フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2009-11
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akaboshiコラム032●イトー・ターリ、橋口亮輔、リム・デズリ・・・3者の背中を鏡にして

  11月7日(日)はリム・デズリ監督の最新作『HOME』と、早稲田GLOWの自主制作映画の上映会があり、両会場で映画を観つつ、上映後に会場を出る人たちにパフ★シネマのチラシ配りをしました。

 リム・デズリ監督の『HOME』は、マレーシア国内でのビルマ難民問題を告発する内容なのですが、決して攻撃性を帯びずにむしろ静かな語り口。成熟した丁寧な映像表現で現実の不条理を描き出した深みのある作品でした。

 単なるメッセージを伝えるだけの社会派プロパガンダ映画に陥らず、映像ならではの表現とは何かを監督が模索しながら撮っていた様子が伝わってきました。この「こだわり」が有るのと無いのとでは「深み」が全然違ってきます。デズリ監督、さすがだなぁと思いました。

 トークの様子は、僕の方からお願いして撮影させてもらい、YouTubeに挙げさせてもらうことになりました。デズリさんからは「パフ★シネマの上映とは関係のないテーマだよ」と言われたのですが、僕としては「だからこそ」僕のブログで紹介させてもらいたいと思うんです。

 かつて「レズビアンであること」に執拗にこだわって映画を創っていた人が、今では更に深く、自己の出自にも関わる「移民問題」に積極的に取り組んでいる。その背中から学ぶべきことって、たくさんあるような気がするんです。

 そういえばゲイである橋口亮輔監督も、最新作『ぐるりのこと。』では、これまで執拗にこだわってきた「ゲイであること」から自由になったところで更に、映画による人間描写や社会を批判的に捉え返す視点の鋭さを深化させました。

 パフォーマンス・アーティストのイトー・ターリさんも、かつて作品の中でカミングアウトをして以来、10年近く「レズビアンであること」にこだわって来たのですが、現在では自由になり、従軍慰安婦問題や沖縄の米軍基地周辺での女性に対する性暴力の問題などの、社会性を帯びた具体的なテーマを取り込んだ作品創りに、積極的に取り組んでいます。

 「自分」の枠から解放されて、視点が「社会」の方にも広がっている。この3者に共通して言えることだなぁと思いました。

 だからといって現在のこの3者が「セクマイであること」を完全に捨てきったかというと、そんな単純なことではないと思います。

 「セクマイであること」とはつまり、社会通念で「当たり前」とされていることから離れられる(あるいは離れてしまう)ということです。つまり、いろんなことを分析し直す癖が付くんですね。これって表現者にはすごく大事なこと。

 「セクマイであること」を、視点を深化させるための養分に変え、なおかつこれまで「捕らわれていたもの」から離れることが出来た人たちの軽やかな姿勢や、その「背中」を見つめることで、いろんなことを感じます。

 今の僕にとって、3者の「現在」は「現在」ではないけれど。10年選手でやっていたとしたら、そういう時が来るのかもしれない。いや、僕にはいつまでも来ないのかもしれない。それは歩んでみなければわからないけれど。今の僕は確実に、まずはきっちりと「セクマイであること」に向き合った形で、いろんなことを表現したり、人と出会って考えて行きたいと思っている。そのことは確認できるんです。

 今の自分とは違う、この3者の「背中」を見ることで、己の姿も相対的に浮かび上がるんですね。「ロールモデル」っていうのはきっと、安易に「お手本」なんかにするべきものではなく、今の己を浮かび上がらせるための「鏡」にするべきものではないでしょうか。

 そういう意味でこの3者は、僕にとっての「ロールモデル」です。FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム031●関係の作り方/アライ・アイデンティティの複雑な受容と反発

 17日に続き、18日(日)も昼からクィア学会に出かけました。昼休み的な時間を活用して開催された『クィア学会 研究倫理ガイドライン検討ワークショップ』では、研究の取材者と、取材を受ける側との「関係の作り方」が議題になっていました。

 セクマイ当事者を取材する際には、自らの「心の傷」に触れるデリケートな問題を語る場合が多いため、様々なトラブルが発生しやすいということ。

 このワークショップを主催した学会の有志の方々としては、対策として「ガイドライン」のようなものがあると、トラブルを未然に防ぐ可能性が増えるのではないかと問題提起したかったようですが、今回はパネリストが多く、それぞれが自らの経験談と問題意識をそれぞれに提出する段階にとどまっていたような気がします。この議論は今後も場を設けて継続的に行われるとのことなので、まだ「提起」が行われたという段階なのだと感じました。

 ただ、その後の質疑応答では真っ先に伏見憲明さんが発言。学会の資料として配られたプログラムにおける記載について、問題提起(というか抗議)をしていました。

 この日の13:20から開催される分科会で、ひびのまことさんが行うことになっている発表『「マジョリティ−としての責任をとる」とはどういうことか』の説明文において、伏見さんの個人名が挙げられており、(たぶん)伏見さんとしてはそこに書かれている内容が「個人攻撃」だと受け取ったのだと思います。

