フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-07
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「女性」の性欲、「男性」の沽券、双方に関するジェンダー抑圧を表す物語●中国インディペンデント映画祭『春夢』



 中国インディペンデント映画祭で『春夢』(楊荔鈉監督)を観ました。タワーマンションに住み、男性の配偶者は会社の重役。娘が一人いる都会暮らしの富裕層のヘテロ女性の「性欲」を描いた作品。理想の男性とセックスする夢に取り憑かれ、日常を空虚に感じ占いや宗教に救いを求める。女性監督が撮った作品でした。
http://cifft.net/chm.htm

 『春夢』のような女性の性欲を描く物語は、60年代の三島由紀夫の小説にあったと思いますが、それは当時女性読者たちに大人気だったようです。上映後の監督と出演者トークで監督が「中国では女性の性欲を語ったり描くことはまだタブー」だと語っていました。日本でもまだその風潮は根強いですね。

 日本では最近は篠原涼子さんが演じた連ドラで女性の性欲が描かれ話題になってましたが、『春夢』のようにオナニーや「激しいセックス夢」の描写はなく綺麗に終始してたかと。また、男性配偶者が主人公の女性の内面を理解できず、キレてしまうなど『春夢』は男性ジェンダー批判の視点も感じました。

 男性ジェンダーに対する批判的視点と、女性ジェンダーにがんじがらめにされ、「性欲に向き合う自分を自己肯定できにくい女性」の葛藤を『春夢』は描き得てました。ただ、ヘテロ女性、ヘテロ男性どちらとも距離を置く視点からすると、「ヘテロ男性」の内面葛藤の描写が薄かったようにも感じました。

 「ジェンダー」にがんじがらめにされる「ヘテロ男性」「ヘテロ女性」の葛藤を描く作品は、世に溢れている表現が男性視点であることに対抗したい欲求が製作者に強く、女性の内面への踏み込みは深くなり、逆に男性がペラペラになりがち。どちらも成立した作品をまだ僕は観たことがないと気付きました。

☆☆☆

 主人公は、いわゆる「富裕層の専業主婦」と呼ばれるような立場のヘテロセクシュアル女性だったわけですが、「家事をこなす」「子どもの世話をする」という役割が彼女の日常を精神的に満たすわけではなく、しかし男性配偶者は「それで満たされているはずだ」と思い込み向き合わない。

 主人公は「満たされていないこと」を男性配偶者に気付いてほしくて様々なサインを送り、やがて男性配偶者も少しだけ気付いて彼なりの行動を示すのですが、結局、その「満たされなさ」を乗り越える術を二人は見出し得ずに、ある事件が起きて関係性は破綻してしまいます。

 男性は「男性としての沽券」のようなものを傷つけられたら対話が出来ずにキレてしまう。女性はそこが理解できない。女性は「性欲が自分にあること」に根源的な自己嫌悪を抱かされる抑圧下に生きている。男性はそこが理解できない。「男女」双方のジェンダー抑圧を描いてる映画としても受け取れました。

★あとは12月13日(金)19時〜上映有り。
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「男性の性教育は機会が奪われてきた」と語る際にもやはり欠けている視点

 国際基督教大学ジェンダー研究センター『AAA Dialogues-アカデミズム・アクティビズム・アートから語るCGSのこれまでとこれから』終了。僕は、これまでの自分の活動とCGSとの関わり、レインボー・アクションの活動や映像作家としての活動にどのように関連してきたかを語らせていただきました。また、センター長の田中かず子先生は、来年3月で定年退職されるとのこと。「次」を担っていく人々への橋渡しの意味付けも含まれた会でした。

 午前中のセッションに参加された村瀬幸浩さんは「男子の性教育」の必要性を訴える活動をしてこられた方。そういった話を直接聴いたのは初めてで驚くことが多くありました。なんでも、性に関しての悩み相談に電話をかけてくるのは「1:9」で、圧倒的に「男」が多いそうなんです。

