」●MOVIEレビュー(ATG)
☆この映画のレビューには、作品の性格上、露骨な性描写が含まれます。三島由紀夫原作。
ご承知の上でお読みください。
不感症の女性が求める、自分だけのエクスタシー

そう訴えて精神分析医に治療を頼み込む女性。
この場合の「音楽」とは「性的エクスタシー」を意味するらしい。
三島由紀夫の原作。
彼の死から2年後の1972年に、増村保造が監督。
この人は「女性のエロスとパトス」を描かせたら右に出る者はいないと言われる情念派。もう・・・その組み合わせという事実だけでお腹いっぱい(笑)。
この濃厚すぎる世界はナニ?
この、むせ返るような暑苦しさはナニ?
・・・性的不感症に苦しむ女性が、自分にとってのエロスを求めて狂ったように男をむさぼり、追求する姿。その過剰なまでのエネルギーと情熱は、ほとんど偏執狂。
芝居もコッテリ。演出もコッテリ。・・・ほんと、いろんな意味で圧倒されますこの映画。
女体をハサミに譬える三島的観念の世界

暗闇の中を、巨大なハサミが開いて閉じて・・・女体にオーバーラップして行く。すなわち、女性がベッドで足を開いたり閉じたりする姿が、ハサミに譬えられているのである。
しかもその女は全裸のままで横たわり、あろうことかオナニーをしているかのように身悶えしている。自分の身体を自分でまさぐり、乳房を揉みしだき、自分でエクスタシーを感じているのだ。その禁断の姿はすごく幸せそう。そして、とっても自分を愛しているかのよう。(なんて三島由紀夫的なオープニングっ!なんて増村保造的皮肉っ!笑)
女体の股に刺し込まれるものといえば、もちろん男の「アレ」。ということは、この女性は「アレ」を切ってしまおうとでも言うのだろうか?。この描写は、これからはじまる異常性愛の世界を予感させて、実に刺激的かつエロティックである。
不能の男が好き
大好きな恋人とセックスをしていても、なにも感じない。彼はすごく逞しく精悍この上ない男っぽい男だというのに。
ショックで旅に出た彼女は、旅先で彼とは正反対のタイプの男と一夜を共にする。その男は自殺志願者。性的不能に悩んで自殺しようとしていたのだ。
生気がなく細身で男らしさの欠片もない彼に、なぜか主人公は興奮する。そして二人で最高の一夜を過ごす。彼女のおかげで性的不能が治った男は感激して主人公に求愛するが、主人公は途端に冷めてしまう。彼女は「不能」である彼が好きだったのだ。男として蘇った彼には用がない。
死んだ男が好き
あげくの果てに彼女は、入院中で死期の迫った病人にエロスを感じてしまう。しかもそれは、かつて自分をレイプした男。かいがいしく付きっきりで介護しながら、彼の身体から徐々に発せられる「死の匂い」に魅せられて行く。
やがて彼は死ぬ。彼女は悲しみながらも、死んだ彼の上にまたがり全身で愛撫をしてしまう。(この場面、はっきり言って引きました・・・笑)
近親相姦という禁忌

・・・マジかよ。
こう心で突っ込む間も与えられず次から次へと強引なドラマ展開に翻弄され、ついに観客は兄妹が近親相姦に達するエクスタシーまでをも目撃させられてしまう・・・。
このような三島的妄想の世界を大真面目に映像化し、フロイト的精神分析と絡めながら、女の動物性を強調して欲望というものの壮絶さを可視化して行くだなんて・・・いろんな意味でこの映画、突き抜けちゃってます(笑)。そして、「そういうのもアリかも」といつの間にか思わされてしまう力技には脱帽。
三島由紀夫の粘着感
今、このブログで三島由紀夫のことを同性愛者としての見方から読み直すべく記事を連載している僕としては、かなり楽しむことができた。途中から、主人公の女を三島由紀夫に置き換えてみたら、すんなりとこの妄想狂的な世界が理解できるような気がしたからである。
この辺については、連載であらためてじっくりと考えてみようと思う。
原作の「音楽」は、当時かなりヒットしたいわゆる「通俗小説」と呼ばれるタイプの作品である。(文庫本が4つの出版社から出版されているほどの人気)。
しかし三島由紀夫の代表作・名作として語られることは「ほぼ無い」という、微妙な位置付けに甘んじている作品でもある。僕としては、なかなかどうして彼の精神構造を読み解く上ではとても面白い作品ではないかと感じた。小説も読んでみようと思う。
それにしても、三島由紀夫が関わるとどうしてこんなにも「濃い」んだろう。
ギトギトで油ぎっていて、黒光りしているようなおぞましい世界・・・。
覗いてみたい人はぜひ、何が起きても受け入れられる精神状態の時に、見てみてください。

製作:行動社・ATG 配給:ATG
1972.11.11公開 104分 カラー
監督: 増村保造
作: 三島由紀夫
脚本: 増村保造
企画: 葛井欣士郎 / 藤井浩明
撮影: 小林節雄
音楽: 林光
美術: 間野重雄
編集: 中静達治
出演: 黒沢のり子、細川俊之、高橋長英、森次浩司、三谷昇、松川勉、森秋子、藤田みどり
●三島由紀夫「音楽」(新潮文庫)
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●三島由紀夫とつきあってみる。006●小説「音楽」の魔①
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