 「これは学会が正式に出している資料であって、それにこのような記述が行われ、権威が与えられているということ」への抗議と、「名指しされている本人であるにも関わらず、今日の今日までその事実を知らなかったということ」について、学会の見解を質していました。

 当該個所の記述は確かに、クィア学会が事前にWeb上に公開したPDFファイルには含まれておらず、唯一、ひびのまことさんのブログに、ひびのさんの独断で公開されていたPDFファイルでは、見ることが出来るようになっていました。つまり、公式的にはクィア学会会員以外には、事前に知り得ることが出来なかったのです。

 学会が事前にこの情報を出さなかった理由としては、「学会の会員と、そうでない人の間に、この程度の情報開示の差を設けることは、必要なのではないか」という判断がなされていたようです。(学会の会員には、会費を払わなければなれませんから、ある程度の特権を設けようという意図なのでしょう。)

 そのことについての是非などは、僕は学会の会員ではないので組織のあり方などには通じていないために何の意見もありませんが、ひびのさんがブログに独断で開示していた情報を見たことによって今回の学会への強い関心が喚起され、「観に行ってみよう」と思ったことは確か。

 それは、ひびのさんの発表の説明文だけではなく、他の発表についても、詳細な情報を得た方が、より強く興味を持ち、遠方だけれども足を運んでみようという動機につながったという意味で、広報の効果は「情報を詳細に出す」方が、高まったのではないかと感じました。

 また、ひびのさんがこの説明文を提出したことによって、学会の内部でも議論が起こったことがあったらしいのですが、最終的には「掲載」という結論がでたとのことです。先行言説に対して批判的な立場をとる発表というのは、当然あって然るべきという判断がなされたらしいです。

 今回の伏見さんの抗議は、今後伏見さんがクィア学会の会員になることで「内部での議論」が喚起されるようです。この日は、次の発表の時間が迫ったために中途半端なところで議論が打ち切られたことが残念でした。質疑応答の最後に、当のひびのまことさんが挙手をしていたのですが時間切れで「直接的な議論」が起こらなかったのです。それが残念でした。

 その後の分科会で、僕はひびのさんの発表もある部屋を選択したわけですが、北里大の若き研究者・宮崎理さんや、かながわレインボーセンターSHIPのボランティア厚美哲也さんの発表。そして、今年の「アイダホ名古屋」の様子を映像で取材した張小青さんの「映像による発表」それぞれ、自分の問題意識と重なる部分が見つかり、有意義でした。

 特に「アイダホ名古屋」の映像は、今回の名古屋で積極的に呼びかけられて集結したという「アライさん」の様子を映し込むことが企図された映像であり、昨年の秋からテキトーな感じで使われるようになった「アライさん」という言葉が、名古屋の活動の現場ではこんな風に「アツい感じで」受容されており、「アライ・アイデンティティ」という新カテゴリーがもたらしている影響が、撮影者の意図を超えて深く記録されている映像にもなっていて、とても面白かったです。

 「異性愛者です」と名乗る立場でセクマイの活動の現場に関わってくる人って、昔から当たり前のように少なからず居たわけですが。「アライ」という新たな言葉が生まれることによって、「それに自分がハマるのか?ハマらないのか?」という新たな命題が生まれているみたいなんですよね。躊躇してる感じの人も居れば、すんなりハマってる人も居る。葛藤が起きている人も居れば、起きていない人も居るんです。

 それはインタビューに応じる人々の「言葉」にではなく、むしろ「表情」だとか「映り方」に如実に表れていた。そういう意味で、これは映像でないと拾うことの出来ない「微妙で繊細な部分」なんですよね。そこの部分を多様に読み取ることが出来たので、成功しているドキュメンタリー映像ではないかと思いました。

 編集の全体的な構造としては「真っ正直」な感じのゲイリブ・プロパガンダ路線ではあるのですが、一つ一つの場面が、その「真っ直ぐさ」を裏切って微妙な感情を映し出している。そんな風に僕には「読み取れた」わけですね。おそらく、制作者の当初の撮影目的からは逸脱しているのではないかと思いますが、そういうところにこそ真の「映像の魅力」ってあるんじゃないかと思うんです。

 それにしても、「アイデンティティ用語」って、生まれるとこんな風に、新たな葛藤だとか思考回路を生み出して、受容されたり反発されたりして行くものなんですねぇ・・・。その過程がピュアに瑞々しく記録されている、稀有な映像だったような気がします。あ〜面白かった。FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム030●対立軸で物事を捉えないということ

 10月17日(土)に津田塾大学で開催された「クィア学会第2回大会」に行ってきました。

 『映像を読む:見えること、見えないこと』というタイトルで行われたシンポジウムでは、パネリスト3名のうち、僕にとっては斉藤綾子さんの話が最も印象的でした。映像を「読む」ということの概念が、自分の中で刷新された気がします。