★村瀬さんの著書として本人が言及されていた本『男性解体新書―柔らかな共生と性教育の革新のために』

「男は性についてまともに学習するチャンスがなかった」
「男性の性教育は卑猥、猥褻、過激と批判される」
「ヘテロセクシュアル男性が『幸せ』かというと、全然そうではない」
「学ぶことで男子の性は変わる」
「『加害の性、攻撃の性』に立たされている男が変わらなければ関係は破綻するばかり」などの発言が特に印象に残りました。

 また、高校生「男子」の射精に関する意識調査では3割が「ひどいもの」(気持ちいいとは思えない)と回答。2割程度の男性が、自分の性に関して肯定的ではないという結果が出たそうです。つまり、教育の機会がなくAV等からしか「セックス観」や「女性の性に関するイメージ」が得られない男性の性教育のお寒い現状を問題提起されていました。

 そして、「性的知性」を身に着けるチャンスを奪われている「男」の「性嫌悪」「性回避」は際限ない暴力や凌辱に繋がり得るとも語っておられたのですが、聴いていて、セクシュアルマイノリティの存在を想定した物言いが出てこないことが非常に物足りなく感じました。今後、繋がりを作っていきたい分野です。

 質疑応答でも発言して伝えたのですが、たとえば同性愛者は「自分の身体が性的指向の対象でもあり得る」ので、異性愛者とは「自分の身体」に対する感覚が違うのではないかと思うのです。そういった視点も入れたうえで「『男』の性教育」について語られないと、それはヘテロ規範内での語りでしかないと思います。

 また、射精への忌避感、自分の身体への忌避感はトランスジェンダーやGIDの立場や視点からすると別の語り方が必要になってくると思います。「射精をしなくても済むようになったことで、救われたような感覚を持った」というMtFさんの話を思い出し、そう思いました。FC2 同性愛 Blog Ranking

国際基督教大学ジェンダー研究センターのイベントに出演。『AAA Dialogues -アカデミズム・アクティビズム・アートから語る、CGSのこれまでとこれから』

 国際基督教大学のジェンダー研究センターが来年で創立から10年を迎えるということで、プレイベントが開催されます。アカデミズム、アクティビズム、アートの分野で同センターの活動に関与してきた人々が語り合う趣向のようです。僕は13時からの「2nd Session」に、映像作家の根来祐さんらと出演し、最後の全体トーク、そして懇親会まで参加する予定。ご興味のある方はぜひご参加ください。

 当ブログを昔からご覧いただいている方にはおなじみですが、国際基督教大学のジェンダー研究センターは、僕に重要な転機をたくさん与えてくださった場所。

 2006年の「尾辻かな子講演会~虹色の社会をめざして」から始まり、映画『しみじみと歩いてる』『震災から1年 被災地いわきからのメッセージ』の上映など、本当にたくさんの発表機会も与えてくださってきました。同センターの取り組みと自分の取り組みが、これまでどのようにリンクしてきたのか、その時々で気付いたことや、示唆を受けたことは何だったのか等についてお話させていただく予定です。

★以下、国際基督教大学ジェンダー研究センターのホームページより告知を転載します。




国際基督教大学 ジェンダー研究センター 2014年開設10周年記念 プレイベント
AAA Dialogues
アカデミズム・アクティビズム・アートから語る、CGSのこれまでとこれから

 国際基督教大学 ジェンダー研究センターは、2014年4月で開設10周年を迎えます。
 本年はその前年祭として、CGSのこれまでの活動を振り返り、これからについてを語るイベントを企画しました。CGSに深く関わってきた多彩な講師によるミニレクチャーや、学部生・卒業生によるプレゼンテーション、全体での討議を行います。学内・学外を問わず、どなたでもご参加頂けるイベントです。ICUでの学びを体感する1日としても、お気軽にお越しください。

日時
2013年10月19日(土) 10:00-17:00
交流会 17:30-19:00

場所
国際基督教大学 ダイアログハウス2F 国際会議室
JR中央線武蔵境駅南口より、小田急バス「国際基督教大学(境93)」行き終点下車(全線ノンステップバス)

参加費
無料・予約不要(交流会 常勤1,000円、非常勤・学生 500円)

言語
日本語

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「オバマさんありがとう」と騒ぐだけでは加担していることになる暴力や、取りこぼされてしまうものを知る講座