斉藤綾子『映画と身体/性(日本映画史叢書 6)』

 やはりこういう場でも語られているのは、旧来のアクティビズム的な「単線的」で「目的達成至上主義的」なモノの味方から、いかに自由になるかということではないかと感じました。(僕の今の問題意識がそこにあるから、そういう風に思ったんでしょうけどもね。)

 たとえば、「可視化」と「不可視化」は、どちらも対立する絶対的な概念などでは決して無く、あくまでも相対的なものであるということ。そして、視点を変えてみれば「可視」と「不可視」は同時性のあるものだったりもするという指摘がありました。

 そして、従来の概念では、「隠されたものを、いかに明らかにするのか」が、映像を読み解く際(リーディング)の方法と考えられていたのですが、実はそんな単純なものではないはずだということが、わかりやすく伝わってくる講演でした。

 物事を「読む」ために。

 あるいは、「世界」を解釈するために。

 二律背反的な「矛盾」そのものを、どう面白がって発見できるのか。複雑で重層的なものなんだと受け止めて行けるのか。そのアンテナの鋭さとか、精神面・思考面での「筋肉」の柔軟性が、問われてくるのだと思います。

 「○○ VS ●●」という風に、単純な対立軸で物事を捉えていないかどうか。総点検する必要があるのかもしれないです。物事は単純化して考えた方が、ある意味では「楽」だったりするわけですが、楽して得られる「答え」なら、もうとっくの昔に出てるはずでしょ。

 あ〜。いろいろと整理できたぁ〜。

 質疑応答の際に、斉藤さんは映画『セルロイド・クローゼット』をどう評価しているのかを聞いてみました。そしたら、『ベン・ハー』のエピソードを紹介している部分が最も面白かったとのこと。主人公の男と男の濃密な関係が暗示されている映画なのですが、監督は、片方の役者には決して「そのこと」を伝えずに撮影したというエピソード。 たしかに演出論として、とても面白い事例ですよね。

 その後、もう一度発言できたので、「僕としては『セルロイド・クローゼット』は、どうも旧来の活動的な『カミングアウト!』色(隠されていたものを暴きだそうという方向での強い意志)を感じて辟易とするのですが・・・。もし今後、日本映画で日本版の『セルロイド・クローゼット』を作る場合には、もっと重層的で複雑な『読み』を意図しながら、作られるのかもしれないですね」と問いかけてみました。

 すると斉藤さんは、日本では例えば木下恵介監督がゲイ的感性を強く持っていたことなど、表立っては語られていなくても身内や仲間には周知の事実だったという例などがあり、そういうことが曖昧に受け止められていること。また、具体的な作品では内田吐夢監督の『警察官』にて、映像から明らかに、男性同士の(セクシュアルな意味も含めて)複雑で重層的な関係性が読み取れたりすることなどを教えてくださいました。

 そして、今後もし日本版『セルロイド・クローゼット』が作られるとしたら、『現前しているイメージの中から、どう重層的に読み取って行けるのか』がポイントになってくるだろうとも、語ってくださいました。

石井郁子著『異才の人 木下恵介―弱い男たちの美しさを中心に』

 僕は以前より、『日本版セルロイド・クローゼット』みたいなものを、いつか創りたいと思っているのですが、「もし日本で作るとしても、ゲイリブ的な方向性での単純なプロパガンダ映画にはしたくない。そんなもん、作る前から完成形が見えてんじゃんつまらない。」と思い、どうアプローチしようかと掴みあぐねていたんです。(笑)、その違和感に言葉を与えられ、大いなる示唆をもらったシンポジウムでした。FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム029●硬いから折れるんだよ。

 今の自分は何に関しても、早急に「答えを求めること」には興味がなくなった。

 むしろ、「答え」を疑い続けるべく自らの視点を動かし続け、世界の複雑さを、より深く広く厚く知って行くことに興味がある。

 たぶん、「ゴールがある」と単純に信じている人というのは、そこに至るまでの最短距離から外れるものを、「役に立たないもの」だと判断し、切り捨てるんだと思う。

 自分にとっての「ゴール」が、他者にとっても同じように「ゴール」なんだと勘違いしたりなんかもしてしまうようだ。

 そういう傲慢な思考に取りつかれると、他人のことを「自分にとって役に立つか立たないか」で選別し始め、態度にあからさまに出したりする。

 …そういう人は次第に周囲から孤立し、壊れて行った。

 
パフナイト「レズビアンアクティビストから国際ジャーナリストへ」PLAYLIST

 関わる人たちが幸せになれないアクティビズムなんて、真のアクティビズムじゃないだろう。そんなもん…むしろ無い方がいい。

 わかりやすい答えなんて求めない。柔らかくしなやかであることこそが、真に「強い」ということなのではないか?FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム028●自民党とのりピー