 東大駒場キャンパスでのクィア理論入門公開講座「解放運動からクィア・ムーブメントまで:人種、ナショナリズムとセクシュアリティの政治」に行ってきました。今日は初回で講座全体の粗筋を辿る内容。今すごく関心のあるテーマで嬉しくなりました。

 恥ずかしながら初耳だったのですが、アメリカでは9.11テロの際に「ゲイ・ヒーロー」と語られた同性愛者が居たそうで、ハイジャックされた飛行機でハイジャック犯と戦ったゲイが英雄視されたり、ワールドトレードセンタービルで救出にあたった消防士のゲイが英雄視されたりしたのだそう。

 「テロ攻撃を受けた」という例外的な状態において、異性愛主義の徹底が中断され、「愛国的な一部の同性愛者」が英雄視され「国民」として包摂されたそうです。その一方では、野蛮で逸脱した性のスティグマを「ムスリム」に割り当てた上で行われる、「国家による彼らへの暴力」を正当化する流れに乗ることになってしまうと言える。

 「多様な性に寛容なナショナリズム」とは、ムスリムとの比較によって「性に寛容で自由な文明社会としてのアメリカ」が想像され強化されること。それはつまり、ムスリム攻撃を正当化する「アリバイ」となり、さらにはアメリカ国内のホモフォビアをも見えなくしてしまうことにもなる。

 こうした「ホモナショナリズム批判」が講座の主要テーマです。

 イスラエルで起きている「ピンクウオッシュ」(多様な性への寛容のアピールで、その裏で行っている暴力を隠ぺいすること)への批判も含め、アメリカが先頭に立ち「LGBT運動をけん引」する際に、何が見えなくなるのか、何が取りこぼされるのかを検証するとのこと。これは本当に今、必要な視点だと僕は思います。

 ただ、アメリカの「ホモナショナリズム」や「ピンクウオッシュ」を語るためには「アメリカのLGBT運動をアメリカの文脈で理解すること」が必要になってくるとのこと。

 つまり、普遍化するのではなく、あくまでも「アメリカ個別の歴史なのだ」と認識するのが大事だとのこと。その態度も、すごく必要だと感じました。

 日本のセクシュアルマイノリティ関連活動においても、アメリカの活動の「断片」がよく見本のように目指されます。しかしそれは「アメリカ独自のLGBT運動の歴史」であると、一度徹底的に突き放してみないことには「負の側面」への警戒心も持てないし、失敗からも学べないと思うのです。

 オバマの就任演説以降、日本のセクシュアルマイノリティ関連活動においても「オバマフィーバー」が一時期吹き荒れましたし、アメリカ大使館やイスラエル大使館からの「日本のコミュニティへの接近」も起きてきています。その流れに「乗る」ことも必要な面がありつつ、でも、何が取りこぼされるのか。

 物事には常に「両義性」(あるいは多義性)があるということを意識し、光があると必ず生じる「影」とは何なのか、わかったうえで、見えたうえで自らの意志で個別の案件への意志を決めて行くこと。そういったことがこれからますます必要になってくると思います。その問題意識で参加しようと思います。FC2 同性愛 Blog Ranking

慰安婦論議を「ゲイとしての個人」の視点で見ていて思ったこと。~「男らしさ」を「男」に強制する社会や組織の闇

 橋下氏がTwitterで「人間、特に男に、性的な欲求を解消する策が必要なことは厳然たる事実」とつぶやいたらしいけど、「男」を主観で一括りにしないで欲しいし、非性愛(恒常的に他人への性的欲求を持たない)者の存在が消されてるのにも違和感。

 橋下・石原両者による一連の「慰安婦」関連発言による議論が、これだけ「男・女はヘテロセクシュアルであるという前提」で情報空間に溢れかえることで息苦しさを感じたり、所在が定まりにくいことへの不安感のような気持ちを抱くのは僕だけではないと思う。「男」「女」の使用に違和感の波が襲い来る。

 「男って○○だ」「女って○○だ」と、議論が激しく交わされる際に前提とされている「男」「女」に常に留保の気持ちが湧くので、慰安婦容認発言に関するどんな意見に接しても違和感だらけ。ゲイなので「男」の自覚があれども、そこで言われる「男」との距離が複雑に揺れ動きパンクしそう。

 「特に男に、性的な欲求を解消する策が必要なことは厳然たる事実」であるというなら、同性愛者が公言して軍務に就くのを公認した米軍に対しての働きかけにおいては、ゲイやバイセクシュアル男性のための「性的な欲求を解消する策」も必要だと言ってることになりますが、お気付きでしょうか橋下さん?