 民主党、信じらんないくらいの圧勝しましたけども、勝たせ過ぎるとまた問題が出てきますよね…困ったもんだ。

 そもそも「権力」を持つ側になると、どんな人でも初心を忘れて偉ぶるようになるというのが人の常。人間ってのはそんなに出来がよく作られてはいませんから、今回、新鮮な思いで国政に参画し始める新人たちも、そのうち大体の人が「権力者が陥るパターン」を踏襲し、腐敗したり初心を忘れて行くことでしょう。

 しかも、ここまで集団として「力のある」状態で行くことですから、慢心が生まれ始めるのは時間の問題でしょう。

 ここ最近、日本の社会風俗面でセンセーショナルに騒がれた大きな事件って実は、権力を握る側にいた人の「奢り」や「慢心」の隙が見え、メッキがはがれて崩壊する様子を皆で楽しむという共通点があるように思います。たとえば「草なぎ」さんの件。SMAPという日本の芸能界の「頂点に立っているというブランディング」がなされていたアイドルグループのメッキを、見事にはがしてしまいました。

 あの事件以降、「トップブランド」を保つために本人たちが狡猾に振る舞っている嘘っぽさが鼻につくようになってしまい、レギュラー番組の視聴率は目に見えて下がり続けており、痛々しさが目立つようになりました。

 そして、酒井法子さんの件。これも「ブランディングの崩壊」ですよね。のりピーネタを書きさえすれば、週刊誌も夕刊紙も飛ぶように売れるから書く。視聴率が稼げるからテレビでも長時間放送する。テレビ放送時間を調査する会社のデータによると、8月は選挙の報道と拮抗するくらいにたくさんの量の「のりピーネタ」が放送されていたらしいです。

 なんでそんなにこのネタが求められるのか。要するに「スカッと」するんですよね、メッキのはがれっぷりと崩壊していく様が、爽快感をもたらしてくれるんです。どこまで落ちっぷりをあからさまにしてくれるんだろうという好奇心を刺激してくれるんです。

 現在そういう方面にエスカレートしている大衆心理の矛先が、今回の選挙における自民党にも向けられたわけです。「自民党ブランド」が崩壊し、偉そうにふんぞり返っていた人たちの「メッキ」がはがれて下野する姿を、心の奥深いところでは見たがっている。つまり、のりピーネタの週刊誌を覗き見る感覚と似ているような気がします。

 のりピーはもしかして、政界にまで大きな影響を与えてしまったのかもしれません。昨今の景気後退がもたらした大きな変化は、権力者や大物たちの「奢り高ぶる態度」に対する反発感情を過敏にさせ、「どうせなら、こき降ろしてみたい」という欲望が醸成されたということでしょうか。 生活で必死なのに、なんで偉ぶる奴をのさばらしてなきゃいけないのか。バカらしくて相手してらんないんですよね、今の生活感覚って。

 この大きなパラダイムシフトに気付けない旧態依然とした「大物」たちは、これからどんな分野においても駆逐され、生き残っては行けなくなることでしょう。

 次の選挙で今度は民主党が、こうした大衆心理の餌食にならないように、どうか奢り高ぶらず謙虚な姿勢で難局を乗り切ってほしいのですが・・・たぶん難しいだろうなぁ。FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム027●「ある日、犯人にされた市民」が鳴らす警鐘

 小児性愛者であると勝手に決め付けられ、性的欲望から少女を殺したという罪を着せられ17年半も刑務所に入れられていた菅家利和さん。いわゆる「足利事件」の冤罪被害者ということで世間の注目を集めたわけですが、いったいどんな人なのか直接見てみたいと思い、新著出版記念トークショーに行ってきました。(28日19時に神保町の三省堂書店で開催)

新著
『冤罪  ある日、私は犯人にされた』

 弁護士の佐藤博史さんも同席して行われたトークでは、まず6月に出所してから「社会復帰」した菅谷さんが携帯電話の小ささに驚いたり、世の中の色々なことにいちいち感動する日々が続いているエピソードが紹介されました。菅谷さんの自宅に、ある日いきなり警察が踏み込んで逮捕状もないままに取り調べを開始したのは1991年12月2日のこと。YouTubeに当時のニュース映像があったのですが、アナウンサーの髪型と服装に、バブリーな頃の空気が感じられますねぇ。

●YouTubeより〜足利事件(逮捕当時のニュース)
  

 ちなみにこの当時、静香姉さんはなにを歌っていたのか調べてみたら「メタモルフォーゼ」でした。(静香ソングでなければ時代を実感できないもので。←オイ!)

●YouTubeより〜工藤静香 メタモルフォーゼ
 

 ・・・ヘアメイクがバブル全開(爆)。あ、そうそうバブル崩壊っていうのは、どうやらこの年に始まったらしいですよ。っつ〜か、そん時から今年の6月までず〜っと濡れ衣着せられて刑務所に入れられてた菅谷さんの人生って・・・こうして実感してみると本当にとんでもなさすぎっ!

 「気が弱くて、人とろくに話もできなかった」という引っ込み思案な性格だった菅谷さんは、その「人の良さ」が災いしてどんどん、声が大きく力もある威圧的な態度の人々の言うがままに流されてしまいます。取り調べの辛さから逃れるために「嘘の自供」をし、他の2件の少女誘拐殺人事件の罪も着せられるのですが、そちらも「自供をすれば取調官が優しくなるから」という心理が働き、どんどん自分がやったことにしてしまいます。

 気の弱い人が、苦しみから逃れるために「相手の喜ぶことを言う」ことで、自己を防衛しようとする。そういうことって充分にあり得ることだと思います。そう考えてみると同じような例というのは、いくらでも発生する恐れがあるなぁと思い、ゾッとしました。

『訊問の罠 ――足利事件の真実 (角川oneテーマ)』

 自分の力ではどうにもならないような「強い力」を前にした時。一個人はどれほど無力な存在か。そういう意味でも、本来ならば「弱者の味方」であるべき警察や検察・裁判官が「一体何を最優先にして動いていたのか」も、厳しく問い直されるべきだし、そのためにシステムの面から改善すべきところは変えていかなければ、同じようなケースは今後もいくらでも起こり得るのではないかと思いました。

●YouTubeより〜栃木県警本部長、石川正一郎が足利事件で謝罪
 

●足利事件 ひどい!裁判官の職務怠慢
 

 当時、栃木県内では3件も連続して幼女誘拐殺人事件が起きており、それらを解決できていない栃木県警には相当なプレッシャーがかかっていたそうです。そして、精度がそれほど高くはないDNA鑑定の結果が刑事たちの冷静さを失わせたという側面もあるようです。組織の体面のために、無実の人の人生が狂わされたわけですから、本当にとんでもないことです。

 当時の菅谷さんは「自分が(取り調べの教諭から逃れるために)このような自供をしても、やっていないものはやっていない。ちゃんと裁判所が調べれば事実はわかるはずだ」と心の中では裁判官を信じていたそうです。つまり「司法の力」を信じていたわけです。しかし、肝心の「司法」は17年間も裏切り続け、さらには他の2件の殺人事件の罪を菅谷さんに被せることに加担し、あと少しで「死刑判決」が出されたかもしれなかったのです。

 「死刑執行」には、われわれが日々納めている税金が使用されています。決めるのは大臣だとしても、必ず誰か「個人」の手によって執行が行われています。死体を片づける人だって居るのです。執行場の掃除をする人だって居るのです。「不可視化」されているから実感できませんが、血なまぐさいものなのです。

参考映画:大島渚監督『絞死刑』
『大島渚 1 - 飼育/忍者武芸帳/絞死刑 [DVD]』

 「大きなシステムの維持」のためだと割り切り、誰か「個人」が責任を負わず、罪の意識を感じずに済むような社会構造。自己保身のために長いものには巻かれようとする、弱い一個人。これは「国」というシステムにおける「個人」の存在が構造的に持ってしまう問題であり、ナチスドイツや大日本帝国の頃から、根本的には変わっていないと言えるでしょう。

●YouTubeより〜絞首刑の解説ビデオ(グロ無し)・・・大島渚監督のATG映画「絞死刑」の一部です。20歳頃にこの映画を観た際にはショッキングでめまいがしました。「映像で具体的に描き出す」ことの意味を問うという意味でも、忘れられない衝撃をもたらした映画として強く記憶に残っています。
 
『大島渚 1 - 飼育/忍者武芸帳/絞死刑 [DVD]』

 逮捕当時ものすごく気弱だった菅谷さんは、取調べでは「生き抜くために」嘘の自供を重ねて恐怖から逃れていたわけですが、家族への手紙では冤罪を訴え続けました。6月に出所してからは、これまでいろんな意味で抑えつけられていた反動からか、どんどん気持ちが強くなってきているとのこと。この日のトークでも、その力強い語り口調が印象的でした。 内面から沸々と湧きあがるマグマのようなものが、62歳という年相応の落ち着きの中にも垣間見えていました。

 菅谷さんが刑務所で感じていたところでは、あと2〜3件は明らかに「冤罪」で捕まっている人が居るとのこと。今後は仕事に就いて、地元に帰って暮しながら、他の「冤罪」と思しき事件の解決を促すための活動に関わっていくとのことです。

●YouTubeより〜20090604麻生ぶら下がり「冤罪と可視化」
 

 取り調べの可視化、僕の感覚では「なぜできないのか」の理由がわかりません。「出来ない」というのならば、まずはその理由をわかりやすく世間に言葉として提示し、大勢の納得を得たうえで「不可視化」を続けるべきではないでしょうか。その任務を遂行するための税金を払っているスポンサーとして、そう思います。