 軍隊など上下関係が厳しい組織の「男」達に「性的な欲求を解消する策」を公的に設ける必要があるとの発想は、性的少数者に限らずそういう行為に違和感がある人にも「そうすることこそ『男の中の男だ』」という圧力をかけ、嫌がればパワハラやいじめの要因になるのだろう。被害者は「女性」だけではない

 そして、違和感がある人たちが無理やり「こうすることこそ『男の中の男だ』」と、やけっぱちになって過剰な男らしさを身につけ周囲の監視の下で演じる。そして女性に対し加虐的になり行為がエスカレートすることも起こり得るだろう。慰安婦容認論の被害者は、「男性」だけでも「女性」だけでもない。

★この記事はTwitterから作成しました。
★関連内容Togetter

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市民活動の視点、NGOの視点が活かされる国内人権機関の必要性 ~アジア・太平洋地域の状況を知って

 5/16(木)は「わたしたちが使える国内人権機関を!」の勉強会でANNI(国内人権機関に関するアジアNGOネットワーク)の会議に参加した方から、人権機関の設置状況など情報共有。同地域で国内人権機関が設置されてないのは日本と香港と台湾のみ。設置されてる国それぞれ状況は別々。アジアは流動的だ。

 ネパールでは政治情勢が流動的な中、女性の権利獲得が進んでいるとの情報が共有された。ひょっとして?と調べてみたら、やはりセクシュアルマイノリティに関する動向が活発で施策等も進展しており、アジア初のゲイスポーツフェスティバルが開かれたり、国勢調査に「第三の性」を書く項目があったり。

「アジア太平洋地域」は特に国ごとの政治や文化・歴史や宗教事情が複雑。それらと様々に絡まりながら女性の地位向上やセクシュアルマイノリティ権利獲得が進展してたり、してなかったり。しかも流動的で変化に富む。日本もそうした複雑性の強い地域に位置しており他国との単純な比較はナンセンスだ。

 とかく「欧米」との比較を単純にしがちであるけれども、もっと「アジア太平洋地域」の中に位置する視点から、セクシュアルマイノリティ関連の動向を見つめてみる必要性があるのではないかと、これまでの自分を顧みる機会になった。反省できたということはそれだけ有意義な時間だったということだ。

 台湾って国連に加盟してないけど、人権状況の改善のために「それでもできること」をNGOが活発に行ってるようで、人権に関する報告書を国連に発表し提出したりしているという。そういう「人権」に関するNGOの動向と、セクシュアルマイノリティ関連活動が活発なこととは関連してるだろうと思う。

 会議では、各国の人権機関に以下の条件を満たしてるかの質問状がこれから出されるという報告が、マーガレット・セガーさんから行われたという。「国内人権機関は人権擁護機関であり、そのためには政府から独立していることが必要。構成委員が多元的であること、市民活動と繋がりがあることが必要。」

 国内人権機関が社会構造的弱者のために実効的に機能できるように、「政府から独立し、市民活動と繋がりが持てているかどうか」と、その国におけるセクシュアルマイノリティ関連活動の進展や施策改善は、どの程度関係があるのかが重要関心事だ。「これから」のヒントはアジアにあるかもしれない。

「人権擁護」の精神が無いままに女性や社会構造的弱者の権利向上を謳うということは、つまり市場経済合理性追求に利用できる人たちのみ持ち上げていくことになる。内部の「格差」を広げるのが実態であり、そんなまやかしの道にこの国は歩みを進めていると思う。分かれ道で、選ぶ方角を誤っている。

★この記事はTwitterから作成しました。
★同内容のTogetter

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マジョリティの自覚

 受けている抑圧が酷いと、人は、傷付けられている事実を「無きもの」として捉えなければ、やってられないところまで追い込まれる。だから社会的な抑圧構造の被害側の「声」はそもそも出て行きにくい。そのことを知っている人たちは、それが「出ている事実」の重みを感じるが、感じない人は感じない。