 また、宮崎勤氏の事件(1989年)以降、「小児性愛者」への社会的偏見は過剰なものになっているように思いますし、この「足利事件」もその影響をもろに受けた事例ではないかと思います。そして、独身で暮らしている中年〜高年齢の男性に対する社会的な蔑視感情という問題も浮き彫りになっているのではないかと思います。菅谷さんが当時暮らしていた部屋からは200本以上のビデオテープが押収されたわけですが、その中にアダルトビデオが含まれていたことも、警察が「彼を犯人とする」際の理由に挙げられていたそうです。

 菅谷さんが語っていたところによると、ビデオの大半はレンタルビデオ店で安く売られていた「男はつらいよ」や「時代劇」「ハリウッド映画」などであり、アダルトビデオはほんの一部とのこと。しかも、どちらかというと菅谷さんが性的な趣味としてビデオを見る際に好む女性のタイプは少女ではなく、大人で力強いタイプの女性であり、AVもそういうものばかりだったとのこと。つまり「小児性愛者」であるという証拠には、まったくなっていないのです。

 また、逮捕前は幼稚園や保育園でバスの運転手をして生計を立てていたのですが、仕事をしながら「子どもが好き」だと語っていたことも、「小児性愛者」にされる理由に利用されたのとこと。『「好き」の意味が違うわけですがね」と笑って語っていた菅谷さんの目の奥は笑っていないように感じました。

 こうして、社会的な偏見やバイアスというものは時に真相究明の目を曇らせるものであるということも、強く認識しておかなければならないという警鐘を、この事件は鳴らしているとも言えるでしょう。セクマイ問題にとっても、この事例は他人事ではないのでは?。僕はそう感じました。FC2 同性愛 Blog Ranking


菅家利和著『冤罪  ある日、私は犯人にされた』
佐藤 博史、菅家利和著『訊問の罠 ――足利事件の真実 (角川oneテーマ)』

akaboshiコラム026●♪白いクスリ〜

 この動画、最初にYouTubeで見たときには、おもわずスカッとしたし、「初音ミク」っていう存在もついにここまで社会性を帯びてきたかと、逆に見直したんだけどね〜。

 

「碧いうさぎ」替え歌「白いクスリ」、削除申請の理由をクリプトンが説明 (IT media)

 この程度で「イメージダウン」を気にして削除申請するなんて、クリプトンってところは了見が狭すぎるでしょ〜。

 そもそもこうした事件や社会問題は、太古の昔から辻立ちのチンドン屋とか新聞売りが、面白おかしく歌や漫画にすることで広まってたわけでしょ。江戸時代の浮世絵なんてのはそういう表現だったわけだし。庶民の間で歌われた「戯れ歌」だってそう。

 ジャーナリズムの原点というか、始原の形と言ってもいいわけで。日本のネット動画を象徴するキャラである「初音ミク」に、これくらいのことを歌わせないでど〜するよ!FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム025●「男のコになりたい」は遥か昔。虚像は実像。実像は虚像。

 のりピー出頭!とりあえず良かった〜(っていうのもなんだけど。)自分や子どもの将来等を考えた時には、この状況下ではそれがベストでしょ〜。周囲も「罪を憎んで人を憎まず」の精神で、社会的な制裁が済んだら必要以上に騒ぐのはやめ、お子さんにこれ以上のトラウマを生じさせないような配慮を最優先にすべきだと思います。

 ところで、のりピーのデビュー曲といえば「男のコになりたい」だったことを思い出し、タイトルがセクマイ的にも気になるので(笑)どんな歌だっけとYouTubeで聴きなおしてみたら・・・

  

 ・・・性別違和とは関係なかったみたいですねぇ〜(爆)。片思いの人のことを深く知りたいがあまりに、「男のコ」になって接近してみたいぃ〜♪という、つまりは乙女心を歌っているわけで、まさかあの『嵐の素顔』と同じ三浦徳子さんの作詞とは思えないファンシーな世界観には仰天!(当時の職業作詞家の仕事って幅広っ。)

 映像は『ザ・ベストテン』に初登場したときのものですが、歌詞のテロップが自筆のようで、「のりピー文字」は「ケータイ絵文字の元祖」だったんだと気づきました(爆)。

 番組初登場が浅香唯さんと同じタイミングだったんですねぇ。当時はランキングのほとんどをアイドルが占めてましたっけ。学校でも「アイドルファン」であることを公言しても白い目では見られなかった牧歌的な時代だったなぁ。(それが一般的だったから。)ちなみに工藤姉さんはこの半年後に、おニャン子クラブの解散に合わせて「最後の切り札」として華々しくソロデビューすることになるわけですが、のりピーとは同期だったんですね。

 酒井法子さんのデビュー当時、僕は中学生だったのですが、当時すごく仲の良かった友人(←男)が大の「のりピーファン」でファンクラブにも入っていて、その子の家にファミコンをやりに行くと、うるさいくらいに聴かされてましたっけ。特にたくさん聴かされた憶えがあるのが「のりピー音頭」。・・・彼には悪いけど、ちょっとしたトラウマになってるかも(笑)。

  

 たしかこれ、カセット限定発売の企画モノでした。当時はCDの普及がようやく本格化し始めた頃。レコードもまだまだ主役として流通してました。映像は「夜ヒット」なわけですが、よくもまあ他の歌手の方々、顔が引きつりながらも一緒に踊ってくれてますねぇ。こんなことが義務として強いられていたから、ロック系・ニューミュージック系の「アーティスト」たちはテレビ出演を敬遠してたんだろうなぁ。

 僕は酒井法子さんに関しては、「嫌いではないけど積極的に好きでもない」という感じでしたが、歌唱力がイマイチだからこそ醸し出される(?)親しみやすいキャラクターには惹かれてましたし、まるで「同級生」に感じるのと同じような感覚を勝手に抱いてました。

 だから今回の騒動はショックだったけど、ある意味では意外ではなかったです。デビュー当時の素朴な田舎娘っぽい路線とは違い、近年の彼女が醸し出していた「セレブ系好感度ママタレント」路線のキャラクターからは、かなり背伸びした感じが漂っていましたし、相当にストレスが溜まる役回りだろうなぁと思っていましたから。いろいろ大きくなりすぎちゃったような気がします。権力者になっちゃった。

 人間ってのは良い面も悪い面も、しっかりした面もだらしない面も、一人の人格の中に「共存」しているものだと思うので、対外的に無理やり「模範生・優等生」である自分の一側面を強調して出し過ぎると、バランスを取るために自身の内面に歪みや闇が生じるのは必然。よっぽど強くて鈍感な人間でなければ、その重圧に押しつぶされないように、なんらかの逃げ場を求めることでしょう。

 なにが実像でなにが虚像なのか。いろんな矛盾が感じられて、「わからない」と感じがちではありますが。どの顔の彼女もまぎれもなく彼女そのもの。人間というものは根源的に矛盾を孕んだ複雑な生き物なのではないでしょうか。FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム024●厚顔無恥!?それとも立派!?インターネット時代を象徴する「映像戦」

 ネットの市民メディア系のサイトを久々にいろいろ見てみたら、こんな動画が話題になってました。ニュースサイト等でも取り上げられ、無視できないレベルの反響を呼び起こしているようです。現在、この映像は488,495viewを記録。(8月2日10:00現在)

 

この動画を報じたニュースサイト
小泉元首相次男に非難殺到 対立候補のあいさつ「無視した」?(J‐CASTニュース 7/6)
小泉進次郎氏、YouTube「握手無視」動画で初めて釈明 「有権者とふれ合いたかった」(MSN産経ニュース 7/26)
小泉息子・進次郎が握手ガン無視 / ネット動画に苦しい釈明(まぐまぐニュース 7/27)

 僕は神奈川11区の有権者ではないので、どちらの候補にも特別な思い入れはないのですが、最初に『小泉進次郎 vs よこくめ勝仁 対面でも完全無視 in 横須賀』という賑々しいタイトル付きでこの映像を見たときには、小泉進次郎氏の態度からは「おぼっちゃま」に特有の、世間知らずであるが故の厚顔無恥な側面を感じてしまいました。

 その後、冷静になって見返してみたところ、彼の支援者の側からするとこの映像は「一貫性があって立派な態度」にも見えるのだろうと思いました。相手に媚びずに戦っている姿勢を、支援者の前に示していることにもなるわけですから。実際の本人のことは知らないので、この映像だけで人間性を判断するのは危険なのではないかと思い直しました。

 こういう映像に接するときは、タイトルにも印象が大きく左右されますから直情的には受け取らず、冷静に捉えることが大事だと思います。2007年の尾辻かな子さんの選挙を取材していた時に見ていた実際の現場では、「相手候補に挨拶をする」人もいれば「まったく無視をすることを徹底している政党」もあって、いろいろだなぁと感じましたから。小泉進次郎氏だけが特別、厚顔無恥なわけではないわけです。しかもこれは5月の映像であって、選挙期間中ではないわけですし。

 ただ、インターネットっていうのは構造的に「権威・権力」的なものを表面上は無化して「フラット」にしているかのような感覚をユーザーに与えますから、こういう行状の場面のみをピックアップして載せられた際には、最も「叩かれるネタ」になるわけで、そこが従来のマスメディアとは違う、インターネットの可能性でもあり限界でもあるわけです。そういった側面を狡猾に「戦いの道具」として利用する人たちも、今回のようにこれからたくさん出てくることでしょうから、ユーザーとしては警戒心と冷静な判断力が必要でしょう。