 昨年から「マイノリティ・ドキュメンタリー映画祭」などを開催しながら自分が確認したかったことは、そういうことなのかもしれないと今日、自覚した。抑圧構造を必死にはねのけ、その声が表面に「出る」ことの大変さや重さを「理解できる」ことこそ「マイノリティ視点」から共有できる感性だ。

 世の中には、それが「わからない人」が確実に居る。自分だって、自分の関心分野に入らず理解が浅い問題については、どういった抑圧構造をはねのけて、その声が表に出てきているのかの背景を想像できなかったりしているだろう。「マジョリティ視点」と「マイノリティ視点」とは、そういう違いなのだ。

 問題は、「自分はこの分野については『マジョリティ視点』であり背景が読み取れていない」という事を、マジョリティ当事者が自覚することの困難にある。マイノリティは、抑圧構造が自ずと「自分はマイノリティだ」と気付かせるが、抑圧を受けていない者は「マジョリティの自覚」が出来にくい。

 だから踏んでいることに気づけない。自分だってまだまだたくさんのものを踏んでいるだろうし、なにも踏まずに済むことなんて、生きている限りは有り得ない理想論かもしれない。でも、せめて「自分は今○○を踏んでいる」という自覚くらいは持ち、それが避け得ないことなのだとしたら胸は痛めたい。FC2 同性愛 Blog Ranking

理念と現実

 谷合規子著『性同一性障害―3.11を超えて』を、第二部の「性同一性障害をとりまく状況」まで含め読了。

 僕は(いわゆる)「LGBT」という括り方での運動から入り、数年前までは「性同一性障害」に関して人伝てに聞かされる風聞に影響され、自分の目と耳と心で考えるということを怠ってたと思う。

 僕にとっては「性同一性障害」に関して考えることは、なんだかんだ言っても厳然として存在するジェンダー規範を直視することに繋がる。幼い頃から殆どの人が「男らしく」あるいは「女らしく」という規範を、まずは親や養育者から受けて育たざるを得ない現実そのもののことを考えることに繋がる。

 「そういう世の中を変えていきたい」「少しでも規範から自由でありたい」と希求する方向性を支持してるけど、そう思うということは裏を返せば「現実はそうではない」という事。その現実により痛めつけられ追いやられ、声が出せないまま疲弊させられる「今、現に生きている人たち」が居るという事。

 「理念や理想を掲げ実現を目指す運動」は、現に現実社会のあり様によって痛めつけられている人に対して、時に「その現実に負けるな」と、まるで「活動家であれ」とでも言いたげに煽り立てていると感じさせる側面があり、その問題点に最近気付き始めた。救済のはずが目の前の弱者を痛めつけている。

 もっと「現実によって痛めつけられている人が、現実の中でどう折り合いを付けながら、その人独自の人生を、少しでも痛みを緩和しながら送ることができるか」を考える方向性での運動が評価されてもいいと思うし、運動や活動の多様性を、もっと互いに評価し合えたらいいのに、と思うことが最近多い。

 人は結局は「自分が体感できるもの」からしか社会を眼差す視点を獲得できない。だから「誰にとっても普遍的な正しさ」なんて、そもそも存在しない。しかしどうも「それが存在している」と勘違いして物事を語りがちな人が多いし、油断すると自分もその悪癖に流される。そのことをこそ警戒したい。

 人の数だけある「正しさ」がぶつかり合うことで生じる「矛盾」。それを調整し合うことでしか自己と他者は共存できないし、マジョリティとマイノリティは共存できない。傾向として、マジョリティは「正しさ」をマイノリティに押し付けがち。だからこそ調整のための仕組み作りと検証が不断に必要となる。

 マイノリティも、マジョリティの「正しさ」を一概に否定するだけでは共存なんてできない。調整のために何が必要なのか考えなければならない。それを発明できるのは、マイノリティだからこそ繊細に向き合わされてきた「矛盾」から逃げず、向き合い、真摯に見つめる態度からなのだろう。自戒を込めて。

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