 また、各候補者には従来のマスメディア対策だけではなく「ネット報道」への気配りも、本気で必要な時代になってきていることが象徴された騒動でもあります。すでに「報道」は、ある限られた特権的な人たちのみが担う時代ではなくなっています。誰がいつ、影響力のあるメディアになるのかもわかりません。・・・報じられる側としては、気が抜けないでしょうね〜。FC2 同性愛 Blog Ranking

akaboshiコラム023●惚れさす技術

 先日、まるで自分が「ロビイングされる側」に立ったかのような気持ちになる経験をした。つまり、さまざまなプレゼンが行われる場において、プレゼンを「聴く側」にも廻ったわけだ。

 自分のプレゼンのことはさておいて、他人のプレゼンを聴きながら思ったのは、意見を相手に通すにはきっと、「人間心理」というものへの相当に細かな配慮が必要になってくるのだろうということだ。

 自らが提案するプロジェクトへの思い入れが強ければ強いほど、人は、肩をイカらせて「力説」しがちだ。そして、相手の心に届けたいがあまりに、手を替え品を替え、いろんな言葉を駆使していつまでも語り続けたりする。

 それらの言葉の多くは、冷静に考えれば同じ内容の繰り返しに過ぎなかったりするのだが、気持ちが昂ぶる提案者としては、「まだまだ言い足りない」と思って語り続ける。そして、繰り返せば繰り返すほどに、口調は荒く攻撃的になる。

 それを聴かされている側としては・・・最初は冷静に「そうかもなぁ」と、相手の意見を新鮮な気持ちで聴いていられるのだが、いつまでも捲くしたてられ続けているとだんだん「押し」の強さに辟易してくる。

 なぜなら、攻撃的な口調を一方的に聴かされることほど、人を不快にさせるものはないからだ。自分が屈服されているような気がしてくる。そして次第に、その意見の内容には関係のない「感情」の部分で「いいかげんにしてくれよ」という気持ちが湧いてきてしまう。つまり、生理的な拒否反応が起きてしまうのだ。

 そうやって聴き手に拒否反応が起きた頃。困ったことに、意見を提案している側としては「こんなに言ってるのに、まだ届いてないのかしら」と焦り、念を押すために更に強く感情を込め、言葉を重ね続けたりする。そうなると逆効果。聴き手としては、さらに嫌気が増してしまう。こうして結果的には悪循環のループに陥ってしまうのだ。

 プレゼンテーションの終了後には、ただ発言者の「押しの強さ」ばかりが印象に残り、「自分が自分が」と自己中心的なプレゼンだったなぁという、余計な印象が付いてしまう。各方面とのバランスを調整する必要がある案件の場合、特にその印象は強くなる。

 そして、「あれだけ強くプレゼンテーションできるのならば、なにも我々がそのプロジェクトを支持しなくても、他の機会に上手く通すことができることだろう。それよりは、ここでしか通らないかもしれない提案者の企画を通すことにしよう」という風に話が進む事だって、有り得るのではなかろうか。

 人に何かを伝える時。伝える側にとって気持ちいいことが、伝えられた側にも気持ちいいとは限らない。

 むしろ逆の場合が多いだろう。これは演劇における役者の演技に置き換えても言えることだ。想いを込めて強く激しく演じれば観客や相手役に的確に表現できるかと言えば、そうではないことがほとんどだ。

 むしろ冷静な思考を常に同居させ、腹八分目のレベルで感情を抑えてコントロールしながら演じた方が、相手には効果的に伝わることが多い。つまり、役者にとって気持ちのいい自己没入型の演技というものは、その独りよがりな様子が観客にとっては「不快」だと感じられることが多々あるのだ。

 本当に意見の内容を相手に効果的に伝えたいのならば。意識して冷静に語るように務め、相手に「ものを考えるための隙間」を与え、感情的な拒否反応を起こさせないように柔らかく優しい物言いを心がける節度や抑制力が必要になってくるだろう。つまり「演出家的なセンス」が必要なのだ。

 この場合、発言者にとっては「想い」が十全に発散できない分、気持ちいいことではないかもしれない。しかし、その方がかえって相手の主体的な関心を呼び起こし、結果的には「心」を掴める可能性も増すことだろう。そのバランス感覚を掴むことこそ、ロビイングや交渉事を担う者に不可欠なセンスなのではなかろうか。

 なぜなら人は、ミステリアスなものや未完成なものにこそ、可能性を感じて惹かれるからだ。押し付けがましく自己完結した隙のない振る舞いや発言には「エロス」(色気)がない。つまり、魅了されない。

 さらに言うならば。伝えたい相手を敵視していては、相手も身構えてしまうだろうから真の意味で心を掴むことなど出来やしない。すなわち相手に「惚れさす技術」こそが、人と人との関係を具体的に築きつつ社会を変えて行くために、必要不可欠なものなのだ。

 片思いの相手にアタックするときの心構えと同じなのかもしれない。押しが強すぎると相手は逃げてしまうから、駆け引きできる冷静さが必要。相手を人間として愛おしく尊重しながら、そっと。やさしく。(でも狡猾に。爆)FC2 同性愛 Blog Ranking

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